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(十三)

 三浦は午後もずっと手術で、顕也は休み明けでいつもより多めの処置外来をひかえていた。三浦が夕方の術後回診で病室に来てくれることはわかっていたが、何時になるかは三浦自身にもわからないのが常である。沙菜が三浦にお礼を兼ねて挨拶あいさつしたいというので、そこは予定通り術後から翌朝までずっと病室で付き添う沙菜にゆずった。顕也自身は、早めに仕事を切り上げて保育園に上の子たちのお迎えに行かなければならなかった。顕也から前もってその状況を聞いて理解してくれていた三浦は、次男が手術室から退室する時に、大変ですなあ、と言ったきり、そそくさと次の麻酔の準備に向かった。挨拶あいさつなどらんと言わされるようにもない態度は、いかにも三浦らしかった。

 この病院に小児科常勤医はおらず、必然的に小児病棟がない。乳幼児の入院は、基本的に一般病棟の個室で家族の付き添いが必要である。さらに、小児では兄弟姉妹が病棟に入ることは許されておらず、いったん上の子たちを引き取ってしまえば顕也と沙菜が入れ代わることはできなかった。上の子たちが保育園にいる時間帯でなければ次男の病室に両親がそろうことは不可能というちょっと考えれば気付く少し複雑な事態をすぐに見抜いて、手術当日は術者(みずか)らが病院に泊まればいいという顕也の安直あんちょくな考えを即座に却下したのは、当然沙菜であった。実は、病院としては、手術当日に術者でもある父親がそのまま泊まることを勧めてくれていた。父親が泊まるのであれば、次男の病室でずっと付き添っていなければならないということもなかった。次男が寝付けば当直室で寝ていてもかまわない、というよりも、普通の当直業務をやりながら時々次男の病棟に顔を出せばよいとまで、院長も看護師長も言ってくれていたのである。翌朝の退院も、沙菜が上の子たちを保育園に預けた後でゆっくり病院に来て次男を連れて帰ればよいだけだった。

 しかし、全身麻酔が心配で次男の口唇こうしん形成術が遅くなっていたにも関わらず、いざ手術になれば一度も麻酔科医に会わないという無礼を有耶無耶うやむやにしたくないという沙菜の気持ちは十分理解できた。お礼は手紙でも伝えられることを顕也がほのめかしても、こういうのは直接会って伝えるべきだと考えているような素振りを、沙菜は見せた。沙菜は思慮深く、そしていつもぐだった。かつて身を置いた夜の世界でまとうようになった気質なのだろうか? あるいは損得抜きで沙菜の面倒をみてくれた、あの銀座のママからゆずり受けた哲学なのだろうか? 形は様々であれ、そんな夜の女たちが皆どこかに隠し持つ独特な心意気、軽薄なズル賢さとは対極にある愚直ではかなげな義理(がた)さを、沙菜もまた持ち合わせていた。もちろん、沙菜が術後に三浦に会って直接礼を言うために、顕也や子どもたちが余計な手間を取られるわけではい。むしろ、顕也はやるつもりだった当直をやらなくてもよくなったくらいである。沙菜の考えはすじが通っていた。沙菜がそう強く主張するまでもなく、顕也は自分の役割をすぐに理解した。この申し合わせに限らず、いつの頃からか、沙菜の決断に身を任せることがすっかり心地良かった。

 翌朝、顕也が上の子たちを早めに保育園に預けて八時前に次男の病室に行くと、身支度(じたく)を整えて次男を抱く沙菜が窓(ぎわ)に立って外を見ていた。次男の機嫌も悪くなさそうである。二人ともまだ朝食を済ませていないはずなのに、すぐにでも退院できそうだった。

「おはよう。ご機嫌どうかな?」

「ありがとう。問題ないかな。」

 沙菜がそう言って次男の顔に視線を落とすと、次男がニコッと笑った。少なくとも創部の経過は良さそうである。

「今、ここでキズの処置してもいい? 食事して汚れたらその都度つど処置してもらわなきゃいけないから、今、そのやり方を見せるよ。」

 他の患者同様に、顕也が朝食前の創部の処置を提案する。口の手術に限らず、創部の処置をしてから退院になる患者は、いつも朝八時前くらいに病室で処置をすることが多い。八時に配膳が開始される患者の朝食と重ならずに、九時から外来をひかえている顕也が創部の処置ができる時間はそこしかないのである。

