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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第三章 それぞれの答え

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第26話:繋がりは、形を変えて残り続ける

─────七月に入って、商店街には容赦のない夏の日差しが戻ってきた。


 長く鬱陶しかった梅雨が明けた朝、八百屋の木村さんが「やっと本格的に晴れたぞ!」と眩しそうに空を仰いで声を上げ、向かいの磯田さんが「毎年毎年、梅雨明けに同じこと言うなよ」と可笑しそうに笑った。


 いつもと変わらない、この下町商店街の微笑ましい夏の朝の光景。けれど、二人の交わす笑い声は、例年に比べてどこか少しだけ短く、乾いているように感じられた。


 『再開発に関する正式な事業提案が、今月中に会社側から出されるらしい』─────そんな具体的で切迫した噂が、いつの間にか商店街の隅々にまで急速に広まっていたからだ。


 人々の心にまとわりつく、あの不気味な灰色の糸は、夏の強い陽光に照らされてなお、一段と色濃く、重苦しく街を覆い始めていた。


 私はほころび庵の格子窓から、そんな夏の商店街の様子を静かに眺めていた。


 実はここ最近、私は毎朝欠かさず、澄江さんの胸元の糸の状態を確認するようになっていた。


 今日もやはり、他人を思いやる純粋な「白い糸」の光がどこか薄く、魂の輝きを示す「金の糸」も、煤をかぶったようにくすんでしまっている。澄江さんは表向き、今日もいつも通りににこにこと穏やかに微笑んでいた。


 けれど、その笑顔の裏で彼女の魂がどれほど摩耗しているか、私にははっきりと視えていた。


 橘咲子さんが三度目にほころび庵の暖簾をくぐったのは、そんなある日の午後のことだった。


 最初の訪問から数えて、これで三度目になる。


 今日の彼女は、これまでの張り詰めたグレーのビジネススーツ姿ではなかった。柔らかなブラウスにスカートという、完全な休日の装いだった。けれど、その表情には、どこか大きな決断を胸に秘めたような、迷いと真剣さの混じった顔をしていた。


「澄江さん、こんにちは。……今日はね、お仕事の途中ではなくて、プライベートで来ました」


 咲子さんは少しはにかむように言った。


「ええ、いつでもどうぞ。よくいらしてくれましたね」


 澄江さんは温かく彼女を迎え入れ、いつものように冷たいハーブティーを差し出した。


 咲子さんは勧められたパイプ椅子にゆっくりと腰掛けた。けれど、しばらくの間は何も話さず、ただじっと手元の湯呑みを見つめていた。


「実は……主人と、じっくり話をしました」


 咲子さんは、ぽつりぽつりと重い口を開いた。

 澄江さんは何も挟まず、ただ静かにその言葉に耳を傾けている。


「この下町商店街のこれまでの歴史のこと、ここで暮らす人たちの温かさのこと……。私の胸にある思いを、すべて正直に主人に打ち明けたんです。そして、担当者である私には、これ以上この再開発計画を推進することはどうしてもできない、って伝ました」


「まあ……。それで、旦那様はどうなさいましたか?」


「主人は……全く怒りませんでした」


 咲子さんは、自分でもまだ信じられないといった様子で、少し驚いたような顔をして微笑んだ。


「私の話を、途中で遮ることもせず、最後まで黙って真剣に聞いてくれて。それから、深く息を吐いて、『そうか、お前がそこまで言うなら、きっと本当に素晴らしい街なんだな』って、そう言ってくれたんです」


 咲子さんは膝の上で、自分の手をぎゅっと握りしめた。


「主人もね、本当は心のどこかで分かっていたみたいなんです。数字や効率を優先した計画としては正しくても、この商店街には、データには決して出てこない大切な『何か』があるって。ただ、一会社員としての責任があるから、必死に進めていただけだったみたいで……」


「そうですか……。素敵なお連れ合いですね」

 澄江さんがしみじみと言った。


「はい。だから、二人で話し合って、来月の正式提案の前に、会社に対して『計画の見直しを求める反対意見書』を共同で提出することに決めました。夫婦そろって社内での立場が危うくなるかもしれないし、これからの生活だってどうなるか分かりません。けれど……」


 咲子さんはすっと顔を上げ、淀みのない綺麗な目で澄江さんを見つめた。


「昔、朱音さんに言われたんです。『名前が変わっても、場所が変わっても、あなたはあなたのままだから何も怖くない』って。今回も、きっと全く同じなんだと思います。例えこの先、会社での地位や役職を失うことになったとしても、何かを正しく選び取った私は、私自身のままでいられるから」


