(十)
このファイルさえ手に入れば、後の準備は病院内での作業を残すだけだった。とは言ってもその作業はただ一つ、手術のプランニングである。慣れた手術ならそんな面倒な作業は要らないが、頭頂から趾尖まで全身にメスを入れる形成外科では、経験がなくても理論上最適と判断できる手技を慎重に適応しなければならないことが少なくない。理論上最適とはつまり、似たような手技は見たことがあったりテキストに書いてあったりしても、誰かが主導してくれるわけではなく、術者がそれらを駆使、修正して適応するという意味である。その作業は症例の蓄積と検証を重ねて得られるある種のデータに基づく医療行為であり、厳正な科学の一分野である。図画工作の創意工夫、伝統工芸の匠の技の類ではあり得ない。誰も真似しない複雑難解な手技を良しとするなら、それはもはや科学ではない。そういう趣味のある術者は盆栽でもやっていればよい。
顕也が次男の口唇裂に適応しようとしている術式は、小三角弁法という広く汎用されてきた術式であった。汎用されてきたから術式に名称があるとも言える。できるだけ厳密に平均的な小三角弁法、つまり広く行われている小三角弁法を忠実に再現しようとしているのである。初めての手術でなくても、慣れない手術や久しぶりの手術であれば、何日も前から時間配分や切開線のデザインなどを隈なくプランニングしておくのが秘訣だった。当直の夜、年末年始の休みに入って誰もいなくなった医局のデスクで、まずは白紙のA4のコピー用紙に手術のタイムテーブルを書き出す。
08:00 入室、麻酔。挿管チューブは下顎正中固定、体位取り(肩枕)。
09:00 消毒、覆布掛け、咽頭パック、竹串削り、ウブ毛剃毛(No.15メス)、鼻口腔内洗浄。
09:15 デザイン。前後で写真。
09:35 赤白唇境界マーキング(No.15メス)、tatoo(30ゲージ針)。
09:40 局麻。目パッチ。
09:45 執刀開始。No.11メスで三角弁から。切開縁真皮下に口輪筋を少し残して口輪筋 isolation(人中稜形成)。人中は正中までundermine(人中陥凹形成)。
10:00 縫合開始。必要そうなら鼻翼基部皮下と鼻柱基部皮下(またはANS)の埋没4-0 clear nylon(結紮は後)、Noordhoff 弁尾側基部5-0 Vicryl(traction)、赤唇粘膜5-0 Vicryl、口輪筋深層4-0 PDS、口輪筋浅層(人中陥凹真皮に)6-0 clear nylon。
10:30 赤白唇境界部真皮6-0 clear nylon、同表7-0 prolene、赤唇皮膚部(Noordhoff 弁には必要最低限で)真皮6-0 clear nylon、同表6-0 Vicryl。
10:50 掛けていれば鼻翼基部皮下と鼻柱基部皮下の埋没を結紮。赤唇粘膜に余剰があれば抜糸、trimming、再縫合。対称は目指さず、わずかに余らせる。
11:00 白唇真皮6-0 clear nylon、同表7-0 prolene、鼻腔底6-0 Vicryl。患側皮膚余りは鼻腔底でビューロー三角と同等の処理。
11:30 終刀、咽頭パック抜去と目パッチ除去、写真、dressing。
11:45 抜管。
ここまで綿密なプランニングをしていても、時に予定外のことは起きる。それが手術だということくらいは、すべての外科医が理解する。だからこそ、全身麻酔という限られた状況の中では、すんなりいくところはすんなりと、最小限の労力で事を済ませたいのである。スポーツでは練習どおりのプレーを試合で出せれば最高であるのと同様に、手術ではプランニングしたことを予定外の手技なくそのまま施行できれば最善なのである。そのプランニングの鍵となる皮膚切開線のデザインのシミュレーションのために、次は同じサイズのコピー用紙の紙面いっぱいに次男の顔写真を印刷する。そこに、まずは解剖学的基準点を打っていき、この点を基準に縫い上がった時に左右対称になる切開線を決定していくのである。
①顔面正中線、内眼角中点、鼻尖正中点、鼻柱基部中点、white skin roll 上の人中下端正中点
②鼻翼基部(鼻孔縁とnasal groove の交点)
③健側人中稜、健側人中稜と white skin roll の交点
④③の解剖学的対称点
⑤④から鼻腔底に向かう患側人中稜相当線
⑥健側人中稜上で③から1.0mm 頭側の点
