第41話:私の人生は私が決める
十一月のある午後、二十代の女性が来た。
細身で、髪を後ろで束ねていた。
服装は地味だった。
でも目が、何かを決めてきた目をしていた。
糸を確認した。
赤い糸が一本、細いが真っ直ぐだった。
白い糸が何本か。でも、その中の二本が、妙に絡まっていた。
絡まり方が、健二さんが最初に来たときの糸と似ていた。
でも、健二さんのは自分で絡まらせていた。
この女性のは、外から絡まらせられていた。
「いらっしゃいませ」
澄江さんが顔を上げた。
「あの」
女性が言った。
「相談があって。でも、急いでいて」
「どうぞ」
澄江さんがハーブティーを出した。
女性が座った。
「私、好きな人がいて。付き合っていて。でも親が反対していて」
澄江さんが「どんな方ですか、お相手は」と聞いた。
「同い年で、今就職活動中で。親は収入が安定していないから反対していて。でも、私は一緒にいたくて」
「あなた自身は、どう思っているんですか」
澄江さんが聞いた。
「一緒にいたいです」
女性がはっきり言った。
「でも、親が」
女性が続けた。
「私のお金、全部親が管理していて。通帳も印鑑も、全部親が持っていて。アルバイトの給料も、一度親の口座に入れて、月に決まった額だけもらう形で」
私は女性を見た。
白い糸の絡まりが、よく見えた。
外から絡まらせられている。
この女性は、自分で絡まらせているわけじゃない。
「それは」
澄江さんが少し声のトーンを変えた。
「いつからそういう形なんですか」
「ずっとです。高校のころから」
女性が話し始めて、十五分ほど経ったころだった。
ほころび庵の暖簾が、勢いよく開いた。
五十代の夫婦だった。
母親が先に入ってきた。父親が後ろに続いた。
「美羽、やっぱりここにいた」
母親が言った。
美羽さんが、固まった。
「お母さん、どうして」
「心配したのよ。急にいなくなるから」
母親が店の中を見回した。
「ここは何? 占い?」
「お邪魔します」
父親が一応頭を下げた。でも、目は笑っていなかった。
私は両親を見た。
糸を確認した。
母親の糸が、美羽さんの方向へ伸びていた。白い糸だ。でも、太すぎた。太すぎて、絡みついていた。
父親の糸も、同じだった。
二人とも、愛情がないわけじゃない。
ただ、太すぎる。
「美羽、帰るよ」
母親が言った。
「お母さん」
美羽さんが言った。
「話している途中で」
「占いなんかに頼るから、変な考えになるのよ」
母親が澄江さんを一瞥した。
「すみません、娘が迷惑かけて」
澄江さんがにこにこしたまま言った。
「迷惑ではないですよ。美羽さんは、ちゃんとした相談をしてくださっていたから」
「相談って」
母親が言った。
「どうせ、あの男のことでしょう。あの子はダメよ、収入もないし、将来性もないし」
父親が「そうだ」と言った。
「美羽の将来を考えたら、あんな男と付き合わせるわけにはいかない」
私は動くことにした。
母親がバッグを持ち直した。
そのバッグから、手帳が少し顔を出していた。
私はカウンターから、音もなくテーブルへ降りた。
母親が「うわ、猫」と言って、一歩引いた。
私は母親のバッグに近づいた。
手帳が、もう少し顔を出していた。
私は肉球で、手帳をそっと引っ張った。
「ちょっと、何するの」
母親が手帳を取ろうとした。
手帳が床に落ちた。
ページが開いた。
父親が拾おうとして、目が止まった。
「これ」
父親が言った。
母親が「何?」と言った。
父親が手帳を持ったまま、動かなかった。
「美羽の口座、ここに書いてある」
父親が言った。
「前から気になっていたんだ。お前、残高を見せたがらなかっただろ」
母親が「そうよ、管理してるから」と言った。
「残高、これだけしかないのか」
父親が言った。
母親が黙った。
「美羽のアルバイト代、毎月いくら渡してるんだ」
「必要な分だけよ」
母親が言った。
「余計なお金を持たせると、変なことに使うから」
「でも、これは」
父親が手帳を見た。
「美羽のお金だろう」