 私はカウンターの上から、咲子さんの胸元の糸をじっと見つめた。


 驚いたことに、彼女を激しく苦しめていたあのどす黒い灰色の糸は、霧が晴れるようにみるみる薄くなっていた。そして代わりに、家族との絆を示す白い糸が、これまでになく優しく温かい光を放ち始めている。


 それだけではない。彼女の胸の奥深くから、新しく、本当に細いけれど気高い「金色の糸」がすうっと立ち上るのが視えた。


 それは、目に見えない大いなる存在や、確かな愛によって「守られている」人だけが纏う、気高き糸の相だった。


 咲子さんはもう、暗闇の中で一人きりで悩む孤独な存在ではなかった。


 澄江さんは愛おしそうに目を細めると、カウンターの裏の棚から、あの擦り切れた古いノートをそっと取り出した。


「咲子さん、一つだけ、私の個人的な我が儘で聞いてもいいかしら」


「はい、何でしょうか」


「あなたが昔、朱音さんに初めて相談したとき……朱音さんは、一体どんな様子であなたの話を聞いていたのかしら」


 咲子さんは少しだけ意外そうな顔を崩し、楽しかった過去の記憶を手繰り寄せるように少し考えてから、クスクスと声を立てて笑った。


「そうですね……あの子、本当にずっと怖い顔をして私のことを見ていましたよ」


 咲子さんは懐かしそうに目を細めた。


「占いの館の扉を開けて初めて会ったとき、一瞬『えっ、この人本当に大丈夫なのかな?』って不安になっちゃったくらい。じっと私の目を真っ直ぐに見据えてきて、愛想笑いなんてこれっぽっちもなくて、なんだかすごく無愛想で」


 澄江さんは「まあ、ふふふ」と、楽しそうに声を立てて笑った。


「でもね、そうやって真剣に話を聞いてもらっているうちに、不思議と胸の奥の塊が溶けていくみたいで、涙が止まらなくなっちゃって。気づいたら、予定の時間を大幅に過ぎて二時間近くも、自分の泥臭い身の上話を全部吐き出していたんです。そして帰り際、扉を閉める直前に、ボソッと『名前が変わっても、あなたはあなたです』って……」


 咲子さんは少し遠い空を見つめるような目をした。


「その言葉が、私のその後の人生の、お守りになったんです。辛いことや挫けそうな夜が来るたびに、私はあの不器用な言葉を、何度も何度も思い出して立ち上がってきました」


 澄江さんは深く頷くと、その古いノートの向きを変えて、咲子さんの方へとそっと差し出した。


「これは、朱音さんがその生涯の最後に書き残していった、本物の言葉よ。咲子さん、この最後のページを、今度はあなたの目でしっかりと見てあげてくださいな」


 咲子さんは差し出されたノートを、壊れ物を扱うように両手で受け取り、そのページに視線を落とした。


 そして、そこに遺された私の筆跡を目にした瞬間、彼女の動きがぴたりと止まった。


「『その後がわからない。どうしても気になっている。いつか必ず、直接会って確かめたい』……」


 咲子さんは、自分のために遺されたその文字を、震える声で静かに読み上げた。


「朱音さん……本当に、私のことをずっと気にかけてくれていたのね。何年も、何年も……」


「ええ、そのようね。あなたが無事に幸せになれたかどうか、それが彼女にとっての、最後の気がかりだったのよ」


 咲子さんの綺麗な目から、堪えきれなくなった一粒の大きな涙が、ポロリとノートの余白へとこぼれ落ちた。


「……ごめんなさい。もっと早くここへ来て、元気にやっているよって、朱音さんにちゃんと報告してあげられなくて。最後まで、心配をかけたままにしちゃって……」


 澄江さんは、彼女の肩にそっと手を置いた。


「ううん、そんなことないわよ。あなたがこうして、何十年の時を超えてこの場所に辿り着いてくれた。その歩みそのものが、今の朱音さんには、何よりもしっかりと伝わっているはずだから」


 私は、静かにカウンターの上から床へと飛び降りた。


 トコトコと足音を立てて咲子さんの足元まで歩み寄り、その場でお座りをした。


 咲子さんが涙を拭いながら、不思議そうに私を見下ろす。


「ムギちゃん……?」


 私は、彼女の潤んだ両目を、真っ直ぐに、じっと見つめ返した。


 猫の私には、彼女を慰めるための人間の言葉は一言も話せない。


 けれど、かつて花村朱音として彼女の人生を救った私が、今のムギとしての身体を通じて、もう一度どうしても彼女に伝えたかったのだ。


 ――あなたは、あなたのままでいいんだよ、と。


 これからどんな困難が立ちはだかろうと、会社での立場を失おうと、あなたが自分の良心に従って選んだその道の先でも、あなたの魂の価値は、何一つとして変わりはしないのだから、と。