⑦健側②と⑥の距離(A)を計測し、患側②を中心とする(A−0.5)mm の同心円上で患側 white skin roll から頭側に1.0mm 離れ、かつ、この内側裂縁白唇に底辺1.0mm、二辺2.0mm の二等辺三角形が確保できる点(カリパー使用)。この点は口角と⑥の距離も参考に決定。white skin roll が判然としなければ健側を参考に。
⑧⑦から赤唇縁に垂直に降ろした垂線と white skin roll の交点(つまり⑦とこの点の距離は 1.0mm )
⑨⑦と⑧を結ぶ 1mm の線を底辺とする二辺の長さ 2mm の二等辺三角形の頂点、この二辺を切開線とする三角弁。
⑩赤唇皮膚粘膜境界線
⑪④から三角弁挿入の 2mm の切開線。人中最陥凹部相当からやや尾側に向かう。
⑫④から⑩に下ろした垂線と⑩の交点。この点から⑩上の Noordhoff 弁挿入の 4mm の切開線。
⑬⑧から⑩に下ろした垂線と⑩の交点。
⑭⑧から⑩に下ろした垂線上で⑧からの長さが④と⑫を結ぶ線と同じ長さの点。
⑮⑧と⑭を結ぶ切開線。健側に対応する④と⑫を結ぶ切開線が長すぎて Noordhoff 弁底辺の長さを確保できなければ、患側のこの切開線はカーブさせる。
⑯頭側基部⑭、尾側基部⑬とする赤唇皮膚部内の Noordhoff 弁。底辺は 2mm 前後、二等辺は 5mm 前後。
⑰切開線。白唇縫合線は、尾側で人中稜に一致、鼻腔底付近では少し外側に逃げる。鼻腔底の縫合線は、患側(①から切開線までの長さ+②から切開線までの長さ)=健側(①から②までの長さ)、になるような切開線を設定する。
とりあえず紙の上では上手くいきそうだった。切ってしまった組織を元には戻せないので、控えめに切っておいて必要なら追加切除すればよいなどと安易に考えるべきではない。紙とは違い皮膚は伸びるので、切開縁付近の皮膚を小さくクリアカットに切り足すことはほとんど不可能である。最初の一太刀できれいに切った傷をきれいに縫うことで初めて、きれいな傷痕が得られるのである。綿密にシミュレーションした上で、極細に削り出した竹串の先に付けた色素で毛穴ほどの小さな点と毛髪ほどの細い線を描き込むデザインの作業は、どんなに予定通りでも十五分程度はかかってしまう。竹串を細く削ってから滅菌すると先が潰れるし、体表にウブ毛があると色素の乗りが悪いし、覚醒したまま繊細なデザインなどできるはずがないし、乳幼児だから短くしたい麻酔時間が乳幼児ゆえに長くなるというジレンマが、どうやっても無くなることのない手術だった。デザインのシミュレーションは、そんな手術操作を加えないまま全身麻酔がかかっている状態、いわゆる空麻酔をできるだけ短くするための作業と言える。手術に臨んで考えながらやるのでは、術者と患者だけではなく関わる全スタッフの消耗が激しい。そんな消耗を減らすために、想定できるすべてのパターンのシミュレーションを行うことで、時間的にも労力的にも極々稀に起こりうる本当の想定外に備えるのである。
気付くと、何度もやり直してたくさん線が引かれた次男の顔が、デスクの上に五、六枚並んでいた。これらを参考に、最終的に手術室に持ち込む資料として、曖昧な健側人中稜を最大限外側に設定した場合と最大限内側に設定した場合の二通りのパターンを清書する。煽りの写真も同じ二通りのパターンを用意して、タイムテーブルといっしょに四枚の顔写真を並べて見下ろす。これで完了だった。手術前にできることはすべてやり尽くした。夜中一時過ぎ、最有力候補のデザインが描き込まれた正面視の一枚を見直しながらそう思った途端に、院内PHSが鳴る。救急外来の看護師から、腹痛の高齢男性の受診相談だった。
「いいですよ。どれくらいで来れそうですか?」
「それが・・・もう歩いて来ちゃってます。」
看護師が電話の向こうでクスクス笑っているのは、この患者が歩いて来られる程度の腹痛であることを意味している。深夜とはいえ病状はその程度、年末年始の休みに入って当直明けの平常業務もないので、大した負担ではなかった。何よりも、手術のプランニングに集中できる平和な夜の一時を守ってくれたのはこの爺さんだという気がしてならない。病院の薄暗い廊下を救急外来に向かって歩きながら、顕也はこのいかにも与論の患者らしい爺さんに一方的に感謝していた。とはいっても、よく考えれば離島で口唇裂の手術なんてやらなければ、そもそもそんな感謝もない。この年最後の当直は、そういう意味でも真に与論らしい業務内容になった。




