(十四)
朝の回診を終えて外来に下りてきた顕也がその日の外来患者のカルテを開いて予習していると、診察室の扉を弱々しくノックする音が聞こえた。予習は患者の待ち時間を短くするために有効ではあるが、その都度目を通せば時間がかかるだけで診療に支障はないので必須ではない。自分たちと同じように小さな子供のお迎えなどで定時に仕事を終えなければならない事務スタッフが昼間は捕まえにくい医師に用事がある時には、度々この時間が狙われる。もちろん予習は中断して対応するしかない。
「はーい。何ですかー? どうぞー。」
カルテを見ながら顕也が返事をすると、横開きのドアが遠慮がちにそっと開く。業務を中断しての対応を少しはアピールしたいこともあって、顕也が椅子をゆっくり回転させてドアの方に向くと、そこに立っていたのは沙菜だった。さっきの病室の沙菜とは違って、珍しくちょっと落ち着きがない。
「ごめん。忙しかった?」
「いや。今日の外来のカルテに目を通してるだけ。これから退院手続き?」
「そう。病棟の看護師さんが、子どもは見ておくから先に会計を済ませてくるように、って言ってくれた。ちょっと話があるんだけどいい?」
「まだ少し時間あるから大丈夫だよ。」
「ありがとう。でも、ここじゃちょっと・・・」
手術が無事に終わって少なからずホッとしているのか、沙菜の表情は明るい。悪い話ではなさそうであるが、何だか恥ずかしそうに、沙菜が場所を選んだ。確かに、診察室は奥のスタッフ専用の通路側が開放されていて、普通の話声が聞き耳を立てるまでもなく隣に届く。今も通路の奥から受付や清掃のスタッフが外来の準備をする物音が聞こえてくる。
事を察した顕也がスクっと立ち上がって奥の通路に人がいないことを確認すると、沙菜に背中を向けたまま手招きした。沙菜は一瞬躊躇う表情を見せたが、何かを吹っ切って素早く顕也の後ろに駆け寄る。奥の通路に顔だけ出した顕也が、交通量の多い道路を横断する時のように左右を確認する。
「今だ! ついて来て。」
二人は、小走りに通路を抜けて非常口から外に出ると、そのまま一気に非常階段の踊り場に駆け上がった。足元に吸殻入れの空き缶を見つけた沙菜の表情が、少し和らぐ。
「ここなら大丈夫。」
「ごめんなさい。忙しいのに。お礼が言いたくて。」
「お礼?」
「そう、手術の。」
沙菜が目線を落としたまま、呟くように言った。礼くらいは家でも言える。これは前振りである。言いにくい内容が続くことは明らかだった。顔を見合わせては本当に言いたいことをうまく言えないから、時々人は手紙をしたためたくなるのである。顕也は、ゆっくりと大きく腕を上げて欠伸をすると、沙菜から少し離れて踊り場の柵に肘を付いて、病院の周りに広がる畑に目をやった。沙菜も、クスリと笑って同じように柵に肘を付いて、同じ景色を見る。
「準備、大変だった?」
「まあ、慣れない手術だからね。」
「私、手術準備がそんなに大変だなんて知らなくて・・・ほんとにありがとう。」
「いやいや。楽しませてもらったよ。形成外科っぽい仕事だからね。」
「私たちに付き合ってくれて、ほんとにありがとう。」
「私たち?」
沙菜の含みのある言葉の意味がすぐにわからない顕也は、不思議そうに横目でちらりと沙菜を見た。沙菜が恐る恐る顕也の考えを確認する。
「私の問題・・・なんでしょ?」
「な、何の話?」
「口唇裂のこと。」
そう言われて初めて、顕也はハッと気付く。多くの先天異常の患児の母親と同様に、沙菜もまた自身の持つ病的な遺伝子が口唇裂を発症する原因になったと思い込んでいるのだ。それを申し訳ないとでも思っているのだろうか?
