第21話:この場所の、糸
────三月の半ば、商店街を揺るがす不穏な噂が流れた。
最初にそれを耳にしたのは、八百屋の木村さんの怒鳴り声に近い、大きな声だった。
夕方、木村さんが店先で魚屋の磯田さんと深刻な顔で話し込んでいるのを、私はほころび庵の窓からじっと見つめていた。
「再開発の話、マジなのか」
「組合の会合で出たらしいんだよ。この辺り一帯を更地にして、巨大なタワーマンションにするっていう計画が裏で持ち上がってるって」
私は耳をピんと立て、窓ガラスに身を寄せた。
木村さんの顔が、これまで見たこともないほど険しく歪んでいる。
私は胸元を凝視して、彼の糸を確認した。すると、木村さんの糸に、今まですべての人間を通して一度も見たことのない異様な色が混じり始めていた。
――灰色。
それは単なる不安の色とも、かつて美咲の胸元を支配していた絶望の黒とも違う。
まるで冷たいコンクリートが心に圧し掛かってくるような、ひどく重く、無機質な色だった。
人間だった頃の知識をもってしても、その灰色の糸が一体何を意味しているのか、すぐには理解がつかなかった。
澄江さんの元にその噂が正式に届いたのは、翌日のことだった。
常連客の主婦が、買い物袋を抱えたまま「聞きました? 商店街の再開発の話」と戸惑った様子で入ってきた。
澄江さんはいつものように、穏やかににこにこしながらその話を聞いていた。
でも、私の目は誤魔化せない。澄江さんの指先が、差し出された湯呑みの縁を、いつもよりほんの少し強く、白くなるほど握りしめているのがはっきりと視えていた。
客が帰った後、澄江さんは引き戸のガラス越しに、外の景色を寂しげに見つめた。
「ムギちゃん」
私はお座りをして、澄江さんを見上げた。
「このお店、これからどうなるのかしら」
それは、五年前に拾われてから初めて聞く、澄江さんの弱々しく、かすかに震える声の質だった。
私は何も答えられなかった。私には人の縁や感情の糸は視えても、この街や建物の「未来」までは視えない。
翌日には、アパートの二階の窓から商店街をじっと見下ろしている芹奈さんの姿を見かけた。
ただ黙って、自分の足元にある街を見つめている。
私は芹奈さんの糸を確認した。あの夏の祭りの夜から、少しずつ美しい血色を取り戻し、色づいてきていた彼女の糸が、また元の透明な灰色へと薄くなりかけていた。
まだ完全に透明に戻ったわけではない。けれど、その光は激しく揺れていた。
やっとこの下町のコミュニティに馴染み、自分の人生の根を張り始めた大切な場所が、ある日突然なくなってしまうかもしれないのだ。
芹奈さんは、まだこの商店街にやってきて半年しか経っていない。けれど、この場所が彼女にとってようやく見つけた本当の「居場所」になりかけていた。その心の土台が、今、激しく揺らいでいる。
私は窓辺から彼女を見つめることしかできなかった。猫の身体では、何の保証も、言葉も与えられない。ただ、見守ることしかできなかった。
ある夜、澄江さんはいつもより一時間も早く店の看板を消した。
どこか体調が悪いというわけではなかった。ただ、その後ろ姿には、拭いきれない深い疲労の色が滲んでいた。
奥の部屋に一度引っ込んで、しばらくして店内に戻ってきた澄江さんの両目は、少しだけ赤くなっていた。
澄江さんは何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。
澄江さんは台所で静かにお茶を淹れると、湯呑みを両手で包み込みながら、ぽつりと言った。
「私ね、四十年、ここにいたのよ」
私はカウンターから降りて、澄江さんの足元へと歩み寄った。
「最初はね、本当にお客さんが全然来なかったの。一日中、誰も暖簾をくぐってくれない日が何週間も続いて。手元のお金もどんどんなくなっていって、もう何度も、お店を畳もうと思ったわ」
澄江さんは窓の外の暗闇を見つめた。
「でもね、ある日、一人のお客さんがふらりと入ってきたの。旦那さんとの離婚を真剣に迷っていた女性でね。必死にその人の話を聞いていたら、気がつけば二時間近く経っていたわ。その人が帰り際、涙を拭きながら『誰にも言えなかった話を聞いてもらえて本当によかった』って言ってくれたのよ」
澄江さんは、愛おしそうに少しだけ笑った。
「自分には霊感もないのに、占い師なんて名乗ってお店を開いていいのかしらってずっと悩んでいたけれど……その日を境に、私の考えが変わったの。特別な力がなくても、傷ついた人の心に寄り添って、話を最後まで聞くことなら、私にもできるかもしれないって」
私は澄江さんの顔を見上げた。
四十年前の、ほころび庵の最初のお客さんが一体誰だったのか、私には知る方法がない。でも、もしその人があの日ここに来ていなければ、この優しい占いの店は続いていなかったし、朱音の魂を持った私がムギとしてここに拾われることもなかったはずだ。
「反対されても、やめなかった。心ないお客さんに『霊感もないくせに偽物め』と言われても、絶対にやめなかった。だって……ここが私の、唯一の場所だったから」
