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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第三章 それぞれの答え

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第25話:捨てられないもの

 咲子さんが二度目に来たのは、最初の訪問から一週間後だった。


 今日も仕事の途中の顔だった。でも、前回より少し疲れていた。


 糸を確認した。


 銀色の記憶の糸は、前回より落ち着いていた。


 でも、胸のあたりの灰色の糸が、前回より太くなっていた。


 何かが、動いている。


「また来てしまいました」咲子さんが言った。


「いつでもどうぞ」


 澄江さんがハーブティーを出した。


 咲子さんが座った。

 しばらく、湯呑みを見ていた。


「仕事で、動きがあって」


 咲子さんが言った。


「再開発の計画、来月に正式な提案を出すことになって」


 澄江さんが「そうですか」と言った。


「会社からは、推進する方向で、と言われていて」


 咲子さんが湯呑みを置いた。


「でも、私には、できない気がしてきて」



「できない、というのは」


澄江さんが穏やかに聞いた。


「この商店街を、壊すことが」


 咲子さんが言った。


「仕事としては、わかっているんです。再開発には意味がある。古い建物を更新して、新しい住民を呼んで、地域を活性化する。理屈は正しい」


 咲子さんが窓の外を見た。


「でも、ここに来てから、この商店街を歩くたびに、なんか、違う気がしてきて」


「違う、というのは?」


「ここには、長い時間をかけて積み重なってきたものがある気がして」


 咲子さんが言った。


「それを壊すのが、正しいのかどうか」


 私は咲子さんを見た。


 由奈さんが言っていた言葉を思い出した。


 縁の糸が層になっている。


 咲子さんには糸は視えない。でも、感じている。


「会社に、反対意見を出せばいいんじゃないですか」


 澄江さんが言った。


「それが」


 咲子さんが少し俯いた。


「簡単じゃなくて」



「夫が、同じ会社にいるんです」


 咲子さんが静かに言った。


「この再開発プロジェクト、夫が立ち上げた企画で。夫にとっては、大事な仕事で」


 澄江さんが「まあ」と言った。


「私が反対すれば、夫の仕事を否定することになる。それだけじゃなくて、私自身の立場も危うくなるかもしれない。家族を抱えているから、仕事を失うわけにも、いかなくて」


 咲子さんが手を握った。


「昔と同じだと思って」


「昔?」


「家族と確執があって、地元を出たとき」


 咲子さんが言った。


「あのときも、何かを選んで、何かを捨てた。今もまた、どちらかを選ばなきゃいけない気がしていて」


 私は、咲子さんの灰色の糸を見た。


 太くなっていた。


 でも、その隣に、細い白い糸も見えた。


 家族の糸だ。夫の方向を向いていた。


 この人は、夫を嫌いなわけじゃない。


 ただ、二つのものを同時に守れないと思っている。



 咲子さんが帰った後、澄江さんが椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。


 私は澄江さんを見た。


 いつもと、少し違った。


 にこにこしていない。

 目が、少し遠くを見ていた。



 私は鳴いた。


 澄江さんが「ああ、ごめんなさい」と言って、私を見た。笑顔を作った。


 でも、今日の笑顔は、少し遅かった。


 私は澄江さんの糸を確認した。


 白い糸が、いつもより薄かった。


 金の糸も、少しくすんでいた。


 疲れている。


 体の疲れではないかもしれない。

 

 でも、何かが、少しずつ澄江さんの糸から色を奪っていた。


 再開発の噂が出てから、澄江さんはずっと、普通の顔をしていた、にこにこして、相談者を受け止めて、何も言わなかった。


 でも、澄江さんも、消耗していた。


 私には、それが見えた。



 その夜、澄江さんが早めに店を閉めて、奥の部屋に入った。


 私は窓から、夜の商店街を見ていた。


 雨が降っていた。


 木村さんの店のシャッターが閉まっていた。磯田さんの紫陽花の鉢植えが、雨に濡れていた。


 商店街の糸を確認した。


 灰色の糸は、まだあった。


 でも、あの温かい色の糸も、まだ光っていた。


 消えていなかった。


 私は咲子さんのことを考えた。


 昔、朱音に「名前が変わっても、あなたはあなたです」と言われた人が、今また、何かを選ばなければならない場所に立っている。


 朱音が言ったのは、何かを捨てなくていい、ということではなかったはずだ。


 立場や呼び名が変わっても、あなたの価値はそのまま。


 それは、何を選んでも、あなたはあなただ、ということだ。


 でも咲子さんは今、どちらかを捨てなければならないと思っている。


 それが、違う気がした。


 朱音なら、どうしただろう。


 私には言葉がない。


 でも、何かできることがある気がした。



 夜遅く、奥の部屋から澄江さんの声が聞こえた。


 電話だった。


 健二さんに、かけていた。


「ええ、元気よ。ただ、少し疲れた気がして、声が聞きたくなって」


 私は、その声を聞いていた。


 澄江さんが「疲れた」と言った。


 この人が、そう言うのを、初めて聞いた気がした。


「うん、大丈夫。ありがとう」


 電話が終わった。


 しばらくして、澄江さんが出てきた。

 私を見て、少し笑った。


「ムギちゃん、起きてたの」


 私はそっぽを向かなかった。


 澄江さんを、まっすぐ見た。


 澄江さんが私の頭を撫でた。


「なんか、心配してくれてる?」


 私は、澄江さんの隣に座った。


 答えなかった。


 ただ、隣にいた。


 雨の音が、ほころび庵の屋根を静かに叩いていた。

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