第42話:友達って、なんだろう
十一月のある昼下がり、二十代の男性が来た。
背が高くて、少し猫背で、どことなく疲れた顔をしていた。
でも目は真面目で、悪い人間ではないとすぐわかった。
糸を確認した。
赤い糸はない。白い糸が何本か。
そして、一本だけ、妙な糸があった。
黒とまでは言えない。でも、灰色より暗い。
友人の方向へ伸びていた。
搾り取られている糸だ、と思った。
「あの、占いって、友達のことも相談できますか」
男性が暖簾をくぐりながら言った。
「もちろんですよ」澄江さんが言った。「どうぞ」
男性が座った。
「渡辺雅紀といいます。二十四歳で」
「どうぞ、ゆっくり話してください」
雅紀さんが少し間を置いた。
「友達が、なんか、おかしい気がしてきて」
「中学からの友達なんですけど」
雅紀さんが言った。
「松田っていうんですが」
「どんな子ですか」澄江さんが聞いた。
「明るくて、面白くて。一緒にいると楽しいんですよ。でも、なんか、最近おかしいなって思い始めて」
「おかしい、というのは?」
「まず、お金の貸し借りが多くて」
雅紀さんが言った。
「ちょっと貸してって言われて、貸すんですけど、返ってこなくて。今まで合計すると、たぶん三十万くらいになってて」
澄江さんが「まあ」と言った。
「それだけじゃなくて、大学のときもレポート書いてあげたり、引っ越しの手伝いを三回したり。先月は松田の彼女のプレゼントを一緒に選びに行って、なぜか代金を立て替えて、まだ返ってきていなくて」
「それで、また連絡が来たんですか」
澄江さんが聞いた。
「一昨日また来て」
雅紀さんが続けた。
「引っ越しの手伝いを頼みたいって。でも、今度は松田じゃなくて、松田の彼女の引っ越しで」
「まあ」
澄江さんが言った。
「彼女の引っ越しまで」
「会ったことも、ないんですよ、松田の彼女」
雅紀さんが言った。
「でも、断れなくて、わかったって言ってしまって。なんか、おかしいなと思って、ここに来てしまって」
澄江さんが「おかしいと思うのは、正しいと思うわ」と言った。
そのとき、ほころび庵の暖簾が開いた。
二十代の男性が入ってきた。
雅紀さんより少し小柄で、愛嬌のある顔をしていた。
「雅紀、ここにいたんだ」
男性が言った。
「既読無視するから、探しちゃったよ。占い? へえ、らしくない」
「松田」
雅紀さんが言った。
「なんで」
「返事くれないから心配して」
松田さんが言った。
「引っ越しの件、大丈夫? 来週の土曜なんだけど」
「どうぞ、座ってください」
澄江さんがにこにこした。
松田さんが「え、俺も?」と言いながら、椅子に座った。
私はカウンターの端で、松田さんを観察した。
糸を確認した。
悪意がある糸ではなかった。
ただ、雅紀さんへの糸が、完全に一方通行だった。
もらうことに、慣れすぎている人間の糸だ。
松田さんがスマートフォンを出した。
「雅紀、彼女の新しい住所、送るね。当日十時集合で」
「ちょっと待って」
雅紀さんが言った。
「ん?」
「その前に」
雅紀さんが続けた。
「俺の連絡先、彼女に教えたの? さっき知らない番号からLINE来たんだけど」
「あー」
松田さんが頭をかいた。
「引っ越し手伝ってもらうから、直接連絡した方が早いかなって」
「俺に確認もしないで?」
「だって雅紀なら断らないだろ」
店内が、少し静かになった。
雅紀さんが「断らないだろ?」と繰り返した。
「うん」
松田さんが言った。
「今まで断ったことないじゃん」
私は、松田さんのスマートフォンを見た。
テーブルの上に置いてあった。画面が光っていた。
私は肉球で、スマートフォンをそっと回した。
「あ、猫」
松田さんが言った。
画面が、雅紀さんの方を向いた。
通知の内容が、見えた。
グループトークだった。
名前は「引っ越し隊」だった。
最新のメッセージが、画面に出ていた。
