第32話:ほころび庵に、一人
木村さんが澄江さんを病院に連れて行ったのは、十一月の半ばだった。
朝、木村さんが迎えに来た。
「澄江さん、行きましょう」
「大げさね、本当に」
澄江さんが言った。でも、コートを着た。
澄江さんが私を見た。
「ムギちゃん、お留守番お願いね」
私は澄江さんをまっすぐ見た。
澄江さんが「そんな顔しないで」と笑った。
「すぐ戻るから」
暖簾をくぐって、澄江さんが出て行った。
木村さんが最後に振り返って、私を見た。
「ちゃんと守っててくれよ」
私は木村さんを見た。
木村さんが出て行った。
暖簾が、静かに揺れた。
ほころび庵に、私一人になった。
初めてだった。
四年と数ヶ月、ここにいて、澄江さんが一日中いない日は、一度もなかった。朝から晩まで、澄江さんはここにいた。
水晶玉が、朝の光を受けて光っていた。
赤いビロードのテーブルクロスが、静かに広がっていた。
タロットのポスターが、壁にかかっていた。
全部、あった。
でも、誰もいなかった。
昨夜の夢と、同じだった。
私は窓際に座って、外を見た。
一時間ほど経ったころ、磯田キヨさんが来た。
暖簾をくぐって、店の中を見回した。
「澄江ちゃん、いないのね」キヨさんが言った。
「木村さんから聞いたわ、病院に行ったって」
私は窓際から、キヨさんを見た。
「ムギちゃん、一人でお留守番?」
キヨさんが私の隣に座った。
「寂しいわね」
キヨさんが言った。
「私も、正一が入院してたとき、店に一人でいたから、わかるわ」
キヨさんがしばらく、窓の外を見ていた。
「澄江ちゃん、元気になるわよ」
キヨさんが言った。
「あの人、タフだから」
キヨさんが立ち上がった。
「また来るからね」
キヨさんが出て行った。
次に来たのは、芹奈さんだった。
「澄江さん、今日お休みって聞いて」
芹奈さんが言った。
「ムギちゃん、大丈夫ですか」
私は芹奈さんを見た。
芹奈さんが私の前にしゃがんだ。
「心配してるんですね」
私はそっぽを向いた。
「私も、心配です」
芹奈さんが小さく言った。
「澄江さん、この商店街の真ん中にいる人だから」
芹奈さんがしばらく、私の隣に座っていた。
何も言わなかった。
ただ、一緒にいた。
それが、少し温かかった。
昼過ぎ、春翔が来た。
「澄江さんのこと、美咲さんから聞いて。ムギさん、大丈夫ですか」
春翔が私を見た。
「ムギさんが心配そうにしてると、こっちも心配になりますよ」
春翔が苦笑いした。
「さきも、心配してました。澄江さんにお世話になったから」
春翔がカウンターの椅子に座った。
「なんか、ここにいると落ち着くんですよね」
春翔が言った。
「澄江さんがいなくても」
私は春翔を見た。
「この場所が、そういう場所なんだと思う」
春翔が続けた。
「人が来る場所、というか」
春翔がしばらくいて、帰った。
午後の遅い時間、美咲が来た。
腹のあたりが、先月よりさらにふっくらしていた。
「ムギちゃん」
美咲が私を見た。
「一人だったんだね」
美咲がカウンターの前に座って、私を膝に乗せた。
「木村さんから連絡来て、心配で来ちゃった」
美咲が言った。
「澄江さん、大丈夫かな」
私は美咲の膝の上で、美咲を見た。
美咲の糸の中の、新しい命の光が、間近で見ると温かかった。
「ムギちゃん、澄江さんのこと、ずっと気にしてたでしょ」
美咲が言った。
「わかるよ、なんとなく。ムギちゃんが心配そうにしてると、なんかわかる」
美咲が私の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、きっと」
私はそっぽを向かなかった。
美咲の言葉を、そのまま受け取った。
根拠はない。でも、受け取った。
美咲が帰った後、私は一人になった。
窓から、商店街を見た。
木村さんの八百屋。磯田さんの鮮魚店。精肉店。花屋。パン屋。
それぞれの店から、糸が伸びていた。
赤い糸、白い糸、あの温かい色の糸。
全部が、この場所から伸びていた。
今日、一人でここにいて、わかったことがあった。
澄江さんがいなくても、人が来た。
キヨさんが来た。
芹奈さんが来た。
春翔が来た。
美咲が来た。
誰も、相談があって来たわけじゃない。
ただ、来た。
この場所に、来た。
由奈さんが言っていた。縁の糸が層になっている、と。
その層は、澄江さんがいなくても、消えなかった。
この場所に、積み重なったままだった。
私は、ほころび庵の中を見回した。
水晶玉。赤いビロードのテーブルクロス。タロットのポスター。
澄江さんが四十年かけて作ってきた場所が、ここにあった。
夕方、澄江さんが戻ってきて、コートを脱ぎながら言った。
「疲れたわ、病院って待つのね」
私は澄江さんを見た。
「結果は、来週聞きに行くことになって」
澄江さんが言った。
「今日はとりあえず、検査だけ」
澄江さんが椅子に座った。
「ムギちゃん、お留守番ありがとうね」
私は澄江さんの足元まで歩いた。澄江さんの足に、頭を押しつけた。
「まあ」
澄江さんが言った。
「そんなに心配してたの?」
私はそっぽを向いた。
澄江さんが私を膝に乗せた。
しばらく、二人で窓の外を見ていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが静かに言った。
「私ね、最近ちょっと疲れてたの」
私は澄江さんを見た。
「自分では大丈夫って思ってたけど。木村さんに言われて、病院に行って、先生に色々聞かれて、やっとわかったわ」
澄江さんが窓の外を見た。
「疲れてたのよ、ちゃんと」
私は何も言えなかった。
澄江さんが、少し笑った。
「来週、結果を聞いてくる。それまでは、ゆっくりするわ」
ゆっくりする、と澄江さんが言った。
この人がそう言うのを、初めて聞いた気がした。
十一月の夜が、ほころび庵を静かに包んでいた。
結果は、まだわからない。
でも今夜は、澄江さんがいた。
それだけで、十分だった。