 私はそっと右の前足を伸ばし、咲子さんの膝の上にぽすんと優しく乗せた。


 それは、高度な霊能力による答えでも、人生の明確な正解でもない。


 ただ、「私はいつでも、あなたの味方としてここにいる」という、猫なりの不器用な意思表示だった。


 咲子さんは一瞬驚いたように目を見張ったが、すぐに愛おしそうに顔をほころばせると、私の頭を何度も何度も、優しく、慈しむように撫でてくれた。


「ふふ……本当に、いつ見てもちょっとだけ怖い顔をしてるけど」


 咲子さんは笑いながら、新しい涙を流した。


「でもね、なんだか不思議。ムギちゃんのその真っ直ぐな目つき、本当に……あの時の朱音さんに、そっくりだわ」


 私は気恥ずかしくなって、すぐに前足を引っ込めると、フイッと無愛想にそっぽを向いた。


 けれど、その頭を撫でられる温もりの心地よさは、猫の身体にとっても、前世の私の魂にとっても、決して悪いものではなかった。


 咲子さんが心からの笑顔を取り戻して帰っていった後、店内に再び静寂が戻ってきた。


 澄江さんはパイプ椅子に座ったまま、深く背もたれに身を預け、ゆっくりと静かに目を閉じた。


 私はその様子を見て、すぐに異変を察知した。


 いつもと、明らかに様子が違う。


 澄江さんが占いの最中や思考を巡らせるために目を閉じる時は、凛とした緊張感が漂うものだ。けれど、今の彼女が目を閉じている理由は、それとは全く異なっていた。


 ただ、心身のエネルギーが完全に底を突き、疲弊しきって、目を開けていることすら辛いから閉じていたのだ。


 私はすぐに彼女の足元へと駆け寄り、その膝の上に前足を乗せて「ニャー」と強く鳴いた。


 澄江さんは重い瞼をゆっくりと開けると、私を見て、申し訳なさそうに力なく微笑んだ。


「ああ、ごめんなさいね、ムギちゃん。なんだか急に、少しだけ頭がぼーっとしてしまって……」


 私は澄江さんの顔をじっと見つめた。


 彼女の胸元の糸は、朝確認した時よりもさらに薄く、今にも消えてしまいそうなほどに細くか細くなっていた。金の糸のくすみも、より一層ひどくなっている。


 これは、単なる日常の疲れや寝不足なんかではない。何かもっと、彼女の命の根源に関わるような重大な何かが、彼女の身体の奥深くで起きているのではないか。そんな得体の知れない恐怖が、私の小さな猫の胸を強く締め付けた。


 けれど、人間の医療の知識を持たない今の私には、それが一体何なのかまでは分からない。 

 今の私にできること、澄江さんのために行動できることは、ただ一つだけだった。


 私はきっぱりと身を翻すと、ほころび庵の入り口の引き戸に向かって真っ直ぐに歩いた。


 扉の前で立ち止まり、振り返って澄江さんをじっと見つめる。


「あら、どうしたの? どこかへ行くの?」


 澄江さんが尋ねる。


 私は答えの代わりに、右の前足で引き戸を「ガリガリ」と強く叩いた。


「外に出たいのかしら。少し、お散歩でもしてくる?」


 澄江さんは重い腰を上げると、ゆっくりと歩いてきて、引き戸を少しだけ開けてくれた。


 私はその隙間から、夏の強い日差しが照りつける商店街へと勢いよく飛び出した。


 そのまま脇目も振らず、斜め向かいにある木村さんの八百屋を目指して四本足で駆けた。


 店先では、木村さんがちょうど新しく仕入れた夏野菜のダンボールを運んでいるところだった。私は彼の足元でピタッと立ち止まると、その顔を真っ直ぐに、強く見据えた。


「ん? ムギ、どうしたんだよ、そんなに血相変えて」


 木村さんが作業の手を止め、不思議そうに屈み込んできた。


「ニャー! ニャー!」


 私はほころび庵の方向を何度も振り返り、それから木村さんを見上げ、もう一度ほころび庵の暖簾を鋭く指し示すようにして鳴き続けた。


 木村さんは私の異様な様子に、少しだけ眉をひそめて考え込んだ。


「……ムギ。もしかして、澄江さんの身に、何かあったのか?」


 私はその場から一歩も動かず、ただじっと彼を見つめ返した。


 木村さんは「……ちょっと待ってろ!」と叫ぶと、持っていたダンボールを放り出し、腰のエプロンを素早く外した。


「澄江さん! 澄江さん、大丈夫ですか!?」


 木村さんが勢いよくほころび庵の引き戸を開けて飛び込んできた。


 椅子に座っていた澄江さんは、突然の乱入者に少し面食らったような顔をして、「あら、木村さん。一体どうしたの、そんなに慌てて。ふふ、私の顔色がそんなに悪く見えるかしら」と、いつものように穏やかに笑ってみせた。


