(十二)
その祈りが通じたのか、次男の手術は、ほぼ予定通りだった。それどころか、シャーカステンに吊り下げられたタイムテーブルに記載された予定終刀時間の、ちょうど一分前に終わった。
「ありがとうございましたー。」
最後の一針を縫って顕也が終刀の合図を出すと、麻酔科の三浦、器械出しの看護師さん、外回りの看護師さんの三人が、すごいすごいと一斉に拍手をくれる。
「さすがですなー。こんなピッタリに終わるなんて、滅多にない。外科医がみんなこんな手術進行表を作ってきてくれたらなあ思います。麻酔、かけやすいですわー。」
三浦の感想に、看護師さん二人がうんうんと頷く。もちろんそれは、顕也がタイムテーブルを意識しながら手術を進めたからこその結果だった。実は最終段階で赤唇のボリュームをまだもう少し減らせるかもと感じたが、そのまま終刀にしたのだった。やり直すと予定時間を過ぎそうだったこともあって、深追いせずにそこで止めたということになる。これには理由があった。
大人と違い、小児は成長に伴う形態変化を読めないので、やり過ぎは厳禁、術直後にばっちり左右対称なのは逆に将来のボリューム過少が危惧されるのである。将来のボリューム過少は組織移植でしか対応できないが、ボリューム過多は少し切除すればよいだけだ。組織移植は身体のどこか他の部分、いわゆるドナーからの組織採取を必要とし、ドナーには必ず傷痕を残す。大抵の形成外科手術において、引き算は容易であるが足し算は複雑になるという鉄則がある。さらに、組織量が不足して緊張の強い口唇は、上顎の発育障害、つまり反対咬合の原因にもなってしまう。だから、タイムテーブルと術野を交互に睨んで、この程度が妥当と判断したのだった。やる方が簡単で、やらない方が結構な勇気がいる。この勇気を後押しするのが経験なのだと思う。経験の少ない顕也にとって、そんな匙加減こそが予定通りと言えば予定通りだった。
手術の縫合創に限らず、創傷をガーゼなどで被覆する処置を、ドレッシングという。外回りの看護師さんが個装になった滅菌ガーゼの袋を開けると、器械出しの看護師さんが中身のガーゼを抜き取って、雑剪刀といっしょに顕也に手渡す。次男はまだ麻酔から醒める様子はなく、大きな目を半分開いたままである。手術は終刀になったが、まだドレッシングが残っていた。
顕也が口唇の縫合創に合わせてガーゼをカットしていると、外回りの看護師さんがシャーカステンに吊り下がるデザインの描き込まれた次男の顔写真を見ながら呟いた。
「先生たちって勉強してるんだねー。何のことか、さっぱり理解できないもん。」
「ほんとに。術野を見ててもさっぱりわかんないけど、それ見たら、ますますわかんなくなりそう。」
器械出しの看護師さんが同調する。勉強などと言われてもピンと来ない顕也が、ドレッシングの手を止めて一瞬シャーカステンの方を向く。
「ふつうはそんなの見ながら手術やんないですよ。勉強不足だからそれがあるんです。言ってみれば、それ、カンペですから。」
「でも、理論とか手順なんかを全部理解しないと、カンペだって書けないでしょ? あっ、すみません。」
目を凝らして次男の顔写真を見ていた外回りの看護師さんが、ドレッシングの終了に気付いてすぐに覆布を剥がす作業に参加する。手術が終わっても、安全に麻酔から醒ますためには手術操作にだけ必要だった余計なものを取り除く必要がある。麻酔科医以外の三人が協力して、肩枕を抜いたり固定具を外したりして体勢を整えると、目視できる次男の首から下には各種モニターと点滴ルートくらいしか残っていない。麻酔科医が、呼吸による胸の動きから指先の力の入り方まで体の隅々を観察しながら麻酔の影響を総合的に判断して気管挿管のチューブを抜く操作、つまり抜管を行いたいからである。こうなると、ほとんど執刀医の出番はない。大人だと覚醒時に暴れることがあるので看護師さんたちといっしょに押さえるのを手伝うことも多いが、覚醒前に気管挿管のチューブを抜く手法、すなわち深麻酔下抜管が適応されることの多い乳幼児では、それもあまりない。さらに、乳児なら暴れてもほとんど看護師さん一人で押さえることができてしまう。大人では手術台からベッドやストレッチャーに移乗する時にも人手が必要であるが、それこそ看護師さん一人で十分だ。
