第20話:猫である、ということ
三月の初め、私は夢を見た。
それは、『花村朱音』の夢だった。
商店街ではなく、見知らぬ場所だった。
どこかの交差点で、朱音が立っていた。
二十八歳の、あのころの体で。
信号が青になった。
朱音が歩き始めた。
その瞬間、目が覚めた。
ほころび庵の窓際で、私は丸まったまま目を開けた。
三月の夜明けの光が、窓から差し込んでいた。
いつもは、その先がある夢だった。
車が来て、暗くなる。
でも今日は、歩き始めたところで終わった。
私は、しばらくそのままでいた。
夢の中の朱音が、歩き始めた。
その後ろ姿が、まだ目の裏に残っていた。
私は今、何者なのか。
花村朱音なのか。
ムギなのか。
猫になってから、ずっとその問いを抱えていた気がする。でも今まで、正面から考えたことがなかった。
朱音として考えるときがある。
あの日の記憶、あの人たちとの縁、やり残したことへの後悔。
ムギとして動くときがある。
肉球でメモ帳を押す、カウンターから飛び降りる、ただ隣に座る。
どちらが本当の自分なのか、わからないまま、四年が経っていた。
澄江さんが起きてきたのは、七時ごろだった。
台所でお茶を入れながら、私を見た。
「ムギちゃん、今日は早起きね」
私はいつもより早く窓際にいた。澄江さんが起きる前から、ずっとそこにいた。
「どうしたの、ぼーっとして」
澄江さんが私の隣に座って、お茶を飲んだ。
二人で、窓の外を見た。
三月の商店街は、まだ眠っていた。
シャッターが閉まって、人もいない。
でも、糸だけは見えた。
木村さんと美咲の赤い糸。
磯田さん夫婦の白い糸。
健二さんの白い糸が、遠くから細く伸びていた。彩音の糸も、前を向いていた。
「ムギちゃん」
澄江さんが言った。
「何か考えてる?」
私は澄江さんを見た。
考えている。
ずっと考えている。
でも、言葉にできない。
言葉がないから。
澄江さんが「そう」と言った。
聞かなかった。
この人は、聞かなくていいときを知っている。
二人で、しばらく黙って、窓の外を見ていた。
午前の遅い時間に、由奈さんが来た。
十月以来だった。予告なしに来ることが多い人だ。
「こんにちは」
由奈さんが暖簾をくぐった。
「今日は、少し話をしに来て」
澄江さんが「どうぞ」と言った。
由奈さんが座った。
私はカウンターの端で、由奈さんを見た。
「この猫、最近どうですか」
由奈さんが澄江さんに聞いた。
「どう、というと?」
澄江さんが首を傾げた。
「なんとなく気になって。前に来たとき、この店に縁の糸が層になっていると言いましたが、その中心にいつもこの猫がいる気がして」
私は由奈さんを見た。
由奈さんが私を見た。
「今日、何かあった?」
私は動かなかった。
由奈さんが少し笑った。
「夢でも見た?」
私は、耳を少し動かした。
由奈さんが「そうか」と言った。
それ以上は聞かなかった。
「私も、たまに夢を見るんです」
由奈さがお茶を飲みながら言った。
「視えるものが夢に出てきて、何かを整理しようとしているのかなと思うことがある」
澄江さんが「そうなんですか」と言った。
「視えることって、楽じゃないんですよね」
由奈さんが続けた。
「視えない方が楽なことも、たくさんある」
私は、その言葉を聞いた。
視えない方が楽なことも、ある。
そうだ。
視えるから、放っておけない。
視えるから、届かないもどかしさがある。
視えなければ、ただの猫として、窓際で丸まっていられた。
「でも、視えることで、できることがある。それだけは、確かだと思って続けています」
澄江さんが「そうですね」と言った。
由奈さんが帰った後、澄江さんが私の隣に座った。
しばらく、何も言わなかった。
私も、何も言えなかった。言える方法がない。
澄江さんが、静かに口を開いた。
「ムギちゃん」
私は澄江さんを見た。
「あなたがここに来てから、もうすぐ五年ね」
五年。
梅雨の夜に、ずぶ濡れで鳴いていた自分を、澄江さんが拾った。
タオルで包んで、「麦みたいな色だから、ムギ」と名付けた。
あのとき、澄江さんの手が温かくて、泣いた。
「最初に拾ったとき」
澄江さんが続けた。
「最初に拾ったときから、不思議な子だとは思ってたのよ」
私は澄江さんを見た。
「目が、違ったから」
澄江さんが私を見て、澄江さんが微笑んだ。
「ムギちゃんはムギちゃんよ。それだけは、確かなことだから」
私は、澄江さんの膝の中で、目を閉じた。
花村朱音として生きた記憶がある。
ムギとして生きている今がある。
どちらが本当か、という問いに、答えを出そうとしていた。
でも、今日、やっとわかった気がした。
答えを出さなくていい。
どちらかを捨てなくていい。
朱音だった記憶を持ったまま、ムギとして生きていい。
彩音は「罰は、もういいのかな」と言った。
私も、同じかもしれない。
朱音として届けられなかったことへの後悔を、ずっと抱えていた。
でも、ムギとして届けられたことが、確かにあった。
美咲の黒い糸が砕けた夜。
木村さんが手紙を書いた夜。
キヨさんがメモ帳を持って病院へ行った朝。
彩音が「ごめんね」と泣いた二月の午後。
届いていた。
形は違っても、届いていた。
それで、いい。
商店街の糸が、夕暮れの光の中で静かに輝いていた。
私はその光を眺めながら、澄江さんの膝の上で丸くなった。
いつの間にか、眠っていた。