「あの子に口唇裂があるってわかった時、そんな気はしてたから大して驚きもしなかった。ああまたか、って。私の持ってる何かが、遺伝したってことなんでしょ?」
大きな誤解だった。確かにトリーチャーコリンズ症候群の大半に口蓋裂の合併を認めるが、その責任遺伝子はまた別に存在する。症候群の症候の一つではなく単独で発生する口唇口蓋裂にみられる口蓋裂とは、発症のメカニズムを支配する責任遺伝子が大きく異なると言ってよい。沙菜なら理解できるであろう。幸い重く受け止めている様子はない。顕也は、そもそもの勘違いを軽く笑い飛ばした。
「ハハハ。これだから素人は困るよ。トリーチャーコリンズ症候群は、沙菜の持つ遺伝子とはまったく関係がないよ。トリーチャーコリンズ症候群はほとんどが突然変異、親からの遺伝は少数派。遺伝科でチェックを受けて何も言われなかったら間違いなく何もない。」
「そうなんだ・・・私の遺伝子と無関係ってこと?」
「十中八九そう。」
「口唇裂と口蓋裂の原因になる遺伝子は、別ってこと? 両方持ってることはないの?」
「うーん。その辺はあまり詳しくないんだけど、トリーチャーコリンズ症候群の場合は、小顎症が口蓋裂の原因になると言われているんだ。だから、口蓋裂を引き起こす遺伝子を持ってて口蓋裂を発症してるわけじゃないんじゃないかなあ。」
「へー。何だか、ややこしいのね。」
「口蓋は、お腹の中にいる胎児の時に左右から発達して真ん中でくっ付いてできる。ところが、小顎症があると口の中が狭くて、舌が邪魔で左右から発達する口蓋がうまくくっ付かなくて口蓋裂になる。これは、トリーチャーコリンズ症候群とは無関係。誰でも小顎症があれば口蓋裂を合併するリスクが高くなる。そんなふうに、因果関係のある先天異常がいくつかある場合には、症候群、シンドロームと区別して、シークエンスっていうらしい。トリーチャーコリンズ症候群は必ず小顎症があるけど、口蓋裂がないケースも多いことを考えれば、小顎症が先に起こってるっていうのがわかりやすいでしょ?」
沙菜だけにこの説明はすぐに理解できるようだが、少し腑に落ちない顔をしている。
「それはわかった。じゃあ、口唇裂も突然変異があるってこと?」
「もちろんそうさ。間違いなくその方が多いよ。」
「でもほら・・・美人の母親から口唇裂が生まれやすいとかって・・・」
「びっ、美人の母親⁈」
さては、美人遺伝子の研究も誤解を与えていたらしい。これこそとんだ勘違いだった。たくさんある口唇口蓋裂の責任遺伝子は、間違いなく男女平等に半々ずつ保有している。両親のどちらかが口唇口蓋裂であれば生まれてくる子が口唇口蓋裂である可能性はそこそこ高くなるが、その確率は父が口唇口蓋裂の場合でも母が口唇口蓋裂の場合でも変わりない。あの研究の対象を女性に絞ったのは、単に美女と違って美男子はそれを売りにする職業集団などはあっても規模が小さいので数を集めることが困難と考えられるからであった。
「ハハハ。そいつはずいぶん手前味噌だね。」
「仕方ない。事実だもん!」
沙菜が強く言い切ったのは、もちろん話を面白くするためだ。二人で顔を見合わせて笑う。
「半々だよ、半々。世の中の男も女も半分ずつ均等に口唇口蓋裂の責任遺伝子を持ってる。しかも、持ってる人が美男美女でないことの方が圧倒的に多いと思う。」
「そっか! 男の人でも同じようにその遺伝子を持ってる可能性があるんだ。じゃあ、美人でも口唇裂の遺伝子を持つ人の方が少ないってことなの?」
「そりゃそうさ。美人の集団は一般の集団よりもほんの少しだけそういう遺伝子を持つ人が多いだけだよ。研究した者がそう言っちゃなんだけど、それもほんとかどうか、ちょっと怪しい。それに・・・」
そう話しながら、顕也は、山梨に住んでいた自身の父方の祖母を思い出していた。祖母はもうとっくに亡くなっているが、次男の大きな目と長い睫毛を最初に見た時から祖母のことが少し気になっていたのである。強ち自分がその遺伝子を持っているかもしれないという思いが少しだけあった。
