第27話:灰色の向こうにある未来
七月の半ば、咲子さんから澄江さんに電話があった。
私は澄江さんの隣で、その電話を聞いていた。
澄江さんの顔が、少しずつ変わっていくのを見ていた。
電話が終わった。
澄江さんがしばらく、受話器を持ったままでいた。
「ムギちゃん」
私は澄江さんを見た。
「再開発の計画、保留になったって」
咲子さんが直接来たのは、翌日だった。
今日は、少し軽い顔をしていた。
「会社で、再検討が始まりました」
咲子さんが言った。
「私と夫が反対意見を出したことで、上の方でも議論になって。完全な取り壊しは、いったん保留になって、商店街側との協議に入ることになりました」
澄江さんが「まあ」と言った。
「解決じゃないんです」
咲子さんが続けた。
「これからどうなるかは、まだわからない。でも、話し合いの場が生まれた」
「十分よ」
澄江さんが言った。
「話し合える場があれば、縁が繋がる」
咲子さんが私を見た。
「ムギちゃんにも、報告しに来ました」
私はそっぽを向いた。
でも、咲子さんの糸を確認した。
灰色の糸は、ほとんど消えていた。
代わりに、白い糸が温かく輝いていた。
夫との縁が、前より太くなっていた。
二人で選んだ、という重みが、糸に出ていた。
咲子さんが帰った後、澄江さんが木村さんに電話をかけた。
私は窓から、その後の商店街を見ていた。
木村さんが磯田さんのところへ走っていくのが見えた。磯田さんが正一さんを呼んだ。精肉店の田中さんも出てきた。
商店街の人間たちが、少しずつ集まっていた。
声は聞こえなかった。でも、顔が違った。
灰色の糸を確認した。
薄くなっていた。
完全には消えていない。
話し合いはこれからで、どうなるかわからない。
でも、あの重い灰色が、少し、軽くなっていた。
そして、あの温かい色の糸が、今日は昨日より太かった。
店と店の間で、互いを向いて、静かに光っていた。
夕方、芹奈さんが商店街を歩いているのを見かけた。
いつもより、足が軽かった。
八百屋の前で木村さんと話して、笑っていた。
芹奈さんの糸を確認した。
あの、まだ何色かわからない糸が、今日は昨日よりはっきりしていた。
透明ではなかった。
色がある。
まだ名前はつけられないけれど、確かに、色があった。
その日の夕方、美咲が来た。
木村さんの店で野菜を買った帰りらしく、エコバッグを持っていた。
「澄江さん、ちょっと寄っていいですか」
「もちろん」
澄江さんが立ち上がった。
美咲が座った。
私は美咲を見た。
糸を確認した。
赤い糸が、輝いていた。いつも通りだ。
でも、何か違う気がした。
糸の中に、小さな光があった。
今まで見たことのない、小さな、温かい光だ。
赤い糸の中に宿っている。
私はその光をまじまじと見た。
何なのか、まだわからなかった。
「美咲ちゃん、顔色が悪いわね」
澄江さんが言った。
「そうですか?」
美咲が苦笑いした。
「実は、今日、少し気分が悪くて。でも、なんか、澄江さんに話したくて来てしまって」
「どうしたの」
美咲が少し間を置いた。
「生理が、遅れていて」
澄江さんの顔が、少し変わった。
「どのくらい?」
「三週間くらい。妊娠検査薬は、まだ試していないんですが」
美咲が照れた顔をした。
「怖くて、一人では試せなくて」
「一緒に試しましょうか」
澄江さんが言った。
美咲が「いいんですか」と言った。
「もちろん」
澄江さんが立ち上がった。
「近くのドラッグストアに行きましょう」
二人が出かけた。
私はほころび庵に残った。
窓から、二人が並んで歩くのを見ていた。
澄江さんの背中が、今日は少し元気そうだった。
美咲の赤い糸の中の"小さな光が"夕暮れの中でゆれていた。
三十分後、二人が戻ってきた。
美咲の顔が、来たときと違った。
泣いているような、笑っているような、そういう顔をしていた。
「陽性でした」
美咲が言った。声が、少し震えていた。
澄江さんが「よかった」と言った。
美咲が泣き出した。
「嬉しいのか、怖いのか、わからなくて。でも、なんか、止まらなくて」
澄江さんが黙って、美咲の背中に手を置いた。
私はカウンターから降りて、美咲の足元に座った。
美咲の赤い糸の中の、小さな光が、さっきより明るかった。
これか、と思った。
新しい命の糸だ。
まだ小さい。
でも、確かにある。
「木村さんに、言わなきゃ」
美咲が目を拭いながら言った。
「今すぐ行きなさい」
澄江さんが言った。
美咲が立ち上がった。
エコバッグを持って、暖簾をくぐりかけて、振り返った。
「澄江さん、ありがとうございます」
「行ってらっしゃい」
美咲が走り出した。
私は窓から見ていた。
美咲が八百屋に駆け込んでいくのが見えた。
しばらくして、木村さんの声が、商店街に響いた。
何を言っているか聞こえなかった。
でも、声が震えていた。
磯田さんが「木村、泣くな」と言う声が聞こえた。
木村さんの「泣いてない」と言う声が聞こえた。
どう聞いても、泣いていた。
澄江さんが窓から外を見て、目を細めた。
「よかったわ」
澄江さんが言った。
「本当に、よかった」
私は窓の外を見た。
八百屋の方向に、二本の赤い糸があった。
美咲の糸と、木村さんの糸が、夕暮れの光の中で輝いていた。
その糸の中に、小さな光が宿っていた。
まだ小さい。でも、確かにある。
夜、窓から商店街を眺めた。
灰色の糸は、まだあった。
完全には消えていない。
商店街の未来は、まだ決まっていない。
でも、今日、咲子さんが動いた。
縁は途切れていな、と昨日確かめた。
朱音が二十数年前に咲子さんに言った言葉が、今日この場所へ戻ってきた。
そして今日、この商店街に、新しい命の糸が生まれた。
灰色の糸の向こうで、小さな光が揺れていた。
何色なのか、まだうまく言えなかった。
ただ、温かかった。
新しいものが生まれるとき、糸はこういう色をするのかもしれない、と思った。
確かなことはわからない。
でも、その光は、夜の商店街の中で、静かに、確かに、揺れていた。