『松田、例の友達本当に来るの?』
その下に、別のメッセージがあった。
『引っ越し代浮いて助かる〜』
さらにその下。
『その友達ほんと頼りになるよね笑』
雅紀さんが、画面を見ていた。
動かなかった。
「これ」
雅紀さんが静かに言った。
松田さんがスマートフォンを引っ掴んだ。
「いや、これは、冗談で言ってるだけで」
「ただ働…便利屋みたい」
雅紀さんが繰り返した。
「俺のこと、そう思ってたんだ」
「違う、その、そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味だ」
松田さが黙った。
雅紀さんが続けた。
「三十万も返してないのに」
雅紀さんが言った。
「なんで俺、何も言わなかったんだろうな」
松田さんが、少し間を置いて言った。
「言わないと思ってた」
また静かになった。
「お前なら大丈夫だと思ってた」
雅紀さんが、松田さんを見た。
「大丈夫って」
「頼んだら、嫌なら断ると思ってたから」
松田さんが言った。
「断らないから、大丈夫なんだと思って」
「だってお前優しいし」
松田さんが続けた。声が、少し小さくなっていた。
「頼めばやってくれるし」
雅紀さんが「それって」と言った。
「友達だから頼んでたの?」
松田さんが「え?」と言った。
「友達だから頼んでたのか、便利だから頼んでたのか」
松田さんが初めて、詰まった。
「いや……」
「どっちだ」
松田さんが黙った。
長い沈黙だった。
私はカウンターの端で、二人を見ていた。
澄江さんも、黙っていた。
この沈黙は、澄江さんが破る場面じゃない。
雅紀さんが、自分で立つ場面だ。
「引っ越しの手伝い、今回は無理だ」
雅紀さんが言った。
「雅紀」
「お金は、少しずつでも返してほしい。引っ越しは、自分でなんとかしてほしい」
雅紀さんが続けた。
「あと、俺のことを便利屋扱いするのは、やめてほしい」
「それは」
松田さんが言った。
「冗談で」
「俺は笑えない」
雅紀さんの声は、怒っていなかった。
ただ、静かで、真っ直ぐだった。
松田さんが、また黙った。
しばらくして、言った。
「ごめん」
今度の「ごめん」は、さっきと違った。
軽くなかった。
「俺、たぶん、お前を友達だと思いながら、便利屋みたいに扱ってた」
松田さんが言った。
「気づいてなかった。でも、そうだったと思う」
「うん」
雅紀さんが言った。
「俺も悪かった」
雅紀さんが続けた。
「断らなかったから。おかしいと思っても、言わなかったから」
松田さんが「そんなことない」と言った。
「ある」
雅紀さんが言った。
「言わない俺にも、問題があった。でも、もう言う。これからは言う」
松田さんが頷いた。
「わかった」
松田さんが言った。
「返す。ちゃんと返す」
「うん」
二人が向かい合ったまま、少し間があった。
それから、雅紀さんが言った。
「また飯、行こう」
「行く」
松田さんが言った。
「絶対行く」
二人が出て行った。
澄江さんが「よかったわね」と言った。
「雅紀さん、ちゃんと言えたわ」
私は窓から、二人が商店街を歩いていくのを見た。
並んで歩いていた。
雅紀さんの妙な糸が、さっきより薄くなっていた。
でも、松田さんとの糸は、切れていなかった。
傷ついたけれど、切れなかった。
そういう縁が、ある。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
「スマートフォン、また回したのね」
私はそっぽを向いた。
たまたまだ。
「でも」
澄江さんが続けた。
「大事なところで、ちゃんと二人に任せたわね」
私は澄江さんを見た。
そうだ。
あの沈黙は、私が破る場面じゃなかった。
雅紀さんが、自分で立つ場面だった。
仕込みは、スマートフォンを回しただけ。
あとは全部、雅紀さん自身が言った。
それで、十分だった。




