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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第四章 商店街の未来

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第38話:何もない良い一日

 祭りが終わって、商店街に夏の静けさが戻ってきた。


 木村さんが提灯を片付けて、磯田さんが鉢植えの紫陽花を引っ込めた。祭りの賑わいが嘘のような、静かな朝だった。


 澄江さんが、ゆっくりと店を開けた。


 検査結果が出てから、澄江さんのペースが変わった。開店時間が少し遅くなった。


 昼に休むようになった。

 にこにこしているのは変わらないが、無理をしない、というのが伝わってくるようになった。


 私は、そのことが嬉しかった。


 糸の色が、少しずつ明るくなっていた。


 白い糸が、先月より太くなっていた。


 今日は、相談者が来ない予感がした。


 根拠はなかった。ただ、そういう日がある。


 糸がゆったりとしている日、人はほころび庵に来ない。みんな、それぞれの場所で、それぞれの縁の中にいる。


 私は窓際で、商店街を眺めた。


 木村さんが店先で、野菜を並べていた。


 磯田さんの正一さんが、店の前を掃いていた。リハビリの成果で、右手がずいぶん動くようになっていた。


 芹奈さんが、アパートの窓を開けて、外の空気を吸っていた。


 平和な朝だった。



 昼前に、健二さんが来た。


 予告なしだった。

 でも最近、予告なしに来ることが増えた。


「母さん、飯を食べに来た」


 健二さんが言った。


「まあ」


 澄江さんが言った。


「嬉しいけど、ここは食堂じゃないわよ」


「近くのそば屋に連れて行けよ、ってこと」


 健二さんが言った。


 澄江さんが「子供なんだから」と言いながら、エプロンを外した。


 健二さんが私を見た。


「ムギ、留守番頼んだ」


 私はそっぽを向いた。


 二人が出て行った。


 暖簾が揺れた。


 一人になった。


 でも今日は、昨年の検査の日とは違った。


 怖くなかった。


 澄江さんは、そば屋に行っているだけだ。すぐ戻る。


 私は窓際で、商店街を見ていた。


 木村さんが店先で、通りかかった芹奈さんと話していた。


 芹奈さんが笑っていた。


 夏月未来さんが来てから、芹奈さんはよく笑うようになった気がした。


 糸が太くなると、人は笑いやすくなる。


 私はそれを、この五年で学んだ気がした。



 一時間ほどして、澄江さんと健二さんが戻ってきた。


 二人とも、いい顔をしていた。


「ムギちゃん、ただいま」


 澄江さんが言った。


 私は窓際から、澄江さんを見た。


 糸を確認した。


 白い糸が、今日は特に温かかった。


 健二さんとの縁の糸が、食事の間にまた少し太くなっていた。


 "何食べたの?"

 私は聞けないけれど、澄江さんが話してくれた。


「天ざるよ。健二が奢ってくれて」


「当たり前だろ」


 健二さんが言った。


 健二さんが椅子に座った。


「転職先、来月から研修が始まるんだ」


 健二さんが言った。


「慣れるまで大変そうだけど」


「そう」


 澄江さんが言った。


「無理しないでね」


「母さんに言われたくない」


 健二さんが苦笑いした。


 澄江さんが笑った。


 私は、二人を見ていた。


 一年前、健二さんが初めてほころび庵に来たとき、二人の白い糸は絡まっていた。


 今日は、絡まっていない。


 ただ、温かく、並んでいた。




 午後、春翔が来た。


「澄江さん、こんにちは」


 春翔が言った。


「ムギさんも」


 私はそっぽを向いた。


「今日、近くに用事があって。ついでに寄りました」


「ついで、ね」


 澄江さんが笑った。


「座って行きなさい」


 春翔が健二さんを見た。


「あ、初めまして。桐原春翔といいます」


「澄江の息子で、宮下健二です」


 二人が挨拶した。


 私は、この光景を見ていた。


 ほころび庵で出会ったことのない二人が、今日初めて会っている。


 糸を確認した。


 二人の間に、細い糸が生まれていた。


 まだ細い。でも、確かにある。


 人が集まる場所では、新しい縁が生まれる。


 当たり前のことだけど、今日また確かめた気がした。


 春翔が澄江さんに聞いた。


「さきが、一度ご挨拶に来たいって言っているんですが、いいですか」


「もちろんよ」


 澄江さんが言った。


「ここで背中を押した子だもの、会いたいわ」


「ありがとうございます」春翔が照れた。


 健二さんが「彼女か」と言った。


「はい」


 春翔が頷いた。


「いいな」


 健二さんが言った。


「俺も、そのうち連れてくるか」


「あら」


 澄江さんが笑った。


「誰かいるの?」


「まあ、そのうちな」


 澄江さんが「楽しみにしてるわ」と言った。


 私は、健二さんを見た。


 健二さんの赤い糸を確認した。


 細いが、ある。どこかの方向を向いていた。


 それだけで、十分だった。



 春翔が帰った。


 健二さんも「また来る」と言って帰った。


 澄江さんが店を閉めながら言った。


「今日は、相談者が一人も来なかったわね」


 私は澄江さんを見た。


「でも」


 澄江さんが続けた。


「賑やかだったわ」


 にこにこしていた。


「健二が来て、春翔くんが来て。ムギちゃんと三人でお昼を食べて」


 澄江さんが窓の外を見た。


「こういう日も、好きよ」


 私はそっぽを向いた。


 私も、嫌いじゃない。


 相談者が来て、糸を見て、肉球でメモ帳を押したり丸を作ったりする日も好きだ。


 でも、こういう日も、悪くない。


 ただ、ここにいる。それだけの日。



 夕暮れの商店街を、窓から眺めた。


 木村さんが店を閉めていた。


 磯田さんが正一さんと並んで、暖簾を下ろしていた。


 芹奈さんが買い物袋を持って、アパートに戻っていった。


 みんな、それぞれの場所へ帰っていく。


 そして明日、また来る。


 糸を確認した。


 商店街のあちこちに、糸が光っていた。


 赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。


 全部、今日も、あった。


 切れていなかった。


 それだけで、今日は十分だった。


 澄江さんが「ムギちゃん、ご飯よ」と言った。


 私は窓際から降りて、澄江さんの方へ歩いた。


 八月の夕暮れが、ほころび庵を橙色に染めていた。


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