第34話:ただいま
来週、と澄江さんが言った日から、ずっと気にしていた。
糸を毎朝確認した。
薄いけれど、切れていない。
それだけを確認して、一日が始まる。そういう一週間だった。
検査結果を聞きに行く日、木村さんがまた迎えに来た。
「澄江さん、行きましょう」
「ええ」
澄江さんが言った。
今日は「大げさね」とは言わなかった。
コートを着て、バッグを持って、暖簾の前で私を見た。
「ムギちゃん、また頼んだわよ」
私は澄江さんをまっすぐ見た。
澄江さんが「そんな顔しないで」と言った。
でも、今日の澄江さんの顔も、少し緊張していた。
二人が出て行った。
暖簾が揺れた。
一人になった。
先週と同じだ。でも、先週より少し慣れていた。
私は窓際に座って、商店街を見た。
木村さんの店が開いていた。でも木村さんはいない。美咲が一人で店番をしていた。腹のあたりが、また少し大きくなっていた。
磯田さんが店先で魚を並べていた。
芹奈さんのアパートの窓が、開いていた。
いつもの商店街だった。
しばらくして、相談者が来た。
四十代くらいの女性だった。
暖簾をくぐって、店の中を見回した。
「あの、占いをお願いしたいんですが」
私は窓際から、女性を見た。
澄江さんはいない。
女性が私を見た。
「猫しかいないの?」
私は女性をまっすぐ見た。
女性が少し困った顔をした。
「今日はお休みですか?」
私は動かなかった。
女性がしばらく待って、「また来ます」と言って出て行った。
暖簾が揺れた。
私は窓際に戻った。
申し訳なかった、とは思わなかった。
でも、澄江さんがいれば、と思った。
昼過ぎ、健二さんが来た。
予告なしだった。
「母さんは?」
健二さんが店の中を見回した。
私は健二さんを見た。
「検査結果か」
健二さんが言った。
「連絡もらってたけど、なんか心配で」
健二さんが椅子に座った。
「ムギ、留守番か」
私は健二さんを見た。
「お前も心配してるんだろ」
私はそっぽを向いた。
健二さんが苦笑いした。
「俺も心配だよ」
健二さんが言った。
「電話で話してると元気そうなんだけど、実際どうなのかわからなくて」
健二さんが窓の外を見た。
「この店、母さんそのものだな」
健二さんが静かに言った。
「母さんがいないと、なんか、違う感じがする」
私は健二さんを見た。
「でも」
健二さんが続けた。
「お前がいると、少し安心する。不思議だな」
私はそっぽを向いた。
でも、悪くなかった。
健二さんがしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「転職、決めたよ」
私は健二さんを見た。
「先月、決めた。来年の春から、新しいところに行く」
健二さんが少し照れた顔をした。
「母さんにはまだ言ってない。今日、直接言おうと思って来たんだけど」
私は健二さんを見た。
健二さんの白い糸が、温かく輝いていた。
絡まりは、もうなかった。
「ムギ」
健二さんが言った。
「俺、自分で決めたよ」
私は健二さんをまっすぐ見た。
健二さんが笑った。
「なんで猫に報告してるんだろ、俺」
私はそっぽを向いた。
でも、自分で決めた、という言葉が、胸のあたりに落ちた。
律子さん、彩音、健二さん。
みんな、自分で決めた。
それでいい。
夕方、暖簾が揺れた。
澄江さんだった。
木村さんが後ろにいた。
澄江さんの顔を見た瞬間、わかった。
少し、軽くなっていた。
「ただいま」
澄江さんが言った。
「母さん」
健二さんが立ち上がった。
「来てたのか、お前も」
木村さんが言った。
「心配で」
健二さんが言った。
「結果は?」
澄江さんが椅子に座った。
「年齢相応の疲れ、だって」
澄江さんが言った。
「無理をしすぎていたって。大病じゃないけど、しばらくペースを落としなさい、って」
健二さんが「よかった」と言った。声が、少し震えていた。
「大げさね」
澄江さんが笑った。
「大げさじゃないです」
木村さんが言った。
「大げさじゃないよ」
健二さんが言った。
澄江さんが、二人を見た。
「ありがとうね」
澄江さんが静かに言った。
「心配かけて」
私はカウンターから降りた。
澄江さんの足元まで歩いた。
澄江さんが私を抱き上げた。
「ムギちゃんも、心配してたのね」
私はそっぽを向いた。
でも、澄江さんの腕が温かかった。
木村さんが帰った後、健二さんが澄江さんに言った。
「母さん、報告があって」
「なに?」
「転職、決めた」
澄江さんが健二さんを見た。
「来年の春から、新しいところに行く。自分で決めた」
澄江さんがしばらく、健二さんを見ていた。
「そう」
澄江さんが言った。
「反対しないの?」
「しないわよ」
澄江さんが言った。
「あなたが決めたんでしょう」
健二さんが少し目を細めた。
「前は、口出ししてたくせに」
「前は、あなたがまだ迷っていたから」
澄江さんが言った。
「今日の顔は、迷っていない顔だから」
健二さんが、笑った。
澄江さんも、笑った。
二人の白い糸が、温かく輝いていた。
絡まりは、もうなかった。
健二さんが帰った後、澄江さんが私を膝に乗せた。
「今日、ムギちゃんに守ってもらったわね」
澄江さんが言った。
私はそっぽを向いた。
守った、というほどのことはしていない。
ただ、いただけだ。
「でも」
澄江さんが続けた。
「いてくれると、違うのよ」
澄江さんが窓の外を見た。
「健二も来てくれて、木村さんも来てくれて。ムギちゃんがいて」
澄江さんが静かに言った。
「一人じゃないわね、私」
私は澄江さんを見た。
澄江さんの糸が、今日は先週より明るかった。
白い糸が、少し太くなっていた。
健二さんとの縁が、また少し深まっていた。
大病ではなかった。
ペースを落とす必要はあるけれど、ここにいられる。
それだけで、十分だった。
十一月の夜が、ほころび庵を静かに包んでいた。




