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ほころび庵のムギ〜縁の糸が見える猫〜  作者: ゆも
第三章

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20/21

第19話:双子の最後の喧嘩


 二月に入って、商店街に節分の飾りがついた。


 木村さんが飾った。門松の次は節分で、この人の商店街への愛情は、本当に季節を問わない。


 私はその飾りを窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。


 彩音が来ることは、昨日からわかっていた。


 わかっていた、というのは、予知ではない。澄江さんに電話があったのを聞いていただけだ。でも、電話を聞いた瞬間から、胸のあたりがざわついていた。


 彩音が来る。


 今日は、何か違う気がした。


 彩音が暖簾をくぐったのは、午後の早い時間だった。


 いつもより、少し早い。


 顔を見た瞬間、わかった。


 今日の彩音は、泣いた後の顔をしていた。


 糸を確認した。


 銀色の記憶の糸が、今日は激しく震えていた。第十話のときより、ずっと激しく。


 そして、彩音の胸のあたりから私の方へ伸びる糸が、今日は細くなっていた。


 細く、でも切れていなかった。


「彩音さん、どうしたの」


 澄江さんが立ち上がった。


「顔色が」


「澄江さん」


 彩音が言った。

 声が、少し掠れていた。


「話を聞いてもらえますか」


「もちろん」


 彩音が座った。

 澄江さんがハーブティーを出した。


 私はカウンターの端で、彩音を見ていた。

 彩音が湯呑みを両手で持って、少し間を置いてから言った。


「朱音の夢を見たんです。昨日」


 澄江さんが静かに聞いていた。


「喧嘩したときの夢で。朱音が黙って帰っていく後ろ姿で、目が覚めて」


 彩音が湯呑みを置いた。


「起きてから、ずっと考えていたんですけど、朱音は、怒っていたんでしょうか」



 私は彩音を見た。


 怒っていたか。


 あの日のことを、もう何百回も思い返した。

 彩音が「お節介はやめて」と言って、朱音は黙って帰った。


 怒っていなかった。


 ただ、寂しかった。


 でも、それをどう伝えればいいのか。


 澄江さんが口を開いた。


「彩音さん、少し聞いていいですか」


「はい」


「朱音さんは、どんな人でしたか。喧嘩をしたとき、どうする人でしたか」


 彩音が少し考えた。


「黙る人でした」


彩音が言った。


「怒ると黙って、しばらくして、何事もなかったように話しかけてくる。根に持たない人で」


「そう」


澄江さんが言った。


「じゃあ、あの日も、同じじゃないかしら」


 彩音が澄江さんを見た。


「黙って帰ったのは、怒っていたからじゃなくて、その人なりの間の取り方だったのかもしれない」


 彩音の目が、揺れた。


「でも、翌日に事故に遭って」


「それは」


 澄江さんが静かに言った。


「朱音さんのせいでも、彩音さんのせいでもないわ」



 彩音が俯いた。


「わかってるんです。頭では。でも、夢を見るたびに、あの後ろ姿が浮かんで」


 しばらく、沈黙があった。


 雨が降り始めた音が、屋根から聞こえてきた。


 彩音が顔を上げた。


「実は、もう一つ、ずっと言えなかったことがあって」


 澄江さんが「どうぞ」と言った。


「朱音と喧嘩したのは、就職のことだったんですが」


 彩音が言った。


「私が選ぼうとしていた会社を、朱音が反対したんです。『その会社の人の糸が良くない、やめた方がいい』って」


 私は、覚えていた。


「私は『また糸の話をして、お節介はやめて』って言って。それで喧嘩になって」


 彩音が湯呑みを持った。


「でも、朱音が言った会社、入社してすぐに経営が傾いて、一年で潰れたんです」


 澄江さんが「まあ」と言った。


「朱音は正しかった。でも私は怒って、ごめんも言えなくて」


 彩音の目から、涙が一粒落ちた。


「朱音が正しかったのに、私が意地を張って、最後まで謝れなくて」



 私はカウンターから降りた。


 彩音の前まで歩いた。


 彩音がしゃがんで、私と目線を合わせた。

 前回とと同じだった。

 でも今日は、彩音の目が違った。もっと深いところで、何かを探している目だった。


「ムギちゃん」


 彩音がしゃがんだ。


 私と目線を合わせた。


「ムギちゃん」


 彩音が静かに言った。


「朱音は、怒っていたと思う?」


 私は、彩音を見た。


 何かを答えようとした。


 でも、答えられなかった。


 私にわかることと、わからないことがある。

 糸は視える。でも、あの日朱音が何を感じていたか、それは私自身のことのはずなのに、今となっては、確かなことが言えなかった。


 私はただ、彩音の前に座っていた。


 彩音が、また泣き出した。


 今度は、声を出して泣いた。


「ごめんね」


彩音が言った。


「ごめんね、朱音」


 私は、彩音の手に、頭を押しつけた。


 答えではなかった。


 正解でもなかった。


 ただ、隣にいた。


 それだけだった。


 彩音が泣き続けた。肩を震わせて、長い時間泣いた。


 澄江さんが黙って、彩音の背中に手を置いた。


 二月の雨が、ほころび庵の屋根を静かに叩いていた。


 しばらくして、彩音が顔を上げた。


 目が真っ赤だった。


 でも、少し、違う顔をしていた。


「澄江さん」


 彩音が言った


「止まっていることを、自分で選んでいるのか、選ばされているのか、って言ったけど」


「ええ」


「私、たぶん、自分から前に進まないようにしていたのかもしれません」


彩音が静かに言った。


「謝れなかったことへの罰として、自分で自分を止めていた気がして」


 澄江さんが「そうかもしれないわね」と言った。


「まだ、すぐには無理かもしれないけど」


「すぐじゃなくていい」


 澄江さんが言った。


「少しずつでいいから」



 彩音が帰り際、暖簾の前で一度振り返った。


「また来ていいですか」


「いつでも」


 澄江さんが言った。


 彩音が出て行った。


 私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。


 雨が上がっていた。


 彩音の背中に、糸があった。


 銀色の糸は、消えていなかった。


 記憶は消えない。


 失った人との縁も、消えない。


 人は記憶を抱えたまま、新しい糸を結ぶ。


 彩音が商店街の角を曲がって、見えなくなった。


 二月の空が、雨上がりの光に、静かに輝いていた。


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