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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第四章 商店街の未来

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第36話:懲りない男と、懲りない猫

 十二月の半ば、ほころび庵に見覚えのある顔が来た。


 私は窓際で、その顔を見た瞬間、耳をぴんと立てた。


 三年ぶりだった。


 でも、忘れるはずがない。


 細身で、髪をきっちり整えて、コートが高そうだ。一見すると感じのいい青年に見えるかもしれない。


 りょうくんだった。


 美咲の、元カレだった。


 私は糸を確認した。


 ヘドロのような黒い糸は、三年前より少し薄くなっていた。でも、消えていなかった。


 相変わらずの糸だった。


 りょうくんが暖簾をくぐった。


「いらっしゃいませ」


 澄江さんが顔を上げた。


 りょうくんが店の中を見回した。


 私を見た。


 私はりょうくんをまっすぐ見た。


「あの」


 りょうくんが澄江さんに言った。


「恋愛相談があって」


「どうぞ」


 澄江さんがにこにこした。


 りょうくんが座った。


 私は静かに、カウンターの端に移動した。


 覚えているか、どうかは、関係ない。


 でも、この男の糸を、私は覚えていた。



「昔、付き合っていた女性がいて」


 りょうくんが言った。


「三年前に別れたんですが、最近また気になってきて」


「どんな方ですか?」


 澄江さんが穏やかに聞いた。


「明るくて、かわいくて。俺のことをすごく好きでいてくれて」


 りょうくんが続けた。


「別れたのは、まあ、色々あって。でも最近、思い出すことが多くて」


 私は糸を確認した。


 その女性の方向への赤い糸は、細かった。本気ではない。


 では、なぜ今さら。


「その方と、今も連絡は取れるんですか」


 澄江さんが聞いた。


「それが、取れなくて」


 りょうくんが言った。


 「SNSで探したら、結婚してるっぽくて。でも、まだ間に合うかなと思って」


 まだ間に合う。


 私は、桑原という男を思い出した。以前、奈緒さんに「まだ間に合うんじゃないかと思って」と言ってきた男だ。


 懲りない種類の人間というのは、どこにでもいる。


「結婚されているなら」


 澄江さんが穏やかに言った。


「難しいんじゃないかしら」


「でも、まだ子どももいないかもしれないし」


 りょうくんが言った。


「昔は俺のことが好きだったから、会えば気持ちが戻るかもしれないし」


 澄江さんが考える素振りを見せた。


「もしかして美咲ちゃん?」


「なんで知ってるんですか」


「よく来てくださるお客さんで」


 澄江さんが言った。にこにこしていた。でも、今日の笑顔は少し違った。


「先日も来てくださって、旦那さんと赤ちゃんのことを嬉しそうに話していたわ」


 りょうくんが、固まった。


「赤ちゃん」


「ええ」


 澄江さんが言った。


「来年の春に生まれる予定だって、とても嬉しそうで」


 りょうくんがスマートフォンを見た。


 美咲のSNSの投稿が、画面に出ていた。


 木村さんと並んで、腹のあたりを優しく押さえている写真だった。


 「来年の春、家族が一人増えます」というキャプションがついていた。


 りょうくんが、長い沈黙の後に言った。


「……子ども、いるんですか」


「来年の春に」


澄江さんが繰り返した。


 また沈黙があった。


「旦那さん、どんな人ですか」


 りょうくんが聞いた。


「商店街の八百屋さんで」


 澄江さんが言った。


「体格のいい、頼りになる方よ。美咲ちゃんのことをとても大切にしていて」


 りょうくんが窓の外を見た。


 八百屋の方向だった。


 ちょうど木村さんが店先に出ていた。


 りょうくんが木村さんを見た。


 木村さんは気づいていない。でも、その体格は、十分に雄弁だった。


 りょうくんが、湯呑みを置いた。


「……相談、やめます」


 りょうくんが言った。


「そうですか」


 澄江さんがにこにこした。


 りょうくんが立ち上がった。コートを着て、足早に出て行った。


 暖簾が、ぱたんと閉まった。



 しばらく、沈黙があった。


「今回は私が言いすぎたかしら」


 私は澄江さんを見た。


 澄江さんが少し笑った。


「言いすぎてないわね。本当のことだから」


 私はそっぽを向いた。


 本当のことだ。


 美咲は幸せになった。木村さんと結ばれて、新しい命が来る。


 それは、本当のことだ。


 少しだけ、いい気味だ、と思った。



 夕方、木村さんが野菜の差し入れを持って来た。


「澄江さん、今日変な客来ませんでしたか」


 木村さんが言った。


「なんか、うちの前でじっと見てた男がいて」


「まあ」


 澄江さんがにこにこした。


「そうだったの」


「なんか、知ってる顔な気がしたけど、思い出せなくて」


 澄江さんが「そうかしら」と言った。


 私はそっぽを向いた。


 木村さんには、言わなくていい。


 美咲にも、言わなくていい。


 ただ、あの男は今日、自分で全部を知った。


 それだけで、十分だ。


「ムギ、どうした。なんか満足そうな顔してるな」


 木村さんが私を見た。


 私はそっぽを向いた。


 満足はしていない。


 ただ、少しだけ。


 本当に少しだけ。


 いい気味だと思っただけだ。


 夜、窓から商店街を見た。


 八百屋の電気が、温かく光っていた。


 木村さんと美咲の赤い糸が、夜の商店街の中で、静かに輝いていた。


 その糸の中に、新しい命の光が揺れていた。


 来年の春に、この商店街に、新しい命が生まれる。


 りょうくんが何を思っても、その事実は変わらない。


 私は目を細めた。


 悪くない夜だ、と思った。


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