第19話:双子の最後の喧嘩
二月に入って、商店街に節分の飾りがついた。
木村さんが飾った。門松の次は節分で、この人の商店街への愛情は、本当に季節を問わない。
私はその飾りを窓から眺めながら、今日の糸の具合を確認していた。
彩音が来ることは、昨日からわかっていた。
わかっていた、というのは、予知ではない。澄江さんに電話があったのを聞いていただけだ。でも、電話を聞いた瞬間から、胸のあたりがざわついていた。
彩音が来る。
今日は、何か違う気がした。
彩音が暖簾をくぐったのは、午後の早い時間だった。
いつもより、少し早い。
顔を見た瞬間、わかった。
今日の彩音は、泣いた後の顔をしていた。
糸を確認した。
銀色の記憶の糸が、今日は激しく震えていた。第十話のときより、ずっと激しく。
そして、彩音の胸のあたりから私の方へ伸びる糸が、今日は細くなっていた。
細く、でも切れていなかった。
「彩音さん、どうしたの」
澄江さんが立ち上がった。
「顔色が」
「澄江さん」
彩音が言った。
声が、少し掠れていた。
「話を聞いてもらえますか」
「もちろん」
彩音が座った。
澄江さんがハーブティーを出した。
私はカウンターの端で、彩音を見ていた。
彩音が湯呑みを両手で持って、少し間を置いてから言った。
「朱音の夢を見たんです。昨日」
澄江さんが静かに聞いていた。
「喧嘩したときの夢で。朱音が黙って帰っていく後ろ姿で、目が覚めて」
彩音が湯呑みを置いた。
「起きてから、ずっと考えていたんですけど、朱音は、怒っていたんでしょうか」
私は彩音を見た。
怒っていたか。
あの日のことを、もう何百回も思い返した。
彩音が「お節介はやめて」と言って、朱音は黙って帰った。
怒っていなかった。
ただ、寂しかった。
でも、それをどう伝えればいいのか。
澄江さんが口を開いた。
「彩音さん、少し聞いていいですか」
「はい」
「朱音さんは、どんな人でしたか。喧嘩をしたとき、どうする人でしたか」
彩音が少し考えた。
「黙る人でした」
彩音が言った。
「怒ると黙って、しばらくして、何事もなかったように話しかけてくる。根に持たない人で」
「そう」
澄江さんが言った。
「じゃあ、あの日も、同じじゃないかしら」
彩音が澄江さんを見た。
「黙って帰ったのは、怒っていたからじゃなくて、その人なりの間の取り方だったのかもしれない」
彩音の目が、揺れた。
「でも、翌日に事故に遭って」
「それは」
澄江さんが静かに言った。
「朱音さんのせいでも、彩音さんのせいでもないわ」
彩音が俯いた。
「わかってるんです。頭では。でも、夢を見るたびに、あの後ろ姿が浮かんで」
しばらく、沈黙があった。
雨が降り始めた音が、屋根から聞こえてきた。
彩音が顔を上げた。
「実は、もう一つ、ずっと言えなかったことがあって」
澄江さんが「どうぞ」と言った。
「朱音と喧嘩したのは、就職のことだったんですが」
彩音が言った。
「私が選ぼうとしていた会社を、朱音が反対したんです。『その会社の人の糸が良くない、やめた方がいい』って」
私は、覚えていた。
「私は『また糸の話をして、お節介はやめて』って言って。それで喧嘩になって」
彩音が湯呑みを持った。
「でも、朱音が言った会社、入社してすぐに経営が傾いて、一年で潰れたんです」
澄江さんが「まあ」と言った。
「朱音は正しかった。でも私は怒って、ごめんも言えなくて」
彩音の目から、涙が一粒落ちた。
「朱音が正しかったのに、私が意地を張って、最後まで謝れなくて」
私はカウンターから降りた。
彩音の前まで歩いた。
彩音がしゃがんで、私と目線を合わせた。
前回とと同じだった。
でも今日は、彩音の目が違った。もっと深いところで、何かを探している目だった。
「ムギちゃん」
彩音がしゃがんだ。
私と目線を合わせた。
「ムギちゃん」
彩音が静かに言った。
「朱音は、怒っていたと思う?」
私は、彩音を見た。
何かを答えようとした。
でも、答えられなかった。
私にわかることと、わからないことがある。
糸は視える。でも、あの日朱音が何を感じていたか、それは私自身のことのはずなのに、今となっては、確かなことが言えなかった。
私はただ、彩音の前に座っていた。
彩音が、また泣き出した。
今度は、声を出して泣いた。
「ごめんね」
彩音が言った。
「ごめんね、朱音」
私は、彩音の手に、頭を押しつけた。
答えではなかった。
正解でもなかった。
ただ、隣にいた。
それだけだった。
彩音が泣き続けた。肩を震わせて、長い時間泣いた。
澄江さんが黙って、彩音の背中に手を置いた。
二月の雨が、ほころび庵の屋根を静かに叩いていた。
しばらくして、彩音が顔を上げた。
目が真っ赤だった。
でも、少し、違う顔をしていた。
「澄江さん」
彩音が言った
「止まっていることを、自分で選んでいるのか、選ばされているのか、って言ったけど」
「ええ」
「私、たぶん、自分から前に進まないようにしていたのかもしれません」
彩音が静かに言った。
「謝れなかったことへの罰として、自分で自分を止めていた気がして」
澄江さんが「そうかもしれないわね」と言った。
「まだ、すぐには無理かもしれないけど」
「すぐじゃなくていい」
澄江さんが言った。
「少しずつでいいから」
彩音が帰り際、暖簾の前で一度振り返った。
「また来ていいですか」
「いつでも」
澄江さんが言った。
彩音が出て行った。
私は窓から彩音の後ろ姿を見送った。
雨が上がっていた。
彩音の背中に、糸があった。
銀色の糸は、消えていなかった。
記憶は消えない。
失った人との縁も、消えない。
人は記憶を抱えたまま、新しい糸を結ぶ。
彩音が商店街の角を曲がって、見えなくなった。
二月の空が、雨上がりの光に、静かに輝いていた。