そんな人手を必要としない抜管の時には、外科医は患者の傍から離れて、カルテの記載をしたり、切除検体の整理をしたり、術中に気になった器械をチェックしていたりすることが多い。何もしないで患者の傍に突っ立っていると、その気はなくても麻酔科医に対して「早く麻酔を醒まして下さい。」という無言のプレッシャーを与えたり、「どうせ暴れるだろうから押さえます。」という麻酔手技に対する懐疑を向けることになりかねないという配慮もある。動向に注意しながらいつでも介助できるというスタンスで、他の作業をしているのがスマートだと顕也は思っている。この手術は検体整理も気になる器械もなく、カルテを書くくらいしかなかったが、それも大してできないまま、三浦という強力な助っ人によって、次男は何の問題もなくあっという間に抜管されて黄色い保護柵の付いたベビーストレッチャーに乗せられた。その横で器械出しの看護師さんが病棟にお迎えの連絡をしているのを聞いて、顕也がシャーカステンに吊り下げられたタイムテーブルを回収し始める。その顕也に、外回りの看護師さんがさっきの話の続きを振った。
「みんな、こんな手術をカンペなしでできるんですか? 形成外科の先生って。」
形成外科の領域に限らず小児先天異常の中でも口唇裂はそこそこメジャーな疾患なので、興味があったのかもしれない。若い彼女もずっと与論にいるはずがないように見える。
「とんでもない。できないどころか、見たこともない形成外科医が半分以上です。子ども病院とか専門施設をローテートしないと、お目にかかることはないですね。自分は、駆け出しの頃に子ども病院を回ってたまたま経験があっただけです。」
「へー。そんな誰でもできるわけじゃない手術ができるお父さんのところに、この人が生まれたわけですね。すごい偶然。というか、ラッキーですね。じゃあ、それって、やっぱり、前の病院で経験した手術の手術記事ですか?」
そう言って彼女が指さしたのは、ワゴンの上に置いてあったファイルだった。年末に押し入れの奥底の段ボール箱の中から発見されて以来今日まで、職場で常に自分と行動を共にしてきたファイルである。
「まあそうですよ。自分が経験した症例というよりは、典型的でよく書けてて参考になる先輩方のオペ記事を、抜粋してコピーしといたんです。ちなみに、自分で書いたのは一枚もないですよ、へヘヘ。」
顕也が、頭の後ろを掻きながら、笑って誤魔化す。
「永久保存版ってやつですね。見たい見たいー。」
「どうぞどうぞ、いいですよ。」
「わー、実習以来だな。学生の時、分厚い紙のカルテ見て病歴をまとめてたら手書きの手術記事がたくさんあって、その絵見るの、好きだったな。」
内地の遠くの看護学校に通ったのだろうか? 彼女がそれほど昔ではないであろう学生時代を懐かしむ。ワゴンの上でファイルの中身が広げられると、ちょっとした騒ぎを察して器械出しの看護師さんも寄って来た。
「きれいな絵ー。」
「さすが形成の先生だよね。こまかーい。」
看護師さん二人が手術記事のコピーを一枚一枚捲って手描きの精巧なシェーマに見入っていると、その後ろに柵に肘を付いた姿勢でベビーストレッチャーを押して三浦も近寄って来た。ストレッチャーごといっしょに連れて来てもらった次男は、痛みもないのか穏やかに眠り続けている。
「ほう、形成の先生っていうのは、やっぱり絵心ありますなあ。」
ストレッチャーの柵に手を掛けたまま、看護師さん二人の後ろから覗き込んで三浦が言う。
「いやあ、さっきも言ってたんですけど、これは先輩方のオペ記事なんです。上手ですよね。どんな教科書よりも参考になります。自分はこんなの書けない・・・」
顕也が三浦と次男の方に振り向いて正直に説明していると、手術記事の絵を見るのが好きだと言っていた外回りの看護師さんが、何かに驚いた。
「村沢せんせー! こっ、これなんですか?」
彼女が手にしていたのは、彩乃の絵だった。これまで通り手術記事といっしょに保存すべきだと感じて、そのままファイルに入れておいたのである。今回の手術と関係のない口蓋裂の手術記事の後ろに入れておいたのであるが、まさか口唇裂に比べれば地味な絵しかない口蓋裂の分まで彼女が見るとは思わなかった。ただ、見られて困るわけでもない。スタッフの目に留まることは想定外だったが、別に見せたくないわけではなかった。