「じゃあ、抱っこしたままでいいから座ろう。」

 顕也に誘導されて、沙菜が次男を抱いたまま簡易ベッドに腰かける。次男が寝ていたベビーベッドは座るにはやや高く、抱っこのまま処置をするのであれば、付き添いの家族に用意される低めの簡易ベッドに座ってもらう方がやりやすい。沙菜のひざの上の次男は、ガーゼを固定していたテープをめくる操作にちょっと抵抗を示したが、案の定泣きもしなかった。顕也が用意していた濡らした綿棒で創部の汚れをぬぐった後、処方しておいた軟膏を乾いた綿棒に少し付けて創部に塗布する。

「要は、創部が乾燥してカピカピにならなければオッケー。本人が嫌がって自分でガーゼを取っちゃう感じだったら何も当てずにオープンでもかまわないけど、その場合はリップクリームみたいに乾燥しないように何度でも軟膏を薄く塗るといいよ。ガーゼを当てられるなら乾燥しにくいから、食事で汚れた時だけ今のと同じ処置でいいと思う。できそう?」

「ガーゼとか当てとかないと、触ったりしないの?」

「それが意外と大丈夫。まだ指が器用に動かせないから、縫合の糸を引っ張るなんてことはできない。だって、まともに鼻も穿ほじれないんだから。」

「それもそうね。」

「うつせに寝て、布団にキズのところをこすり付けたりする方が心配かな。時々見て、仰向あおむけか横向きでよろしくね。他は心配いらないと思う。もちろん、お風呂で濡れるのも、こすらなければベビーソープで洗うのも大丈夫。きちんと縫い合わせたキズにソープがみるなんてことはないよ。」

 小さく切ったガーゼを創部に当ててテープで固定しながら、顕也が説明する。実は、口唇こうしん形成術の翌日に退院するという流れは、日本では一般的ではなかった。創部の安静のために経口摂取を禁止して術後五日目の抜糸まで入院で経管栄養を続けるという術後管理も、とくに慎重過ぎることはない。翌日の退院を許可する施設であっても、創部の管理に不安のある家族が抜糸まで入院管理を希望すれば、一週間程度入院させておくことが少なくないはずである。手術翌日の退院はおそらく少数派であるが、術者が毎日創部をチェックできる環境で二泊以上入院することは、意味がないと判断したのだった。世界に目を向ければ医療費の高い米国などでは日帰り手術も珍しくはなく、皆保険制度の日本の医療が必要以上に過保護なだけである。ただし、昼間の創管理を任される沙菜に不安があるようなら退院はできない。全身麻酔に極度の不安がありそうな沙菜が、縫合創を見るだけで気分が悪くなって処置どころではなくなるという可能性は十分にあった。しかし、それもどうやら心配なさそうだった。

「わかった。できると思う。本人は退院したそうだし。」

「じゃあ、とりあえず、朝食の後、同じようにやってみて。綿棒なんかの処置物品は、朝御飯といっしょにここに置いとくから。何かあったら連絡して。」

 顕也が黒いヨモギ餅の入った袋と処置物品を床頭しょうとうだいに置くと、ちょうど次男の朝食が運ばれてきた。沙菜の分はないので、せめてものヨモギ餅である。しかもそれは、昨日診た患者の婆さんが、正月に遊びに来た孫に土産に持ち帰らせるために作って残った分を置いていった物だった。島の伝統行事に必ず登場する、かろうじて緑がかってはいてもほぼ真っ黒になるくらい自棄糞やけくそ気味にヨモギが投入されるこの餅は、沙菜が好んでスーパーで買ってくることもある。そんな頂き物の黒いヨモギ餅。この二人が家族だからという特別扱いは、たったそれだけであった。

 そもそも特別扱いが必要な手術内容でもなかった。母親の沙菜に翌日の退院や創部の処置に対する不安が見て取れないのは、家族の反応としては普通のことであろう。口唇裂こうしんれつがなくなった次男の顔に対する感想がないのも、手術前から手術の内容や仕上がりに興味がなさそうだったことを考えれば、理解できないことはない。まだ他にも回診を残す顕也が二人の朝食に付き合う時間はなかった。次男の病室を後にした顕也は、すぐにいつもどおりの仕事を再開した。

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