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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第三章 それぞれの答え

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第23話:残された名前

 五月の連休が明けて、商店街に初夏の風が吹き始めた。


 アーケードの外では、木村さんが立夏の飾りをつけていた。美咲が隣で手伝いながら笑っていた。

 二人の赤い糸が、五月の光の中で輝いていた。


 商店街の取り壊しの噂は、まだ続いていた。でも、あの温かい色の糸も、先月より太くなっていた気がした。


 彩音が来たのは、そういう五月の午後だった。


 四度目の来訪だった。


 最初に来たときの張り詰めた顔はなかった。二月に来たときの、泣き明かした顔でもなかった。


 今日の彩音は、少し緊張した顔をしていた。


 何かを持ってきた顔だ。


 糸を確認した。


 銀色の記憶の糸は、今日は震えていなかった。落ち着いていた。


 そして、二月に初めて見えた細い赤い糸が、今日はあのときより少しだけ太くなっていた。


 前を向いていた。


「いらっしゃい、彩音さん」


 澄江さんが顔を上げた。


「澄江さん、こんにちは」


 彩音が座った。


「今日は、お願いがあって来ました」


「どうぞ」


 彩音がバッグから、古いノートを取り出した。


 A5サイズの、表紙が擦り切れたノートだった。


「朱音の遺品を、もう一度整理していたら、出てきて」


 彩音がノートをテーブルに置いた。


「相談者のリストでした」



「リスト?」


澄江さんが言った。


「朱音は、相談に来た人のことを、ノートにまとめていたみたいで」


彩音が言った。


「名前と、相談の内容と、その後どうなったか、わかる範囲で書いてあって」


 私は、ノートを触った


 今は懐かしかった。


 何冊も書いたノートの、最後の一冊だった。


 相談に来た人のことが気になって、記録していた。連絡が来た人もいた。来なかった人もいた。どうなったか、知らないままの人も多かった。


「ほとんどの人は、その後の記録もあって」


彩音が続けた。


「でも、一人だけ、最後まで気になっていたみたいで」


 彩音がページをめくった。


 最後のページに、一人だけ名前が書いてあった。


 その下に、こう書いてあった。


『その後がわからない。気になっている。いつか確かめたい』


 日付は、朱音が死ぬ一週間前だった。


「この人を探してほしいわけじゃないんです」


 彩音が言った。


「ただ、澄江さんに見てもらえたら、と思って」


 彩音がノートを、澄江さんに向けて置いた。


 澄江さんが、名前を読んだ。


 私には文字が読めない。


 でも、澄江さんの顔が、止まった。



 澄江さんが、ノートを見たまま、動かなかった。


 五秒、十秒。


 私は澄江さんを見た。


 澄江さんの糸が、静かに揺れていた。


「澄江さん?」


 彩音が心配そうに言った。


「ごめんなさい」


 澄江さんが顔を上げた。


「少し、驚いて」


「知っている方ですか?」


 澄江さんが、静かに言った。


「この名前の方、私も知っています」


 彩音が目を見開いた。


「朱音さんの相談者だったんですね」


 澄江さんが続けた。


「私も、何度かお会いしたことがあって」


「どんな方ですか?」


 澄江さんが少し考えた。


「真面目で、不器用で、人に頼るのが苦手な方で」


 澄江さんが言った。


「ずいぶん前に来てくださったきり、その後どうされているか、私も気になっていました」


 私は澄江さんを見た。


 澄江さんが私を見た。


 二人の間で、何かが確認された気がした。



 私は、ノートを見た。


 文字は読めない。でも、ノートから糸が伸びていた。


 記憶の糸だ。銀色の、薄い糸。


 その糸の先を辿った。


 商店街の、外の方向だった。


 遠くへ、でも確かにどこかへ、繋がっていた。


 この人は、まだどこかにいる。


 私にはそれだけが、わかった。



 話が一段落して、澄江さんがハーブティーをお替わりしながら言った。


「彩音さん、最近はどうですか。二月より、顔が明るくなった気がして」


 彩音が少し照れた。


「実は、少し前から、気になる人がいて」


 澄江さんが「まあ」と言った。


「行きつけのカフェがあるんですけど、そこを経営してる人で、まだどうなるかわからないんですけど」


 私は彩音の糸を確認した。


 二月に見えた、細い赤い糸。

 あれから、少し太くなっていた。

 まだ細い。でも、前を向いていた。


「朱音が『自分の糸は見えない』って言ってたでしょう」


 彩音が言った。


「私も、自分のことはわからなくて。どうなるかわからないけど」


 彩音が少し笑った。


「気になっているのは本当だから」


「それだけで十分じゃないかしら」


 澄江さんが言った。


「気になる、という気持ちが、糸の始まりだと思うから」


 彩音が頷いた。


 私は彩音の赤い糸を眺めた。


 自分の糸が見えなかった朱音と、自分の糸が見えない彩音。


 でも彩音の糸は、私には見える。


 細くて、まだ頼りないけれど、真っ直ぐ前を向いていた。


 悪くない糸だ。



 彩音が帰り際、ノートを澄江さんに預けた。


「もし、その方がここに来るようなことがあれば、見せてあげてください」


 彩音が言った。


「朱音が気にかけていたということだけでも、伝わればいいので」


「わかりました」


 澄江さんが受け取った。


 彩音が出て行った。


 澄江さんが、ノートをカウンターの棚に置いた。


 私はそのノートを見た。


 朱音が書いた文字が、そこにある。


 最後まで気になっていた、一人の名前が、そこにある。


 その人は今、どこにいるのか。


 糸は繋がっていた。商店街の外の、どこかへ。


 澄江さんが窓の外を見ながら言った。


「縁というのは、不思議ね。繋がっているのか、切れているのか、わからないまま、でも、どこかで続いていることがある」


 私は澄江さんを見た。


「幸子さんのお孫さんが来たときも、そう思った。こんなに時間が経ってから、縁が戻ってくることがある」


 澄江さんがノートを見た。


「この方も、きっと」


 私は窓の外を見た。


 五月の商店街に、風が吹いていた。


 アーケードの外の空が、高くて青かった。


 糸の先は、まだ見えない。


 でも、繋がっていた。


 それだけは、確かだった。

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