第31話:ムギが、不安だ
十一月に入って、商店街の銀杏が色づき始めた。
去年も同じ銀杏を眺めた。一年前、美咲が初めてほころび庵に来た、あの十一月だ。
あれから二年が経とうとしていた。
私はほころび庵の窓で、今日の糸の具合を確認していた。
いつも通りの朝だった。
木村さんの赤い糸が輝いていた。美咲の糸の中の、新しい命の光が、先月より大きくなっていた。磯田さん夫婦の白い糸が、穏やかに絡み合っていた。芹奈さんの糸は、あの祭りの夜より確かに色づいていた。
全部、いつも通りだった。
でも。
澄江さんの糸が、気になった。
気になり始めたのは、いつからだろう。
はっきりとした変化ではなかった。
白い糸が薄い、と気づいたのは、先月だった。金の糸がくすんでいる、と思ったのも、先月だった。でも、先月だけじゃなかった。もっと前から、少しずつ、変わっていた気がした。
再開発の噂が出てから、澄江さんはずっと普通の顔をしていた。にこにこして、相談者を受け止めて、木村さんに「大丈夫よ」と言っていた。
でも、糸は正直だ。
疲れているとき、糸は薄くなる。
澄江さんの糸は、ここ数ヶ月、少しずつ薄くなっていた。
何かが、気になった。
でも、何なのか、わからなかった。
今日も、私は澄江さんを見ていた。
澄江さんがお茶を入れながら、水晶玉を磨きながら、常連客と話しながら。
そのたびに、糸を確認していた。
薄い。今日も薄い。
昼過ぎ、客が途切れた時間に、澄江さんが私を見た。
「ムギちゃん」
私は澄江さんを見た。
「最近、ずっと見てるわね」
私は動かなかった。
「何か気になることでもある?」
澄江さんがにこにこしていた。
私は澄江さんの糸を見た。
白い糸、薄い。金の糸、くすんでいる。
でも、どこが悪いのか、わからない。
糸は視える。でも、糸が教えてくれるのは「状態」だけだ。原因は、わからない。
「そんなに見られると、照れるわ」
澄江さんが笑った。
私はそっぽを向いた。
照れている場合じゃない、と思った。
その日、相談者は一人も来なかった。
珍しいことではない。来ない日もある。
でも、今日はその静けさが、少し違って感じた。
澄江さんが、水晶玉を磨いていた。
私は澄江さんを見ていた。
澄江さんの手の動きが、いつより少し遅かった。
疲れているのか。
それとも、体のどこかが悪いのか。
私には、わからなかった。
糸を視る力があっても、わからないことがある。
いや、わかることより、わからないことの方が、ずっと多い。
それは猫になっても、変わらなかった。
夕方、木村さんが野菜の差し入れを持って来た。
私は木村さんをまっすぐ見た。
木村さんが「ムギ、どうした」と言った。
私は澄江さんを見た。それから木村さんを見た。
木村さんが少し考えた。
「澄江さん、最近どうですか」
木村さんが澄江さんに聞いた。
「元気よ」
澄江さんが言った。
「顔色は?」
「普通じゃないかしら」
「病院、行ってますか」
「先月、行ったでしょう?」
澄江さんが苦笑いした。
「また行くの?」
「また行ってください」
木村さんが言った。
「来週、俺が連れて行きます」
澄江さんが「大げさね」と言った。
私は木村さんを見た。
ありがとう、と言える方法がなかった。
ただ、木村さんの足元に、静かに座った。
夜、澄江さんが店を閉めた。
奥の部屋に入って、健二さんに電話をかけていた。
「ええ、元気よ。ただ、木村さんがまた病院に連れて行くって言って」
少し間があった。
「大げさよ、ほんとに。ムギちゃんも心配そうにしてるし、みんなで大げさで」
澄江さんが笑った。
でも、電話を切った後、澄江さんがため息をついた。
小さな、ため息だった。
私は澄江さんの隣に座った。
澄江さんが私を見た。
「心配してくれてるの?」
私は澄江さんをまっすぐ見た。
「ありがとうね」
澄江さんが私の頭を撫でた。
「でも、大丈夫よ。ちょっと疲れているだけだから」
大丈夫よ。
澄江さんはいつもそう言う。
でも、糸は「大丈夫」と言っていなかった。
夜遅く、澄江さんが眠った後、私は一人で窓の外を見ていた。
十一月の商店街は、静かだった。
澄江さんの糸を確認した。
今夜も、薄かった。
私はここに来て、もうすぐ五年になる。
澄江さんがいないほころび庵を、考えたことがなかった。
いや、考えたくなかった。
目を閉じた。
考えるのをやめようとした。
でも、眠れなかった。
気づいたら、夢の中にいた。
ほころび庵だった。
いつもの窓。いつもの水晶玉。赤いビロードのテーブルクロス。タロットのポスター。
全部、あった。
でも、澄江さんがいなかった。
カウンターの椅子が、空だった。
奥の部屋も、静かだった。
暖簾が揺れた。
相談者が来た。
女性だった。誰かわからなかった。
女性がカウンターの前に立って、澄江さんを探した。
でも、誰もいなかった。
女性が「すみません」と言った。
返事がなかった。
また暖簾が揺れた。
木村さんだった。差し入れの野菜を持っていた。
「澄江さん?」
返事がなかった。
木村さんが店の中を見回した。
私は窓際にいた。木村さんを見ていた。
木村さんが私を見た。
「ムギ、澄江さんは?」
私は答えられなかった。
わからなかった。
木村さんの顔が、少し変わった。
そこで、目が覚めた。
ほころび庵の窓際だった。
外はまだ暗かった。
私はしばらく、動かなかった。
夢だった。
でも、心臓のあたりが、速かった。
奥の部屋から、澄江さんの寝息が聞こえた。
いる。
ちゃんと、いる。
私は立ち上がって、奥の部屋の入り口まで歩いた。
暗い部屋の中で、澄江さんが眠っていた。
糸を確認した。
薄いけれど、あった。
切れていなかった。
私はその場に座って、澄江さんの寝息を聞いていた。
夜明けまで、そこにいた。
窓の外で、銀杏の葉が一枚、暗闇の中に落ちていった。
わからないことが、怖かった。
でも、今夜は、寝息が聞こえた。
それだけで、十分だった。




