第25話:捨てられないもの
咲子さんが二度目に来たのは、最初の訪問から一週間後だった。
今日も仕事の途中の顔だった。でも、前回より少し疲れていた。
糸を確認した。
銀色の記憶の糸は、前回より落ち着いていた。
でも、胸のあたりの灰色の糸が、前回より太くなっていた。
何かが、動いている。
「また来てしまいました」咲子さんが言った。
「いつでもどうぞ」
澄江さんがハーブティーを出した。
咲子さんが座った。
しばらく、湯呑みを見ていた。
「仕事で、動きがあって」
咲子さんが言った。
「再開発の計画、来月に正式な提案を出すことになって」
澄江さんが「そうですか」と言った。
「会社からは、推進する方向で、と言われていて」
咲子さんが湯呑みを置いた。
「でも、私には、できない気がしてきて」
「できない、というのは」
澄江さんが穏やかに聞いた。
「この商店街を、壊すことが」
咲子さんが言った。
「仕事としては、わかっているんです。再開発には意味がある。古い建物を更新して、新しい住民を呼んで、地域を活性化する。理屈は正しい」
咲子さんが窓の外を見た。
「でも、ここに来てから、この商店街を歩くたびに、なんか、違う気がしてきて」
「違う、というのは?」
「ここには、長い時間をかけて積み重なってきたものがある気がして」
咲子さんが言った。
「それを壊すのが、正しいのかどうか」
私は咲子さんを見た。
由奈さんが言っていた言葉を思い出した。
縁の糸が層になっている。
咲子さんには糸は視えない。でも、感じている。
「会社に、反対意見を出せばいいんじゃないですか」
澄江さんが言った。
「それが」
咲子さんが少し俯いた。
「簡単じゃなくて」
「夫が、同じ会社にいるんです」
咲子さんが静かに言った。
「この再開発プロジェクト、夫が立ち上げた企画で。夫にとっては、大事な仕事で」
澄江さんが「まあ」と言った。
「私が反対すれば、夫の仕事を否定することになる。それだけじゃなくて、私自身の立場も危うくなるかもしれない。家族を抱えているから、仕事を失うわけにも、いかなくて」
咲子さんが手を握った。
「昔と同じだと思って」
「昔?」
「家族と確執があって、地元を出たとき」
咲子さんが言った。
「あのときも、何かを選んで、何かを捨てた。今もまた、どちらかを選ばなきゃいけない気がしていて」
私は、咲子さんの灰色の糸を見た。
太くなっていた。
でも、その隣に、細い白い糸も見えた。
家族の糸だ。夫の方向を向いていた。
この人は、夫を嫌いなわけじゃない。
ただ、二つのものを同時に守れないと思っている。
咲子さんが帰った後、澄江さんが椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。
私は澄江さんを見た。
いつもと、少し違った。
にこにこしていない。
目が、少し遠くを見ていた。
私は鳴いた。
澄江さんが「ああ、ごめんなさい」と言って、私を見た。笑顔を作った。
でも、今日の笑顔は、少し遅かった。
私は澄江さんの糸を確認した。
白い糸が、いつもより薄かった。
金の糸も、少しくすんでいた。
疲れている。
体の疲れではないかもしれない。
でも、何かが、少しずつ澄江さんの糸から色を奪っていた。
再開発の噂が出てから、澄江さんはずっと、普通の顔をしていた、にこにこして、相談者を受け止めて、何も言わなかった。
でも、澄江さんも、消耗していた。
私には、それが見えた。
その夜、澄江さんが早めに店を閉めて、奥の部屋に入った。
私は窓から、夜の商店街を見ていた。
雨が降っていた。
木村さんの店のシャッターが閉まっていた。磯田さんの紫陽花の鉢植えが、雨に濡れていた。
商店街の糸を確認した。
灰色の糸は、まだあった。
でも、あの温かい色の糸も、まだ光っていた。
消えていなかった。
私は咲子さんのことを考えた。
昔、朱音に「名前が変わっても、あなたはあなたです」と言われた人が、今また、何かを選ばなければならない場所に立っている。
朱音が言ったのは、何かを捨てなくていい、ということではなかったはずだ。
立場や呼び名が変わっても、あなたの価値はそのまま。
それは、何を選んでも、あなたはあなただ、ということだ。
でも咲子さんは今、どちらかを捨てなければならないと思っている。
それが、違う気がした。
朱音なら、どうしただろう。
私には言葉がない。
でも、何かできることがある気がした。
夜遅く、奥の部屋から澄江さんの声が聞こえた。
電話だった。
健二さんに、かけていた。
「ええ、元気よ。ただ、少し疲れた気がして、声が聞きたくなって」
私は、その声を聞いていた。
澄江さんが「疲れた」と言った。
この人が、そう言うのを、初めて聞いた気がした。
「うん、大丈夫。ありがとう」
電話が終わった。
しばらくして、澄江さんが出てきた。
私を見て、少し笑った。
「ムギちゃん、起きてたの」
私はそっぽを向かなかった。
澄江さんを、まっすぐ見た。
澄江さんが私の頭を撫でた。
「なんか、心配してくれてる?」
私は、澄江さんの隣に座った。
答えなかった。
ただ、隣にいた。
雨の音が、ほころび庵の屋根を静かに叩いていた。