「隔世遺伝って、聞いたことあるでしょ?」
「知ってる。おじいちゃん、おばあちゃんに似るってやつだよね。」
「そうなんだ。実際、口唇口蓋裂の患者さんの家族背景を丁寧に聞き出すと、両親に何もなくても祖父母や従兄妹が口唇口蓋裂だってこともかなり多い。」
次男の目は、山梨の祖母の目に似ていた。ずっと畑仕事を続けて来た皺々の祖母のかつての美人ぶりを想像することは難しかったが、畑作業をする傍で虫採りに夢中になる幼い自分に向けるその眼差しだけは、くっきりと大きな瞳と濃く長い睫毛が印象的だった。いつか両親に動物園に連れて行ってもらった時に、キリンさんの目って山梨のおばあちゃんの目みたいだね、と言っていた母の言葉を思い出す。
「両親が美男美女だから口唇口蓋裂の子が生まれやすいなんてことは、正直ないか、あっても、よーく調べればあるかも、くらいな話。あと、だから何ってこともないんだけど・・・あのクマのネックレス、元の持ち主は口唇裂だったんだ。」
顕也はさらりと嘘を付いた。大した嘘ではない。銀座の美容外科クリニックでいっしょに働いた福富を、少しだけ見習ったまでだ。彼が血の繋がりのない娘に対して貫き通している嘘の尊さを思えば、この嘘は、文字通り子供騙しである。同じ類の必要な嘘だとしても、彼のように科学が後付けで構築した生物学的な家族の枠組を真っ向から否定するわけでもない。もし自分が祖母から受け継ぐ美人遺伝子を持つなら、口唇裂の親族がいたという話はすべて嘘だとも言えない可能性があるからだ。そういう研究を、こういう自分たちみたいな家族のためにやったのだと、今では思う。誰の役にも立たない研究ではなかったと信じている。次男の口唇裂の原因がどちらでもない、いや、どちらでもあることを知った沙菜は、どこか晴れ晴れとした表情を浮かべていた。
「やっぱり・・・そうだったんだ。ありがとね、ほんとに。」
「こちらこそ。一生懸命やった研究の意味を少しでもわかってもらった気がして、ちょっとうれしいな。簡単には誰かに説明できるような内容じゃないしね。じゃあ、そろそろ外来に行くね。」
「ちょっ、ちょっと待って、あと少し。私の大事な話はまだなの。すごく・・・すごくうれしいことがあったの。」
遺伝の話は非常にデリケートである。どの病院の遺伝診療科であっても、奥が通路に通じて開放されている診察ブースではなく、完全個室型の外来診察室や別個に面談室を用意していると言ってよい。てっきり沙菜の大事な話とは、この口唇裂の遺伝のことだと思い込んでいたが、どうやら違ったらしい。幸いまだ少し時間はある。沙菜が目を輝かせて話を聞いて欲しいなどと言うことはあまりない。外来の予習など、なくても何とでもなる。
「それはぜひ聞かせてほしい。」
「びっくりしないでね。」
「何だろう。」
「今朝、亡くなった娘と話したの。」
「娘さんと⁈」
「そう。ベッドのせいだと思う。夢を見たのよ。」
「ベッド? 夢?」
「そう。簡易ベッドの寝心地がとんでもなく悪くって。変わった夢を見たの。」
「そいつは大変だったね。」
「それが素敵な夢だった。だから帳消しってとこかな。まあ、ベッドの話はどうでもいいから聞いてね。」
その目線は、まっすぐ海に向けられていた。収穫前のサトウキビ畑の向こうに、いつもと同じ碧い海が見える。うれしいことだという言葉どおり、沙菜が高ぶる気持ちを抑えながら、静かに語り始める。