澄江さんは、また窓の外の商店街を見つめた。
「それが、なくなってしまうのかしら」
私は何も言わず、澄江さんの足元に「ぐるん」と身体を丸めて、彼女の冷えた足首にぴったりと寄り添った。
確実な答えなんて持っていない。けれど、私はここにいる。あなたの隣に、ずっと一緒にいる。
翌日の夕方、木村さんがほころび庵にやってきた。
腕にはいつも通り野菜の差し入れのコンテナを抱えていたが、今日の彼は、それよりも澄江さんに伝えたい大事な話があるという顔をしていた。
「澄江さん、この店を開いて、何年になりますか」
「四十年近くかしらね」
「四十年……」
木村さんはその数字を噛み締めるように繰り返した。
「俺がこの世に生まれる前から、ずっとここにある店だ」
木村さんは格子窓の外を鋭い目で見つめた。
「うちのお袋も、昔悩んだときにここに来たことがあるって言ってた。俺もここで救われた。美咲もそうだ」
木村さんは床に丸まる私に一度視線を落とし、それから澄江さんの目を真っ直ぐに見つめた。
「そういう、誰かの逃げ場所になるような店が、この商店街にちゃんとある。それが、この街にとってどれだけ大事なことか……俺は、よく分かってますから」
「……ありがとう、木村さん」
澄江さんの口から漏れた言葉は、いつも交わされる挨拶よりも、ずっと深い魂の底から響いているようだった。木村さんは力強く一度だけ頷くと、そのまま八百屋へと戻っていった。
三月の終わり、澄江さんは再開発に関する計画説明を兼ねた「商店街組合の臨時の会合」へと出かけていった。
私はひとり、店内に残されて留守番をしていた。
夕闇が迫るほころび庵の窓から、静まり返った商店街を見つめる。
すでに多くの店がシャッターを下ろし、人通りもまばらだ。けれど――私の目には、その無機質な建物の奥から立ち上る、無数の「糸」がはっきりと視えていた。
木村さんの八百屋から。磯田さんの魚屋から。
向かいの精肉店から。そして、このほころび庵から。
何十年という長い年月、この場所に無数の人間がやってきて、悩みを話し、笑い、涙を流し、そしてまた前を向いて帰っていった。その一瞬一瞬の感情の記憶が、目に見えない光の糸となって、この街の土壌に幾重にも積み重なっている。
かつて、あの広瀬由奈さんが言っていた。
「この店には、縁の糸が層になって積み重なっている」と。
それは、このほころび庵だけではないのだ。この下町の商店街全体が、長い歴史の中で紡いできた、巨大な「縁の糸の地層」そのものなのだ。
もしも再開発によって古い建物がすべて取り壊され、冷たいコンクリートの塊に変わってしまったら、この温かい糸の層はすべてバラバラに散って、消えてしまうのだろうか。
私はその恐ろしい可能性を、猫の頭でじわりと考え続けていた。けれど、どれほど思考を巡らせても、救いのある答えは出なかった。
夜八時を過ぎた頃、澄江さんが会合から戻ってきた。
「再開発の話ね、まだ正式に決定したわけではないみたいよ」
澄江さんはコートを脱ぎながら、私を安心させるように言った。
「これから何度もお話し合いを重ねていく段階なんですって」
私はお座りをして、澄江さんの顔をじっと見つめた。
「木村さんがね、会合の席で真っ先に立ち上がって大声を上げてくれたのよ。この商店街の歴史と繋がりを壊してたまるかって。これからは木村さんを中心に、商店街全体で開発反対の声を上げていくって言ってたわ」
澄江さんは椅子に腰掛け、小さく息を吐いた。
「私も……ここに残りたい」
澄江さんは、心の奥底にある本音を絞り出すように静かに言った。
「四十年、ここにいたの。だから、もう少しだけ、ここで占い師を続けたい」
澄江さんは私に向かって、優しく手を伸ばした。
「ムギちゃんと一緒に、もう少し、ここにいたいのよ」
私は一歩前に進み出ると、澄江さんの手のひらに、私の頭を「ぐい」と押し付けた。言葉にならなくても、私の意思が彼女の手に伝わることを願いながら。
その夜、私は深夜の格子窓から、静まり返った外の景色をじっと見つめていた。
商店街全体をどんよりと覆う、あの不気味な灰色の糸は、まだ消えずにそこに漂っている。
けれど、その冷たい灰色の霧の中に、明らかに「別の色」が混じり始めているのを、私の目は捉えていた。
それは、これまでの人生で一度も見たことのない、不思議な光だった。
木村さんの八百屋の店舗から。魚屋の磯田さんの家から。そして、このほころび庵の床下から。
それぞれの建物から伸びる新しく力強い糸たちが、灰色に抗うようにして、お互いの方向へと真っ直ぐに向かい合い、がっちりと結びつき始めていた。
迫り来る脅威を前にして、この街に生きる人間たちが、目に見えないところでしっかりと手を繋ぎ合おうとしている。あの冷たい灰色の中で、その新しく生まれた糸の光だけが、驚くほどに泥臭く、そして温かかった。
朱音としての後悔も、ムギとしての今も、すべてはこの街にある。
三月の終わりの冷え切った夜の空気が、小さな商店街を静かに、けれど確かに守るように包み込んでいた。