「あっ、それは昔、口唇裂の患者さんの女の子がくれたんです。」
「すてきー! すっごいインパクト。私は好きだなあ。小学校低学年くらいの頃の絵ですか?」
そう言いながら、彼女が絵を目の前のシャーカステンに掛ける。
「そうですね。確か、小学二年生の時に描いて、みんなの前で褒められたって言ってました。彼女はその後美大に入って、今はもう結婚してます。どこかで幸せにやってると思います。」
「先生が以前手術を担当された患者さんって、もうそんな大人になってるんですね。」
顕也はちょっと返答に困ったが、黙っているのも変だと思った。何より、自分の中ではとっくに整理のついている話、今ではただ懐かしく美しい思い出話だ。話を逸らしつつ、さらりと上辺だけ語るのも悪くない。
「自分は途中から主治医だったので、最初の口唇形成術は担当してないんです。口唇裂は歯茎のところにも顎裂という裂があることの方が多くて、その場合は唇顎裂っていうんですが、顎裂が大きいと歯がうまく出てこなかったり矯正で歯を動かせなかったりするんで、小学校入学前後くらいに顎裂部骨移植術をやるんです。その骨移植の時に初めて主治医になったのが、この絵の作者です。診断名で言うと、口蓋裂のない片側唇顎裂の女の子でしたね。ちなみに、うちの次男はその骨移植の必要がない片側唇裂というタイプになります。」
明らかに要らない解説だった。上手く躱されたとも捉えようのない三人は、シャーカステンに吊り下がる絵を眺めていた。すると、さっきからあまり反応のなかった器械出しの看護師さんが、絵の中の人物の一人を指さしてボソリと呟く。
「この子だけ口がない。」
確かに、右下の隅でやや小さめに描かれたその子にだけ口がなかった。絵に一番興味を示していた外回りの看護師さんも首を捻っている。
「ほんとだ。こんなに丁寧に色分けして、他の人物は目も鼻も耳もきちんと描いてるのに、この女の子だけ口が描かれてない。忘れちゃった?」
これには顕也も気付かなかった。あの頃はこの絵を毎日見ていたのに、とくに気にならなかった。画面の隅で口が描かれることなく無表情にこちらを見る女の子に、三人の視線が集まる。顕也も三人といっしょにもう一度よく見る。その時、女の子のポニーテールを見て、ハッと気付く。
(これは彩乃だ!)
間違いない。当時、お気に入りの紫色のヘアゴムをなくして落ち込む彩乃に新しくラベンダー色のを買って持って行ったら紫色じゃないとイヤだと言い出した出来事を、突然思い出したのである。わがまま言うなと美希に叱られても納得できずに不貞腐れたままの彩乃とその日はバイバイして次の週末、やっぱりこっちの方がかわいいと少し照れ臭そうに首を垂れて見せてくれた、まさにそのラベンダー色のヘアゴムを絵の中の女の子が着けていた。
何ということだろう。小学二年生が一枚の絵にこんな意図を込めることがあるのだろうか? 彩乃に直接話したことはなかったが、美希には何度か将来の二次修正術について話したことはあった。美希からそれを聞いた小学二年生は、形成外科医の自分にいつかみんなと同じ傷痕ない左右対称の口にしてもらえると信じたに違いない。私の口はみんなと違う、今の口は私の口じゃない、でもきっともう一度手術を受ければみんなと同じ私の口が手に入る。そんな純粋な願いが、おそらくこの絵には込められていたのだ。
絵の中の女の子に疎外感のないことが、顕也には救いだった。気付かなかったくらいだから、違和感なく大勢のメンバーの中に溶け込んでいるのは確かである。彩乃のキャラクターもあるだろう。これが彼女のユーモアだと信じたい。いや、信じるしかない。ぎこちなく母と彩乃に寄り添う形成外科医の笑えないジョークに冷ややかに反応しつつも温かく見守っていた彩乃がここにいる。そう思うと照れ臭くて絵の中の女の子をまっすぐ見ることができない。
「せんせー、これ、きっと今日の手術のために描かずにそのままにしてくれたんじゃない?」
絵の好きな外回りの看護師さんが、顕也と三浦の方に振り向いて言った。あまりの出来事に、その言葉は顕也の耳には届いていない。
「せんせー聞いてる? これ、達磨の目みたいに口唇裂の手術が上手くいったら口を入れてね、ってことですよ。」
