第39話:澄江さんの昔話
九月に入って、商店街に金木犀の香りが漂い始めた。
毎年この時期に、商店街の裏の空き地から香ってくる。誰も気づいていないけれど、私は知っている。
その女性が来たのは、そういう九月の朝だった。
七十代くらいだろうか。白髪を丁寧にまとめて、紺のカーディガンを着ていた。背筋が真っ直ぐで、でも目が優しかった。
暖簾をくぐって、店の中を見回した。
澄江さんを見た瞬間、その女性の顔が変わった。
「澄江ちゃん」
澄江さんが顔を上げた。
一秒、間があった。
「……春江さん」
澄江さんの声が、少し変わった。
私は、二人を見た。
糸を確認した。
女性から、澄江さんへ、白に近い糸が伸びていた。
血の縁ではない。でも、長い年月をかけて積み重なった、厚みのある糸だった。
古い縁の糸だ。
「何年ぶりかしら」
澄江さんが立ち上がった。
「三十年は経つわね」
春江さんが言った。
「通りかかったら、まだここがあって。驚いて、入ってしまったわ」
「そうだったの」
澄江さんがお茶を出した。
「元気だった?」
「元気よ。あなたは?」
「まあ、元気」
澄江さんが笑った。
「少し疲れが出て、のんびりしているけれど」
二人が向かい合って座った。
私はカウンターの端で、二人を見ていた。
澄江さんの顔が、いつもと少し違った。
柔らかい、というより、若い感じがした。
昔に戻っているのかもしれない、と思った。
「ここ、全然変わってないわね」
春江さんが店の中を見回した。
「変えていないから」
澄江さんが言った。
「最初に作ったときのまま」
「あのころ、私、よく来ていたわ」
春江さんが言った。
「相談しに、というより、澄江ちゃんに会いに」
「そうだったっけ」
「そうよ」
春江さんが笑った。
「澄江ちゃん、昔は怖かったから」
私は、耳をぴんと立てた。
怖かった?
「怖かった?」
澄江さんが笑った。
「私が?」
「怖かったわよ」
春江さんが言った。
「はっきり言うし、遠慮しないし。相談に来たお客さんに、ずばずば言っていたじゃない」
「そうだったかしら」
「そうよ。覚えてない? あの常連の田村さんに、旦那さんのことをはっきり言いすぎて、泣かせたこと」
澄江さんが「ああ」と言った。
「あったわね、そういうこと」
「謝りに行ったじゃない、二人で」
春江さんが笑った。
「あのときのあなた、本当に必死で」
私は澄江さんを見た。
澄江さんが、少し照れた顔をしていた。
澄江さんが、はっきり言いすぎて客を泣かせた。
今のにこにこしていて、何でも受け止める澄江さんからは、想像できなかった。
「何で変わったの」
春江さんが言った。
「昔のあなた、もっと突っ込んでいたじゃない」
澄江さんが少し考えた。
「言葉の重みを、知ったから」
澄江さんが静かに言った。
「言葉の重み?」
「自分の言葉で、誰かを傷つけたことがあって」
澄江さんが言った。
「それから、慎むようになった」
春江さんが「そうだったの」と言った。
「でも」
澄江さんが続けた。
「最近は、少し変わってきた気がして」
「変わった?」
「また、少し言えるようになってきた気がして」
澄江さんが言った。
「慎みながらでも、言えることがある、って」
澄江さんが私を見た。
「この子のおかげかもしれない」
私はそっぽを向いた。
「通りかかったのは本当だけど、実は、来てみようと思っていたのも本当で」
「そうなの?」
「元気な顔を見たかったの」
春江さんが帰り際、澄江さんに言った。
「また来てもいいかしら」
「いつでも」
澄江さんが言った。
「三十年ぶりに来たら、全然変わってなくて、安心したわ」
春江さんが言った。
「あなたも、この店も」
澄江さんが「そうかしら」と笑った。
「変わったところもあるけど」
春江さんが私を見た。
「猫がいるし」
「そうね」
澄江さんが言った。
「ムギちゃんが来てから、色々変わったわ」
春江さんが出て行った。
澄江さんが窓の外を見ながら、ぽつりと言った。
「昔、怖かったって言われるとは思わなかったわ」
私は澄江さんを見た。
「本当に、そうだったのよ」
澄江さんが続けた。
「はっきり言いすぎて、何度も後悔して。それで、今みたいになったんだけど」
澄江さんが私を見た。
「ムギちゃんは、最初からどんな子だったのかしら」
私はそっぽを向いた。
最初から、お節介で、放っておけない性分だった。
それは変わっていない。
「まあ、いいか」
澄江さんが言った。
「今のムギちゃんが、ムギちゃんだから」
私は窓の外を見た。
澄江さんにも、私の知らない過去があった。
はっきり言いすぎて、客を泣かせた。
店を、四十年続けた。
知らなかった。
でも、今の澄江さんを見れば、全部繋がる気がした。
人は、過去の全部を持ったまま、今ここにいる。
それは、私と同じだった。
九月の金木犀の香りが、窓から流れ込んできた。
澄江さんが「いい香りね」と言った。
「どこからかしら」
私は知っている。
商店街の裏の空き地に、一本だけある金木犀の木だ。
誰も気づいていないけれど、毎年この時期に咲く。
見えないところで、咲き続ける。
そういうものが、あちこちにある。
それでいい。




