第28話:探すのをやめた
八月に入って、商店街に夏が戻ってきた。
木村さんが今年も冷やしトマトを店先に並べて、磯田さんがイカ焼きの準備を始めた。美咲が木村さんの隣に立って、何か話していた。二人の赤い糸の中の、小さな光が、夏の日差しの中で揺れていた。
彩音が来たのは、そういう八月の午後だった。
五度目の来訪だった。
今日の彩音は、急いでいる顔でも、泣きそうな顔でもなかった。
少し迷っている顔だった。
何かを言おうとして、でもどこから話せばいいかわからない、そういう顔だ。
「いらっしゃい、彩音さん」
澄江さんが顔を上げた。
「澄江さん、こんにちは」
彩音が座った。
澄江さんがハーブティーを出した。
「今日は、何かありましたか」
「あの」
彩音が少し照れた。
「実は、最近、気になる人がいて」
「まあ」
澄江さんが嬉しそうに言った。
「でも」
彩音が続けた。
「話したいのは、そっちじゃなくて」
彩音が湯呑みを持った。
「もしお姉ちゃんが生きていたら、真っ先に報告していたと思って」
店内が、少し静かになった。
「気になる人ができたこと、真っ先に電話していたと思う。で、お姉ちゃんは絶対、その人の糸の話をしてくる」
彩音が少し笑った。
「その人の糸、どんな色?って。絶対聞いてくる」
私は、彩音を見ていた。
「朱音さんは、よく糸の話をしていたんですか」
澄江さんが聞いた。
「毎日でしたよ」
彩音が言った。
「朝起きたら、今日商店街で見た糸が面白かった、とか。あの人の赤い糸がこっちを向いてた、とか」
彩音が遠くを見た。
「私には見えないから、ぽかんとして聞いていたんですけど。でも、なんか、楽しそうで。朱音にとって、世界はそういうふうに見えていたんだなって」
「彩音さんには、本当に見えなかったんですか」
澄江さんが聞いた。
「全然。双子なのに」
彩音が苦笑いした。
「朱音だけに見えて、私には見えなくて。それが、子どものころは不思議で、少し羨ましかった」
「羨ましかった?」
「だって、朱音には見えている世界が、私には見えないんですよ。同じ顔をしているのに、見えているものが全然違って」
彩音が湯呑みを置いた。
「でも、朱音は羨ましがらなかった。見えない方が楽なこともある、って言っていたから」
私は、由奈さんが言った言葉を思い出した。
視えない方が楽なことも、たくさんある。
朱音も、そう思っていた。
「今日来たのは」
彩音が静かに言った。
「最近、気づいたことがあって」
「どんなこと?」
澄江さんが聞いた。
「私、ずっとお姉ちゃんのことを探していたんだと思う」
彩音が私を見た。それから、澄江さんを見た。
「相談者リストを探したのも、ここに来たのも、朱音の手帳を読んだのも。朱音を探していた」
「探していた、というのは?」
「朱音がどんな人だったかを、知ろうとしていた」
彩音が言った。
「家族だから知っているつもりだったけど、知らないことがたくさんあって。朱音が何を見ていたか、何を考えていたか、誰に何を言ったか」
彩音が続けた。
「でも、最近思うんです。私が探していたのは、朱音がどんな人だったか、じゃなくて」
彩音が少し間を置いた。
「朱音が残したものは何だったか、だったのかもしれないって」
澄江さんが静かに聞いていた。
「律子さんに会って。ここに来ていた人たちの話を聞いて。朱音は、ちゃんと残っていたんだって、わかってきて」
彩音の目が、少し潤んだ。
「朱音の言葉が、人の中に残っていた。それを知れた気がして」
「澄江さん」
彩音が言った。
「朱音のことで、まだわからないことがたくさんあって。あの日、本当に怒っていなかったのか。最後に何を考えていたのか。私に言いたかったことは何だったのか」
澄江さんが頷いた。
「でも」
彩音が続けた。
「最近は、わからなくてもいいかもしれない、と思い始めていて」
「どうしてですか」
「全部わかったら、終わりになる気がして」
彩音が言った。
「わからないことがある限り、まだ続いている気がする。朱音のことを考え続けている限り、朱音はどこかにいる気がする」
私は、彩音を見た。
銀色の記憶の糸が、今日は落ち着いていた。
震えていなかった。
ただ、静かに、彩音の胸から伸びていた。
「わからなくても、続いていく」
澄江さんが静かに言った。
「そう思うようになって」
彩音が言った。
しばらく話して、彩音が私を見た。
「ムギちゃん」
私はカウンターの端で、彩音を見た。
「なんでかわからないけど」
彩音が言った。
「あなたを見ると、安心するんですよね」
私は、動かなかった。
「猫なのに、なんか、ちゃんと聞いてくれている気がして。話しかけたくなって」
彩音が少し笑った。
「変ですよね」
「変じゃないわよ」
澄江さんが言った。
「ムギちゃんは、そういう子だから」
私はそっぽを向いた。
安心する、という言葉が、胸のあたりに落ちた。
朱音として生きていたとき、誰かに安心してもらえることが、嬉しかった。
今も、嬉しかった。
それだけは、変わっていない。
彩音が帰り際、暖簾の前で振り返った。
「また来てもいいですか」
「いつでも」
澄江さんが言った。
彩音が出て行った。
私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。
彩音の背中に、二本の糸があった。
銀色の記憶の糸は、今日も消えていなかった。
その隣の、細い赤い糸は、前回より少しだけ太くなっていた。
記憶は消えない。
でも、人は新しい糸を結んでいく。
彩音が商店街の角を曲がって、見えなくなった。
八月の光が、商店街を照らしていた。