「悪いですよ! 誰がどう見たって、今の澄江さんの顔色は異常です!」


 木村さんは真剣な表情で、澄江さんの前に詰め寄った。


「最近、ずっとそうだった。俺、本当はずっと気になっていたんですよ。いつも通りににこにこ笑っているから、周囲の皆は気づかないふりをして甘えていたけれど、明らかに無理をされているって!」


「大丈夫よ、本当に。少し夏バテ気味で、疲れているだけだから……」


「ちゃんと、定期的に病院には行っているんですか?」


「まあ……」


 澄江さんは困ったように視線を泳がせ、子供のように言葉を濁した。


「最近は、お店が少し忙しかったこともあって、足が遠のいてしまっていたけれど……」

「だったら、今すぐに行ってください!」


 木村さんは強い口調で、けれどそこには確かな優しさを込めて言った。


「俺が来週、責任を持って車で病院まで連れて行きますから。近いうちに空いている日を、俺に必ず教えてください。いいですね?」


 澄江さんは、彼のあまりの剣幕に少し圧倒されたように、「ふふ、もう、大げさなんだから……」と小さく肩をすくめた。


「大げさなことなんかあるもんですか!」


 木村さんは真面目な顔を崩さなかった。


「澄江さん……あなたにこの商店街に、この店に元気でいてくれないと、俺たちみんな、本当に困るんですから」


 澄江さんはその言葉を聞くと、どこか救われたような、深い愛おしさを湛えた目で少しだけ目を細めた。


「……もしかして、私を心配して、あの子があなたを呼んできてくれたのかしらね」


 澄江さんは、足元に戻ってきた私に優しい視線を向けた。私はいつものように、フイッと無愛想にそっぽを向いた。


「ハハ、たぶん間違いなくそうですよ」


 木村さんもようやく表情を緩めて笑った。


「このムギって猫は、やっぱりただの猫じゃないな。人間の言葉を全部理解しているみたいだ」

「ええ、本当にそうねぇ」


 澄江さんはそう言うと、私の頭をそっと撫でてくれた。その時の彼女の笑顔は、ここ数日間のどんな笑顔よりも、ずっと柔らかく、本来の温かみを取り戻しているように私には視えた。


 その夜、私は深夜の格子窓から、静まり返った夏の商店街を静かに見つめていた。


 頭上を覆うあの不気味な灰色の糸は、今も消えることなく、不穏な影を街に落とし続けている。来月には正式な再開発の提案が出されるという現実は、何一つ変わっていない。


 けれど、今日、一人の人間─────橘咲子さんが、自分の良心に従って大きく動いた。


 一人の人間が勇気を持って動けば、それに伴って周囲の糸の因果は必ず変わり始める。


それがどれほど大きな変化をもたらすかは、猫の私にもまだ予測はつかない。けれど、確かに未来への糸は動き出したのだ。


 澄江さんの胸元の糸は、今夜もまだ薄く、頼りない状態のままだった。けれど、夕方に木村さんが必死になって駆けつけてくれてからは、その白い輝きの中に、ほんの少しだけ確かな「生命の色」が戻りつつあった。


 かつて、人間だった頃の私――花村朱音がこの世に遺していった大切な縁の糸が、今日、十数年という長い長い時間を経て、この下町商店街へと奇跡のように戻ってきた。


 あの時、不器用な私が咲子さんに贈った「名前が変わっても、あなたはあなたです」という小さな言葉が、巡り巡って、今度はこの危機に瀕した商店街を救うための、ささやかな希望の光となって帰ってきたのだ。


 人の縁というものは、決して簡単には消え去らない。


 例え形を変えても、どれほど長い年月が経とうとも、魂の奥底で結ばれた糸は、絶対に切れることはないのだ。


 私はその厳然たる事実を、今日という日を通じて、再び深く確信していた。


 七月の暖かな夜風が、夏の商店街を静かに、優しく包み込んでいく。


 押し寄せる巨大な灰色の影の真ん中で、人々の紡ぐあの泥臭く温かい色の糸の束は、今夜も決して負けることなく、美しく、力強く光り続けていた。


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