第29話:私はどうしたいか
九月に入って、商店街に秋の風が吹き始めた。
夏の間、木村さんが並べていた冷やしトマトが店先から消えて、代わりに梨と栗が並んだ。美咲が手伝いながら、腹のあたりをそっと押さえるのを、私は窓から見ていた。
新しい命の光は、先月より少し大きくなっていた。
彩音が来たのは、そういう九月の午前だった。
今日の彩音は、少し緊張していた。
でも、前回とは違う緊張だった。
前回は、何かを抱えてきた緊張だった。
今日は、何かを決めてきた緊張だ。
糸を確認した。
銀色の記憶の糸は、落ち着いていた。
細い赤い糸は、前回より太くなっていた。前を向いていた。
「澄江さん、こんにちは」
彩音が座った。
「いらっしゃい」
澄江さんがハーブティーを出した。
「今日は、顔が違うわね」
「そうですか」
彩音が少し笑った。
「自分ではわからないけど」
「前回、気になる人がいると言いましたよね」
澄江さんが言った。
「はい」
彩音が頷いた。
「進展があって。先週、食事に行って」
「まあ」
澄江さんが嬉しそうに言った。
「それで、帰り道に思ったんです」
彩音が続けた。
「朱音ならこの状況で、何て言ったんだろうって」
私は彩音を見た。
「澄江さんは、朱音がどんな人だったか、少し知っていますよね。手帳を読んで」
「ええ、少しだけ」
「朱音なら、この状況で、私に何て言ったと思いますか」
澄江さんが少し考えた。
「直接は知らないけれど」
澄江さんが言った。
「手帳を読んで感じたのは、朱音さんは相手の糸を確認してから話す人だったみたいで」
「そうなんです」
彩音が笑った。
「絶対そう言う。その人の糸の色は?って」
「それで、どんな色だったんですか」
澄江さんが聞いた。
「私には見えないんですけど」
彩音が言った。
「でも、なんか、一緒にいると楽で。変な緊張をしなくていい感じで」
澄江さんが「それは、いい糸の色ね」と言った。
彩音が「そうですかね」と笑った。
「で、朱音なら絶対、その後こう言ってくる」
彩音が少し声を作った。
「彩音、あなたはどうしたいの?って」
店内が、少し静かになった。
「いつもそうだったんです。糸の話をした後で、必ず、あなたはどうしたいの?って聞いてくる。お節介なくせに、最後は自分で決めさせる人で」
「彩音さんは、どうしたいんですか」
澄江さんが静かに聞いた。
彩音が少し間を置いた。
「前までだったら、この質問が怖かった」
彩音が言った。
「どうしたいか、って聞かれると、朱音だったらどうするかを考えてしまって。自分の答えが出てこなくて」
「今は?」
「今は」
彩音が窓の外を見た。
「少し、わかる気がして」
彩音が私を見た。
「もう少し、この人のことを知りたい。それだけです。朱音が何て言うかより、私がそう思っている」
澄江さんが「それでいいじゃないですか」と言った。
「そうですかね」
「ええ」
澄江さんが穏やかに言った。
「朱音さんが聞きたかったのも、たぶん、そういう答えだったんじゃないかしら」
彩音が、少し目を細めた。
「そうかもしれない」
しばらく話して、彩音が私を見た。
「ムギちゃん」
私はカウンターから降りて、彩音の前まで歩いた。
「聞いてもいいですか」
彩音が言った。
私は彩音を見た。
「朱音は、幸せだったと思いますか」
店内が静かになった。
私は、彩音をまっすぐ見た。
幸せだったか。
二十八年、短すぎた。やり残したことは、山ほどあった。届けられなかった言葉も、会えなかった人も、たくさんいた。
でも。
好きなことをして生きていた。
放っておけない人たちのために、走り回っていた。それは、本当のことだ。
私は前足で彩音の手の甲を軽く叩いた。
彩音が、少し息を飲んだ。
「そっか」
彩音が言った。
「よかった」
彩音の目から、涙が一粒落ちた。
「幸せだったなら、よかった」
私はそっぽを向いた。
答えを教えたからじゃない。
彩音が、そう信じていてほしかったから。
それだけだ。
彩音が帰り際、暖簾の前で立ち止まった。
「澄江さん」
「なに?」
「次に来るとき、報告があると思います」
彩音が少し照れた。
「良い報告か、そうじゃないかは、まだわからないけど」
「いつでも待ってるわ」
澄江さんが言った。
彩音が私を見た。
「ムギちゃんも、いてね」
私はそっぽを向いた。
いる。毎日いる。
彩音が笑って、出て行った。
私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。
彩音の背中に、二本の糸があった。
銀色の記憶の糸は、今日も消えていなかった。
細い赤い糸は、今日は前を向いていた。まっすぐ、迷いなく。
朱音を探していた彩音が、今日、自分の答えを出した。
朱音ならどうするか、ではなく。
私はどうしたいか。
その問いに、自分で答えた。
それだけで、十分だった。
九月の風が、商店街を静かに通り抜けていった。




