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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第三章 それぞれの答え

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第24話:ずっと繋がっているもの

 六月に入って、商店街に紫陽花が飾られた。


 鮮魚店の磯田さんが毎年、店先に鉢植えを置く。


「梅雨は暗くなるから」というのが理由で、今年は正一さんが退院してから初めての紫陽花だった。正一さんが店先に出てきて、鉢を眺めていた。右手のしびれは残っているが、顔の色はいい。


 私はその様子を窓から見ながら、今日の糸の具合を確認していた。


 梅雨の糸は、水分を含んでぼんやりする。でも、嫌いではない。輪郭が滲むぶん、糸の色が柔らかくなる。


 その女性が来たのは、そういう六月の、雨上がりの午前だった。


 四十代前半だろうか。


 グレーのスーツを着ていた。仕事の途中に来た顔だった。


 でも、入り口で少し迷っていた。


 暖簾を見て、店名を確認して、それから決心したように入ってきた。


 糸を確認した。


 白い糸が何本か。赤い糸が一本、細いが温かい。


 そして、銀色の糸が一本。


 記憶の糸だ。


 その糸の先を辿った。


 カウンターの棚の方向だった。


 ノートが置いてある棚だ。


 私は、静かに立ち上がった。


「いらっしゃいませ」


 澄江さんが顔を上げた。


 女性が入ってきて、店内を見回した。


「あの」


 女性が言った。


「ここは、ずっと同じ方がやっていらっしゃいますか」


「ええ、四十年近く」


 澄江さんが言った。


「どうぞ、座ってください」


 女性が座った。


 少し間があった。


「昔、ここに来たことがあって」


 女性が言った。


「といっても、私が来たんじゃなくて、知り合いが来ていたんですが」


「そうですか」


「その知り合いが、この店のことをよく話していて。気になっていたんですが、なかなか来られなくて」


 女性が、少し躊躇してから言った。


「花村朱音さんという方を、ご存知ですか」



 澄江さんが、私を見た。


 私は、澄江さんを見た。


 澄江さんが静かに言った。


「存じています。数年前に亡くなった方ですね」


「そうです」


 女性が言った。


「亡くなったと聞いて、驚いて。若かったのに」


「ええ」


 女性が手を膝の上で重ねた。


「朱音さんに、昔、相談に乗っていただいたことがあって。それから一度も連絡できなくて。お礼が言いたかったんですが、間に合わなくて」


 澄江さんが「そうでしたか」と言った。


「それで、せめてここに来てみようと思って。朱音さんがよく話していた場所だったので」


 私はカウンターの棚を見た。


 ノートが置いてある。


 彩音が預けていったノートが、そこにある。



 澄江さんが少し間を置いてから、立ち上がった。


 棚からノートを取り出した。


「実は、朱音さんの遺族の方から、預かっているものがあって」


 澄江さんが言った。


 女性が目を見開いた。


「朱音さんの相談者のリストだそうで。もしかしたら、あなたのことも書いてあるかもしれない」


 澄江さんがノートを開いた。最後のページを見た。


 澄江さんの目が、止まった。


「お名前を聞いてもいいですか」


 澄江さんが言った。


「橘咲子といいます。旧姓は伊藤で」


 澄江さんが頷いた。


「書いてありますよ」


 澄江さんが静かに言った。


「あなたのことが」


 女性の、橘咲子さんの目が、潤んだ。


「なんて、書いてありますか」


 澄江さんが読んだ。


「『その後がわからない。気になっている。いつか確かめたい』」


 咲子さんが、しばらく動かなかった。


「朱音さん」


 咲子さんが小さく言った。


「ずっと、気にしてくれていたんですね」



「差し支えなければ」

 

 澄江さんが穏やかに言った。


「朱音さんに、どんな相談をされたか、聞いてもいいですか」


 咲子さんが少し考えてから、話し始めた。


「二十代のころ、家族と仲が悪くて。地元を出て、全部捨てて、新しく生きたかった。でも、自分が自分でなくなる気がして、怖くて」


 私は、咲子さんを見ていた。


「朱音さんに相談したら」


 咲子さんが続けた。


「名前が変わっても、場所が変わっても、あなたはあなたですって言われて」


 咲子さんが少し笑った。


「その言葉で、踏み出せた。地元を出て、結婚して、橘になって。今は仕事もあって、家族もいる」


「よかった」


 澄江さんが言った。


「はい」


 咲子さんが頷いた。


「でも、今また、似たような場所に立っている気がして」


 私は耳を立てた。


「似たような場所?」


 澄江さんが聞いた。


 咲子さんが少し間を置いた。


「仕事で、この商店街の再開発を担当していて」


 店内が、静かになった。



「再開発の」澄江さんが静かに言った。


「はい」


 咲子さんが言った。


「会社からアサインされてされて。仕事として、進めなければならない立場で」


 澄江さんがにこにこしたまま、何も言わなかった。


 咲子さんが続けた。


「でも、この商店街を歩いていたら、ほころび庵の名前が見えて。朱音さんから聞いていた名前だったから、思わず止まってしまって」


 咲子さんが手を握った。


「仕事として来たわけじゃないんです。ただ、朱音さんに会いに来た、つもりで」


 私は咲子さんの糸を見た。


 銀色の記憶の糸が、今日は強く震えていた。


 そして、胸のあたりに、細い灰色の糸が見えた。


 個人の不安の糸だ。


 商店街の灰色の糸とは、少し違う。


 これは、咲子さん自身の中にある、古い問いが戻ってきているときの色だった。


 また、何かを捨てようとしている。


 昔と同じように。


 澄江さんがハーブティーを出した。


「ゆっくりしていってください」


 澄江さんが言った。


「仕事の話は、今日はしなくていいから」


 咲子さんが、少し驚いた顔をした。


「いいんですか」


「ええ」


 澄江さんが言った。


「今日は、朱音さんに会いに来たんでしょう。それだけでいい」


 咲子さんが、ハーブティーを両手で持った。


「朱音さんって」


 咲子さんが言った。


「怖い顔で、でも一生懸命で、なんか放っておけない人でしたよ」


 澄江さんが「まあ」と笑った。


「この猫も、少しそういうところがあるわよ」


 咲子さんが私を見た。


 私は咲子さんを見た。


「怖い顔」


咲子さんが少し笑った。


「確かに、似てるかもしれない」


 私はそっぽを向いた。


 怖い顔はしていない。


 ただ、まっすぐ見ているだけだ。


 でも、似ていると言われたことは、悪くなかった。


 咲子さんが帰り際、暖簾の前で振り返った。


「また来てもいいですか」


「いつでも」


 澄江さんが言った。


 咲子さんが出て行った。


 澄江さんが、ノートをもう一度見た。


「来てくれたわね」


 澄江さんが静かに言った。


「朱音さん、よかったわね」


 私はノートを見た。


 『その後がわからない。気になっている。いつか確かめたい』


 幸せになれたか。それは、わかった。


 朱音が知りたかった答えは、たぶんそれだった。


 六月の雨が、また降り始めていた。

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