「どこの学校かわからないんだけど、数え切れないくらい大勢の子どもたちが夢中で遊んでる校庭の隅に、大人はぽつんと私一人、誰かを待って立ってたの。男の子、女の子、大きなお兄ちゃん、お姉ちゃん、飛んだり跳ねたり走ったり、話したり笑ったり歌ったり、それはもう賑やかで、何百人の子どもたちで校庭が埋め尽くされてた。そしたらね、ちょっと遠くの真ん中くらいの所で私に気付いてこっちを向いた子がいたの。最初はよく分からなかったんだけど、それが娘かもしれないって気が付いて、思わず手を振って叫んでた。『陽葵! こっちよ!』って。すると向こうもすぐに気付いて遊ぶのをやめてこっちに歩いて来てくれた。近付いて来る娘はちょっと大きくなってて上着の胸のところに(四ねん三くみ うちのひまり)って書いた名札を付けてて、そのすぐ上の首のところを見たらね・・・なくなってるのよ、気管切開が。もうびっくりして声にならなくて茫然としてたら『何しに来たの?』って娘の方から自然に話しかけてきてくれた。ちょっとハスキーな大人っぽい声で想像してたのと大分違ってたんだけど、それがいかにも現実にありそうな声で、私、ちゃんと話がしたくて慌てて『見に来たのよ。苦しくないの?』なんて答えたら、『平気。もうちょっと遊んでたい。』って、ちょっと迷惑そうな顔された。子どもたちしかいない学校に一人だけ親に見に来られたら、そりゃあ照れ臭いよね。でも・・・私、何となく夢の中でわかったの、これが最期だって・・・どうしてもギュッと抱きしめたくなって、周りの子たちの目もあるし嫌そうな顔してるんだけど、そんなことはどうだっていい。手を握るだけでもよかった。だから勇気を出して一歩前に出たら、一瞬、娘に近付いた感じがした。でもよく見たらあんまり近付いてない。また一歩出てもやっぱり同じ。全然近付いてない。何度やっても娘との距離は変わんない。というかうまく動けない。ちゃんと娘の方は向いてるんだけど、足も出ないし右も左も向けないの。どうしても娘に近付くことができなくて、あー駄目なんだ、勝手に校庭に入ってるだけでも駄目なんだから仕方ない、娘の方にまっすぐ向いていられるだけラッキーなのかもな、って思ってたら、痺れを切らした娘は『遊んでくるね。バイバイ。』って言って、さっきまでいたところに向かって駆け出した。追いかけたかった。子どもたちの間に割って入ってって、つかまえてギュッてしたかった。けどそんな親はいないでしょ? 追いかけちゃいけない気がして、どうせ動けないんだろうなって諦めて、小さくなっていく背中をそっと見守ってた。そしたらね、最期に大勢の子どもたちの中で、陽葵がこっちに振り返ってくれたの。そして笑ったの・・・笑ってくれたの・・・初めて見たのよ、笑ってる顔。ほら、顔面神経麻痺もあるからずっと笑いたくても笑えなかったのよ。笑ってても笑顔にならないの。慣れればわかるんだけどね、気管切開で笑い声が出せなくても、少しだけ頬がピクっと上がる感じとか口の開き方とかで、本当は今笑ってるなって。逆に言えばその程度にしか笑った顔が作れなかった。だから、あんなに自信満々にニカッと笑ってるとこ見たのは初めて。笑っただけ、ただ笑ってくれただけなのにね、何だかずいぶんしっかりした感じに見えて・・・すごく安心したの。こんな立派にやってんだなー、って。あなたがいなくても大丈夫、って顔だったな。素敵な笑顔だった・・・ほんとに・・・それが最期だった。もうどこを探しても子どもたちの中に陽葵の姿はなくて・・・」
沙菜は海を見て静かに泣いていた。ただ涙が溢れるだけで話に詰まることはない。そんな涙だった。
「・・・会いたかったんだね。」
「亡くなった娘に? そんなことないのよ。今はもうあの四人に手いっぱいで、思い出すこともほとんどなかったのに・・・」
「いや、そうじゃなくて娘さんの方。『今までありがとう。みんなといっしょだから心配しないで。』って言いたかったんじゃない?」
「そうね、そう思う。オカルトなんか信じる口じゃないんだけど・・・やっぱりあれは夢じゃない。陽葵が最期に会いに来てくれたんだと思う。聞いてくれてありがとう。」
沙菜はサッと涙を拭いて、何事もなかったようにニコリと笑った。さすがにそのまま会計に行くわけにはいかないと思ったのであろう。沙菜の切り替えは早かった。
「行こっ!」
沙菜は、次の目的地に向かう旅人のように爽やかにそう言うと、元来た通路の先導を顕也に促す。その素早い切り返しには、夢の中でさらりと笑って別れを告げてみせた娘に対する精一杯の敬意が込められていていたのかもしれない。




