第40話:野良猫が来た
十月のある朝、ほころび庵の前に、見知らぬ猫がいた。
私は窓から見て、目を細めた。
黒猫だった。
推定二歳くらい。オス。耳の先が少し欠けている。野良猫特有の、用心深い目をしていた。
ほころび庵の軒先に、何食わぬ顔で座っていた。
私の場所だ。
私はそっぽを向いた。
気にしていない。全然気にしていない。
澄江さんが気づいたのは、店を開けて十分後だった。
「まあ、猫ちゃん」
澄江さんが暖簾をくぐって、黒猫を見た。
「どこから来たのかしら」
黒猫が澄江さんを見上げた。
澄江さんが「かわいいわね」と言った。
私は窓から、その様子を見ていた。
かわいい。
澄江さんが黒猫に「かわいい」と言った。
私はそっぽを向いた。
全然気にしていない。
澄江さんが「お腹空いてるのかしら」と言いながら、奥に引っ込んだ。
まさか、と私は思った。
澄江さんが戻ってきた。
手に、小皿を持っていた。
私のご飯を、少し分けていた。
私は窓際から降りて、カウンターの端に移動した。
全然気にしていない。
黒猫が、澄江さんのご飯を食べた。
食べ終わって、また軒先に座った。
帰らなかった。
私は黒猫を観察した。
糸を確認した。
黒猫には、人間のような複雑な糸はなかった。
ただ、細い白い糸が、いくつか見えた。
野良猫にも、縁の糸がある。
商店街の人間たちとの、薄い縁だ。
木村さんが時々餌をやっているらしい糸が、八百屋の方向へ伸びていた。
磯田さんの方向にも、細い糸があった。
この黒猫は、商店街の住人たちに、すでに顔見知りとして認識されていたらしい。
私だけが、知らなかった。
私はそっぽを向いた。
別にいい。全然いい。
昼前、木村さんが差し入れを持って来た。
「あ、クロ来てる」
木村さんが黒猫を見て言った。
クロ。
名前があった。
「知ってるんですか」
澄江さんが聞いた。
「商店街の野良猫ですよ」
木村さんが言った。
「たまに餌やってて。人懐っこいんですよね、こいつ」
木村さんが黒猫の頭を撫でた。
黒猫が目を細めた。
人懐っこい。
私は窓際で、そっぽを向いた。
全然、気にしていない。
午後、事件が起きた。
黒猫が、ほころび庵の中に入ってきた。
澄江さんが「あら」と言った。
「中に入りたいの?」
黒猫が、店の中をうろうろした。
水晶玉の匂いを嗅いだ。
赤いビロードのテーブルクロスに、前足を乗せた。
私のカウンターの端に、近づいてきた。
私はカウンターの端で、黒猫を見た。
黒猫が私を見た。
しばらく、二匹で見合った。
黒猫が「にゃ」と言った。
私は何も言わなかった。
黒猫がカウンターに飛び乗ろうとした。
私は前足で、黒猫の頭を押さえた。
黒猫が「にゃ」と言った。
私は前足を退けた。
黒猫がカウンターに乗った。
私はカウンターの端に座ったまま、黒猫を見た。
黒猫が私の隣に座った。
澄江さんが「仲良くなったの?」と言った。
違う。
仲良くなったわけではない。
ただ、追い出すほどのことでもなかった。
それだけだ。
そのとき、相談者が来た。
三十代の女性だった。暖簾をくぐって、店の中を見た。
水晶玉。赤いビロードのテーブルクロス。澄江さん。
そして、カウンターに並んで座っている、茶白猫と黒猫。
女性が「あの」と言った。
「いらっしゃいませ」
澄江さんがにこにこした。
「今日は二匹いるの、気にしないでね」
女性が「はあ」と言った。
女性が座った。
私は女性の糸を確認した。
黒猫も、女性の方を見ていた。
糸は視えないだろうけれど、何かを感じているのかもしれない。
あるいは、ただ見ているだけかもしれない。
女性が相談を始めた。
仕事のことだった。
澄江さんが丁寧に聞いた。
私は糸を確認しながら、黒猫を横目で見た。
黒猫が、女性をじっと見ていた。
まるで相談内容を理解している顔だった。
もちろん、理解しているはずはない。
たぶん。
真剣な顔をしていた。
猫に真剣も何もないが、そういう顔だった。
私はそっぽを向いた。
相談が終わって、女性が帰った。
黒猫がカウンターから降りた。
そのまま、暖簾をくぐって、外へ出て行った。
澄江さんが「行っちゃったわね」と言った。
私は窓から、黒猫の後ろ姿を見た。
商店街をゆっくり歩いて、角を曲がって、見えなくなった。
結局、何も起きなかった。
黒猫が来て、ご飯を食べて、カウンターに乗って、相談者を眺めて、帰った。
それだけだった。
私は窓際に戻って、丸まった。
夕方、澄江さんが言った。
「ムギちゃん、今日はずっとそっぽ向いてたわね」
私は澄江さんを見た。
「クロちゃんのこと、気にしてたでしょう」
私はそっぽを向いた。
気にしていない。
「いいじゃない、たまに来ても」
澄江さんが言った。
「ムギちゃんだって、最初は迷い猫だったんだから」
私は澄江さんを見た。
そうだ。
私も最初は、ずぶ濡れで鳴いていた迷い猫だった。
名前もなかった。
居場所もなかった。
澄江さんがタオルで包んで、「麦みたいな色だから、ムギ」と名付けた。
あのとき、澄江さんの手が温かかった。
黒猫も、今日、澄江さんの手が温かいと思っただろうか。
私はそっぽを向いた。
知らない。
でも、まあ、たまに来るくらいなら、許してやらないこともない。
それだけだ。
窓の外に、金木犀の香りが漂っていた。
商店街の糸が、夕暮れの中で静かに光っていた。
クロが、また来るかどうかは、わからない。
でも、来たとしても、まあ、いい。
それだけだ。
私は目を閉じた。




