第35話:この場所の答え
十二月に入って、商店街にクリスマスの飾りがついた。
木村さんが飾った。去年と同じリースだ。でも今年は、美咲が隣で手伝っていた。腹のあたりが、もうかなり大きくなっていた。
再開発の話が動いたのは、その翌日だった。
咲子さんから澄江さんに電話があった。
私は澄江さんの隣で、その電話を聞いていた。
澄江さんの顔が、少しずつ変わっていくのを見ていた。
電話が終わった。
澄江さんがしばらく、受話器を持ったままでいた。
「ムギちゃん」
私は澄江さんを見た。
「決まったって」
咲子さんが直接来たのは、翌日だった。
今日の咲子さんは、前に来たときより顔が柔らかかった。
「正式に決まりました」
咲子さんが言った。
「完全な取り壊しは、なくなりました」
澄江さんが「まあ」と言った。
「商店街を活かした形での再開発案が、会社で採用されて。既存の店舗を残しながら、周辺に新しい建物を建てる計画になりました」
「この店も、残れるの?」
澄江さんが聞いた。
「はい」
咲子さんが言った。
「ほころび庵も、残ります」
澄江さんが、目を閉じた。
一秒。二秒。三秒。
目を開けたとき、笑顔だった。
隙間のある、温かい笑顔だった。
「よかった」
澄江さんが言った。
「本当に、よかった」
「夫も、一緒に動いてくれて」
咲子さんが言った。
「二人で反対意見を出したことで、上の方でも議論になって。最終的に、商店街側の意見を取り入れる形になりました」
「咲子さんが動いてくれたから、ね」
澄江さんが言った。
「私だけじゃないんです」
咲子さんが言った。
「木村さんたちが組合として声を上げていたことも、大きかったって聞いて」
澄江さんが頷いた。
「一人じゃ、できなかった」
咲子さんが続けた。
「でも、みんなの縁が重なって、こういう結果になった気がして」
私は咲子さんを見た。
咲子さんの糸が、今日は一番きれいだった。
灰色の糸は、消えていた。
白い糸が、温かく輝いていた。
夫との縁の糸が、前より太くなっていた。
そして、ほころび庵の方向へ、細い金色の糸が伸びていた。
守られている糸だ。
この場所と、咲子さんの間に、縁が生まれていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
咲子さんが言った。
「どうぞ」
澄江さんが言った。
「朱音さんに言われた言葉、覚えていますか。名前が変わっても、あなたはあなたです、って」
「ええ」
澄江さんが頷いた。
「今回のことで、またその言葉を思い出して」
咲子さんが言った。
「会社の立場を失うかもしれなくても、夫の企画に反対するかもしれなくても、私は私だから、と思って、動けた気がして」
澄江さんが静かに聞いていた。
「朱音さんに、報告できた気がします」
咲子さんが続けた。
「あのとき背中を押してもらって、ちゃんと生きていますって」
私は、ノートが置いてある棚を見た。
朱音が書いたノートと、彩音が書いた手紙が、並んでいた。
朱音が最後まで気にかけていた人が、今日、ここにいる。
幸せになれたか。
なれていた。
そして、
朱音の言葉は、今も残っていた。
咲子さんが帰った後、澄江さんが木村さんに電話をかけた。
私は窓から、その後の商店街を見ていた。
木村さんが磯田さんのところへ走っていくのが見えた。
磯田さんが正一さんを呼んだ。
精肉店の田中さんも出てきた。
芹奈さんが窓から顔を出した。
春翔が通りかかって、足を止めた。
商店街の人間たちが、少しずつ集まっていった。
声は聞こえなかった。
でも、顔が違った。
みんなの糸を確認した。
灰色の糸が、消えていた。
あの温かい色の糸が、今日は今まで見た中で一番太かった。
店と店の間で、互いを向いて、輝いていた。
何色なのか、まだうまく言えなかった。
でも、温かかった。
それだけは、確かだった。
夕方、澄江さんが私の隣に座った。
窓の外を、一緒に見た。
「四十年、ここにいてよかった」
澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
「最初は、お客さんが来なくて、何度も閉めようと思って。でも続けてきて、よかった」
澄江さんが窓の外を見た。
「ムギちゃんが来てから、特に」
私はそっぽを向いた。
「この五年で、ずいぶん変わったわね、この商店街」
澄江さんが続けた。
「美咲ちゃんが来て、木村さんと結ばれて、赤ちゃんができて。奈緒ちゃんが入籍して。春翔くんがさきちゃんと付き合って。芹奈ちゃんが根を張り始めて。健二も、自分で決めるようになって」
澄江さんが私を見た。
「全部、ここで始まったのね」
私は窓の外を見た。
そうだ。
全部、ここで始まった。
ほころび庵の暖簾をくぐって、話して、帰っていった人たちの縁が、今もここに残っていた。
層になって、積み重なって、この場所を作っていた。
夜、窓から外を見た。
商店街のクリスマスの飾りが、夜の中で光っていた。
灰色の糸は、消えていた。
あの温かい色の糸が、商店街のあちこちで、静かに光っていた。
私はその糸を、しばらく眺めた。
この場所が、なくならなくてよかった。
縁の糸の層が、散らずにすんだ。
そして、朱音が残した縁が、今日、この場所を守った。
朱音は、二十八年しか生きられなかった。
でも、残したものは、消えなかった。
人の中に、言葉の中に、縁の中に、残り続けた。
私は目を閉じた。
十二月の夜が、商店街を静かに包んでいた。
ほころび庵の暖簾が、冬の風に、静かに揺れていた。




