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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆもニャ
第三章 それぞれの答え

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第22話:桜の向こうへ

 四月に入って、商店街に桜が咲いた。


 アーケードの外、商店街の端にある小さな公園の桜が、毎年この時期に満開になる。

 

 木村さんが「今年も咲いたぞ」と朝から声を上げて、磯田さんが「毎年言うな」と笑った。


 そういう朝だった。


 奈緒さんが来たのは、桜が満開の、四月の昼だった。


 去年の四月、田中さんの告白を受けて走ってほころび庵に来た日から、ちょうど一年が経っていた。


 奈緒さんの糸が、去年と全然違った。


 あのころは、赤い糸が田中さんの方向を向いていたのに、本人だけが気づいていなかった。

 今日は、その赤い糸が太く、輝いていた。


 そして、白い糸も増えていた。


 血の縁の糸が、新しく生まれていた。


 田中さんの家族との縁だ。


「澄江さん、ご報告があって」


 奈緒さんが暖簾をくぐりながら言った。

 

 顔が、明るかった。


「まあ、どうぞ」


 澄江さんが立ち上がった。


「先月、入籍しました」


 澄江さんが「まあ!」と言った。


 今日の「まあ」は、一年分の感情が込もっていた。


「田中くんと?」


「はい」


 奈緒さんが照れた。


「籍だけ先に入れて、式は秋にする予定で」


「おめでとう」


 澄江さんが言った。


「本当に、よかった」


 私はカウンターの端で、奈緒さんの糸を眺めた。


 条件表を持ってきたあの日から、ずいぶん遠くへ来た。



「去年、条件表を持ってきたでしょう」


澄江さんが言った。


「ああ、あれ」


 奈緒さんが少し笑った。


「恥ずかしいな、今思うと」


「捨てていったものね」


「捨ててよかったです。あのまま条件で選んでいたら、どうなっていたか」


 奈緒さんがハーブティーを飲んだ。


「田中くん、スペック表に書いたらパッとしないんですよ。年収も学歴も、私が書いた条件には全部入らなくて」


 奈緒さんが私を見た。


「でも、ムギちゃんが丸を作ってくれたじゃないですか、あの日」


 私はそっぽを向いた。


「あれ、ずっと覚えてて。猫が丸を作るってどういうことだろうって思いながら、帰り道、田中くんのことを考えたら、なんか止まらなくて」


 奈緒さんが笑った。


「走ってここに来たんですよね、あの日。自分でも驚いて」


 澄江さんがにこにこした。


「走る足が、答えを知っていたのよ」


 奈緒さんが澄江さんと話していた、その三十分後だった。


 ほころび庵の暖簾が開いた。


 三十代の男だった。

 背が高くて、服が高そうで、髪がきっちり整っていた。


 私は男を見た瞬間、糸を確認した。


 赤い糸が、複数の方向を向いていた。一本に絞れていない糸だ。


 そして男の目が、奈緒さんを見た瞬間、止まった。


「相川?」


 奈緒さんが振り返った。


「あ」


 奈緒さんの声が、一段平らになった。


「桑原さん」


 私は桑原という男を見た。


 奈緒さんへの糸が、今、急に太くなっていた。


 いなくなってから気づく種類の糸だ。


「久しぶりだな」


 桑原が言った。


「こんなところで会うとは」


「そうですね」


 奈緒さんが言った。


 声が丁寧だったが、温かくなかった。


 桑原が澄江さんに向かって「恋愛相談があって」と言った。


椅子に座りながら、奈緒さんを横目で見た。


「昔、付き合っていた女性がいて」


 桑原が言った。


「最近また気になってきて」


「どんな方ですか?」


 澄江さんが聞いた。


「仕事ができて、頭がいい。別れて一年になるんですが」


 桑原が奈緒さんをちらりと見た。


「まだ間に合うんじゃないかと、思って」


 桑原が奈緒さんを見た。


 奈緒さんが、湯呑みを静かに置いた。


 その瞬間、桑原のスマートフォンが鳴った。


 テーブルの上に置いたままの画面に、通知が光った。


 差出人は「みゆき♡」だった。


 文面は短かった。


『昨日のデート、楽しかった。また来週ね♡』


 店内が、静かになった。


 奈緒さんが、その画面を見た。


 それから桑原を見た。


「先月、入籍しました。別の人と」


 奈緒さんが静かに言った。


「おめでとうって言ってもらえると、嬉しいんですが」


 桑原が、何も言えなかった。



 桑原が「おめでとう」とだけ言って、足早に出て行った。


 暖簾が閉まった。


 三人の間に、沈黙があった。


 それから、奈緒さんが笑った。


 声を出して、笑った。


「すっきりした」


 奈緒さんが言った。


「今日来てよかった」


 私はカウンターに戻って、毛繕いを始めた。


 少しだけ。本当に少しだけ。


 いい気味だ、と思った。



 奈緒さんが帰り際、言った。


「式、秋にするんですが」


 奈緒さんが澄江さんを見た。


「澄江さん、来てもらえますか」


 澄江さんが「まあ」と言った。

 

 目が潤んでいた。


「ムギちゃんも、来られるなら」


 奈緒さんが私を見た。


「式場が猫を連れてきていいか、確認してみます」


 私はそっぽを向いた。


 式場に猫が来ていいわけがない。


 でも、誘ってもらったことは、悪くなかった。


 奈緒さんが出て行った。


 窓から外を見た。


 奈緒さんの赤い糸が、桜の向こうへ、まっすぐ伸びていた。


 桜の花びらが一枚、くるくると落ちていった。


 悪くない春だ、と思った。

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