母親が「あなたは黙っていて」と言った。
「黙れない」
父親が言った。
「これは、おかしい」
店内が、静かになった。
美羽さんが立ち上がった。
母親を見た。父親を見た。
それから、静かに言った。
「お父さん、お母さん」
二人が美羽さんを見た。
「私のお金、返してください」
母親が「美羽」と言った。
「私、ずっとお母さんに褒められたくて従ってた」
美羽さんが言った。
「でも一度も、自分で決めさせてもらえなかった」
母親が固まった。
「大学も、バイトも、服も、友達も。私の人生なのに。今まで言えなかった」
美羽さんが続けた。
「心配してくれているのはわかってた。でも、私のお金を管理するのは、違うと思う」
「あなたのためを思って」
母親が言った。
「私のためなら」
美羽さんが言った。
「私に決めさせてください」
母親が口を開いた。
「だって失敗したらかわいそうじゃない。私みたいになってほしくなかったの」
父親が「待て」と言った。
「美羽の言う通りだ」
父親が言った。
「俺も、お前が機嫌悪くなるから、何も言わなかったがお前が管理しすぎていた」
「あなたまで」
母親が言った。
「美羽はもう二十四だ」
父親が言った。
「自分で決める年齢だろう」
母親が黙った。
長い沈黙があった。
私はカウンターに戻って、毛繕いを始めた。
仕込みは、手帳を落としただけだ。
あとは、全部、人間がやった。
しばらして、母親が言った。
「……わかった、通帳は返す」
声が、少し小さくなっていた。
「でも、あの男のことは」
「それも」
澄江さんが穏やかに言った。
「美羽さんが決めることじゃないかしら」
母親が澄江さんを見た。
「霊感もないのに占い師をしているあなたに」
母親が言った。
「娘のことを、何がわかるんですか」
澄江さんがにこにこしたまま言った。
「霊感はないですけど」
澄江さんが言った。
「四十年、人の話を聞いてきたから。それだけはわかります」
「何が」
「美羽さんが、ちゃんと考えているということが」
澄江さんが言った。
「親御さんを心配させたくないから、今まで言えなかった。でも今日、自分の言葉で言えた。それは、立派なことだと思います」
母親が黙った。
父親が「行こう」と母親に言った。
「美羽、また話す」
父親が言った。
「ちゃんと、話す」
両親が出て行った。
暖簾が、静かに揺れた。
店内が静かになった。
美羽さんが、ゆっくりと椅子に座り直した。
しばらく、動かなかった。
それから、小さく笑った。
「言えた」
美羽さんが言った。
「初めて、ちゃんと言えた」
澄江さんが「よかった」と言った。
美羽さんが私を見た。
「猫ちゃん、手帳落としてくれたでしょう」
私はそっぽを向いた。
たまたま、足が当たっただけだ。
「ありがとう」
美羽さんが言った。
私は毛繕いを続けた。
美羽さんの糸を確認した。
白い糸の絡まりが、少し緩んでいた。
完全には解けていない。でも、今日、自分の言葉で言えた。
それで、十分だ。
そして、赤い糸が、今日は前より輝いていた。
細いが、真っ直ぐだった。
美羽さんが帰り際、言った。
「また来てもいいですか」
「いつでも」
澄江さんが言った。
「今度は、もう少し落ち着いた状況で来ます」
美羽さんが少し笑った。
美羽さんが出て行った。
澄江さんが窓から美羽さんの後ろ姿を見送りながら言った。
「ムギちゃん、今日も手帳を落としたのね」
私はそっぽを向いた。
「たまたまでしょうけど」
澄江さんがくすくす笑った。
たまたまだ。
いつも、たまたまだ。
「でも」
澄江さんが続けた。
「美羽さん、自分で言えたわね」
私は窓の外を見た。
美羽さんが商店街を歩いていた。
白い糸の絡まりは、まだある。
でも、赤い糸が、今日一番きれいだった。
前を向いていた。
自分で決める、と言えた人間の糸は、こういう色をする。
律子さんも、健二さんも、彩音も、美羽さんも。
みんな、自分で決めた。
その瞬間の糸が、一番きれいだ。
私はそれを、何度見ても、飽きなかった。




