第30話:朱音に、報告する
十月に入って、商店街のアーケードに木村さんが造花の紅葉を飾った。
毎年同じ紅葉だ。でも毎年、この時期になると出てくる。木村さんが飾って、磯田さんが「また同じやつか」と言って、木村さんが「文句あるか」と言う。今年もそのやり取りがあった。
美咲がその様子を見て笑っていた。腹のあたりが、先月より少しふっくらしていた。新しい命の光が、秋の光の中で揺れていた。
彩音が来たのは、そういう十月の午後だった。
暖簾をくぐった彩音の顔を見た瞬間、わかった。
何かが、決まった顔だった。
でも、澄んでいるというより、少し複雑な顔だった。
糸を確認した。
銀色の記憶の糸は、今日も消えていなかった。
細い赤い糸は、前回より太くなっていた。でも、少し揺れていた。
「澄江さん、こんにちは」
「いらっしゃい」
澄江さんが顔を上げた。
「今日は、どうしたの。なんか、複雑な顔ね」
「そうなんです」
彩音が座った。
「自分でも、よくわからなくて」
「付き合うことにしたんです」
彩音が言った。
「先月、自分から伝えて」
「まあ」
澄江さんが言った。
「相手もそう思っていたみたいで。それで、付き合い始めて」
「よかったじゃないですか」
「でも」
彩音が続けた。
「なんか、違う気がしてきて」
澄江さんが「違う?」と言った。
「付き合ってみたら、なんか、思っていたのと違って。悪い人じゃないんです。でも、なんか、違くて」
彩音が湯呑みを持った。
「それで、報告しに来たんですけど」
「うん」
「来る途中で、急に腹が立ってきて」
澄江さんが「腹が立った?」と首を傾げた。
「自分に、です」
彩音が言った。
「なんで私、ここに報告しに来てるんだろうって。うまくいきました、じゃなくて、なんか違いました、をわざわざ報告しに来て」
彩音が苦笑いした。
「結局、朱音に聞きたかっただけなんだと思って。ここに来れば、なんか、朱音に近づける気がして。それに気づいたら、なんか、自分が呆れて」
澄江さんが少し考えてから言った。
「呆れたのは、どうしてだと思いますか」
彩音が首を傾げた。
「なんでしょう。自分で決めたはずなのに、また朱音に頼ろうとしている気がして」
「でも」
澄江さんが言った。
「来たじゃないですか、ここに」
「はい」
「朱音さんに聞きたくて来た。でも、朱音さんはいない。それでも来た」
彩音が澄江さんを見た。
「それって、呆れることじゃないと思うけど」
澄江さんが穏やかに言った。
「朱音さんに聞きたい、という気持ちは、ずっとあっていいから。なくならなくていいから」
彩音が少し黙った。
「違う気がする、って気づいたのは、誰が教えてくれたんですか」
澄江さんが続けた。
「自分、ですけど」
「そうでしょう」
澄江さんが言った。
「朱音さんじゃなくて、彩音さん自身が気づいた。それが大事なんじゃないかしら」
彩音が、少し目を細めた。
「そうか」
彩音が静かに言った。
「そうかもしれない」
しばらくして、彩音が私を見た。
「ムギちゃん」
私はカウンターから降りて、彩音の前まで歩いた。
「なんか、ぐるぐるしてたけど」
彩音が言った。
「話したら、少し整理できた気がして」
彩音が私を見た。
「朱音に聞きたかった、は、なくならないんですね。ずっとそう思うんだと思う」
私は彩音を見た。
「でも、自分で気づくことも、できるようになってきた気がして」
彩音が少し笑った。
「なんか、両方あっていいのかもしれないって、今日思いました」
私は、彩音を見ていた。
両方あっていい。
朱音に聞きたい気持ちと、自分で決められる気持ち。どちらかを捨てなくていい。
前回、私が辿り着いたことと、同じだった。
朱音だった記憶を持ったまま、ムギとして生きていい。
彩音は彩音のやり方で、同じ場所に辿り着いていた。
私はそっぽを向いた。
それでいい、と思った。
帰り際、彩音がバッグから封筒を取り出した。
「これ、朱音への手紙です」
澄江さんが「まあ」と言った。
「渡せる場所がなくて。でも、ここに持ってきたら、少し届く気がして。朱音が来たかった場所だから」
「預かりますよ」
澄江さんが言った。
彩音が封筒を渡した。
「内容は、たいしたことじゃないんです」
彩音が言った。
「朱音、好きな人ができて付き合ったけど、なんか違った、って」
彩音が少し笑った。
「あと、それでも自分で気づけたよ、って。それだけ」
澄江さんが「十分よ」と言った。
「あとは」
彩音が続けた。
「私、もう大丈夫、って。それも書いた」
私は、封筒を見た。
封筒から、銀色の糸が伸びていた。
彩音の記憶の糸と、同じ色だった。
「ムギちゃん」
彩音が私を見た。
「なんでかわからないけど、あなたに言いたくて」
彩音が私をまっすぐ見た。
「私、もう大丈夫だよ」
私はそっぽを向いた。
目が、少し熱くなった。
猫の涙は見えないから、誰も気づかない。
それでいい。
彩音が暖簾の前で振り返った。
「また来ます」
「いつでも」
澄江さんが言った。
「ムギちゃんも、いてね」
私はそっぽを向いたまま、一度だけ耳を動かした。
いる。
彩音が笑って、出て行った。
私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。
彩音の背中に、二本の糸があった。
銀色の記憶の糸は、消えていなかった。
これからも、消えないだろう。
細い赤い糸は、揺れていた。
まっすぐではなかった。でも、前を向いていた。
揺れながらも、前へ。
それでいい、と思った。
澄江さんが、封筒を棚に置いた。
ノートの隣に、そっと。
朱音が書いたノートと、彩音が書いた手紙が、同じ棚に並んだ。
「ねえ、ムギちゃん」澄江さんが言った。
私は澄江さんを見た。
「朱音さん、今頃どこにいるかしら」
私は答えなかった。
答えられなかった。
ただ、窓の外を見た。
十月の商店街に、秋の風が吹いていた。
造花の紅葉が、風に揺れていた。
どこにいるか、はわからない。
でも。
一度結ばれた絆は、そう簡単にほどけない
それだけは、確かだった。