口を描く? ダルマ? 心の中で彼女の言葉を反芻する。次男の口唇形成術が終わった今、ここでこの女の子の口を描けということか・・・うーんなるほど、確かにそんな気もしてきた。彩乃ならうんうんと言いそうだ。器械出しの看護師さんが、どこからともなく取り出した三色ボールペンの赤をガチャリとノックして、ちょっと楽しそうに顕也に手渡す。
「どうぞ。」
「あっ、うん。ありがとう。」
顕也がボールペンを受け取る。そして、少しだけ絵の方に手を伸ばそうとしたが、口を描くことを躊躇った。何となくこの役目は自分ではないような気がしたのだ。
「誰か描いてあげて。」
顕也は看護師さん二人にボールペンを返そうとした。ところが、今度は二人がボールペンを受け取らない。
「私たちじゃ、ちょっとねー。」
「いや、いいから描いてあげてよ。許可するから。」
「そんなこと言っても、患者さんにいただいた大事な絵なんだから、先生に描いてもらうべきです。そうだよねー。」
もう一人も、だよねーと言いながら、看護師さん二人で絵の前までどうぞというジェスチャーを見せる。すると、ストレッチャーの柵に手を掛けたまま三人のやり取りを見ていた三浦は、何を思ったのだろう。さささっと前に進み出て、ささっと顕也の手からボールペンを奪い取ると、そのままさっと口を描いた。ほんの二秒くらいの仕業を見ていた三人が驚いたのは、その無造作な描き方ではない。横に倒したボールペンではうまく線が引けずに、左の口角が掠れて一本の曲線として汚いどころか口としても随分非対称な仕上がりなのに、全体として見ると女の子は突如として何とも言えない個性溢れる素敵な笑顔になったのである。まるで、はいチーズと自信満々に絵の中のメンバー全員に合図しているかのような、大胆不敵で魅惑的な笑みを浮かべる少女に生まれ変わったのだ。三人は言葉を失った。見事という他ない。三浦がにんまりと笑って看護師さんにボールペンを返すと同時に、高らかに言い放つ。
「口唇形成術、完了ーっ!」
そのあまりにも軽い調子に、看護師さん二人が笑いながら三浦を責める。
「なーにそれー。適当過ぎ!」
実際には、本人も周囲も茶化して笑って誤魔化すしかないくらいに素晴らしい出来映えだった。すぐに持ち場に戻ってストレッチャーの柵に手を掛けた姿勢を取る三浦本人が、深く考えずに手を下した自身の加筆の思わぬ結果に一番驚いている。照れ笑いを隠せない三浦に、本当は心から感謝したい顕也も、いっしょに笑うしかなかった。
「いやあ、三浦先生の口唇形成、完璧です。デザインなしですから。」
参りましたと顕也が頭を下げると、三浦が力拳を出すポーズで少し満足げにウンウンと神妙に頷く。
「それ、何自慢?」
看護師さんの一人がクスリと笑って冷ややかにそう呟いたのが可笑しくて、四人で大笑いする。その笑い声に驚いたのであろう。爆笑の渦の中で、次男が元気よく泣き声を上げた。三浦が慌ててその軽い乗りのまま次男の顔を覗き込む。
「はーい、お目覚めでしゅかー? おはよー。」
麻酔も完璧だった。目覚めるように麻酔から醒めた次男は、看護師さんにあやされて、またすぐにうとうとする。
「じゃあ、帰りましょう!」
三浦が帰室の許可を出す。これで本当に終了だった。年度内に形成外科の全身麻酔手術はおそらくもうない。いつか再び三浦といっしょに仕事をする日はあったとしても、少し先のことである。四人ともそう感じている。とくに、手術室の看護師さんは外科医よりもむしろ麻酔科医との共同体意識が強い。三浦の異動を惜しむ気持ちは、きっと顕也以上である。
「三浦先生、退室前に、ちょっといいですか? 形成外科の手術、たぶん今日が最後なんで。」
看護師さんが、三浦と顕也をいっしょに写真に収めようと、用意していた手術室のコンパクトカメラをこちらに向けた。しかし、ただでさえ殺伐とした手術室で撮る写真である。キャップとマスクで目しか出さない中年の男二人だけの画像が映えるはずがない。
「みんなで撮りません?」
顕也がカメラを持っていない方の看護師さんに声をかけると、午後の手術のために早々に出入りしていた清掃スタッフの一人が、撮りますよと声をかけてくれて四人が次男のベビーストレッチャーの両脇に並ぶ。もちろん次男はベッド柵に隠れて写らない。そのストレッチャーの向こう側で、この一枚の中心に写っていたのが、シャーカステンに掛かる彩乃の絵だった。




