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(八)

 沙菜の柔軟でシンプルな思考にはことあるごとにれさせられてきたが、この時もまた、顕也は沙菜にやられたと思った。

「手術の後にでもゆっくりご挨拶あいさつさせてもらうから、『行けなくてすみませーん。』って言っといて。何しろ一人減ったところでこの通りだし。」

 夕食の支度したくの手を止めて振り向くと、沙菜はそう言って動物園さながらのにぎやかな茶の間を見渡して微笑ほほえむ。全身麻酔が心配という沙菜に気をつかう三浦が、一度術前に麻酔のくわしい説明をしたいと提案してくれたのであるが、何と沙菜はその術前説明どころか手術にも立ち会わないと言う。

「任せるわよ、顕さんに。だって、私が行っても変わんないじゃない。手術中は寝てるわけだし。」

 家族を始めとする島のコミュニティの中で唇に怪我けがをして形成外科医の父にちょっと縫ってもらったくらいの感覚で手術を終えられたらいいのになあ、という執刀医がうちに秘める理想を、とっとと察しているようだった。

「ママがいないと寂しがるんじゃない?」

「だって入院は一泊でしょ? 朝、保育園に行くように病院に行って午前中に手術してもらったら、お昼過ぎには病室に行けると思う。私は上の子達の送りも洗濯も掃除もあるし、午後の面会以外は平常運転かな。でもさあ、手術終わって面会に行っても、何しに来たのって顔されたりしてね・・・こいつ、ちょっと図太いとこあるから。」

「アハハハ。ありえる話だね。」

 確かに次男は図太い所があった。今も目の前できょうだいたちが細工したやき海苔のりひたいに貼り付けてもらって一本につながった太い眉毛が満更まんざらでもないのか、上機嫌でニコニコしている。普段から理由なく気難しそうに泣くことはほとんどなく、すでに両親は、こいつが泣く時には必ず何か理由があると思ってしまっているほど、次男は楽で素直ですこやかな赤ん坊だった。どこで誰が執刀したとしても、一番平然と手術を受け入れるのは本人かもしれないという気さえしてくる。沙菜が手術にも立ち会わないというのは、そんな本人の性格も考えてのことなのかもしれない。

 三浦が与論にやって来る年内最後の日に、顕也は三浦といっしょに次男の術前検査の結果をチェックした。実はその日に次男と沙菜がいっしょに来て術前検査をやった後に麻酔科の術前診察と麻酔のくわしい説明を受けてもらうスケジュールがベストだと思っていたのであるが、四人の子供たちの世話で忙しいので病院の規則上問題なければすべて父親に任せたいという沙菜の意向をメールで伝えると、三浦が律儀な返事をくれたのであった。

(そうおっしゃっていただければ、村沢先生に手術に集中してもらうためにも余計なことは省かせていただきます。乳児健診以外にも院内小児科の定期診察を受けておられて問題ないみたいなので、本人の術前診察は手術当日の朝で大丈夫です。次にわしが行かせてもらう日までに、都合のいい時に術前検査だけやっといてもらえたら、打ち合わせの時に検査結果をチェックします。病院の規則で手術と麻酔の同意書のサインだけはご両親のサインが必要になるようです。)

 普通に考えれば、麻酔を心配して手術時期を遅らせているのに麻酔科医の術前説明を受けないなんて、支離滅裂しりめつれつである。三浦はあきれていたと思うが、そこはえて触れずにサクッと終わらせようという話であった。三浦がただ忙しいだけなのか、考えあっての心意気なのかはわからない。そのスマートな対応もまた、顕也の思惑に一致したことは確かである。その厚意に甘える形で、次男は数日前に沙菜に連れて来られて術前検査を済ませていた。その結果をいっしょに見るために、外来の合間に麻酔科控室(ひかえしつ)にいる三浦を訪ねたのであった。

「すみません。麻酔が心配だから手術は遅くでいいとか言っておいて、その麻酔の術前説明を受けないなんて、とんでもないですよね。」

 麻酔科控室(ひかえしつ)のパソコンの電子カルテで採血データの画面を開こうとする三浦に、顕也が一言ひとことびた。

「大丈夫ですよ。規則上は問題ないですから。それに・・・うん、問題なし。」

 何かを言い足そうとした三浦は、採血データの画面を二秒見て閉じる。

「次は胸部X線、エックスせん・・・」

 実は、この病院は昨年ようやく紙のカルテから電子カルテに切り替わったばかりであった。どちらかと言えば紙のカルテに抵抗がない顕也よりも少し若い三浦が、意外にもパソコンの扱いが得意ではないように見える。結局は生身の人間が生身の人間に手作業で治療にいどむ外科医としては、その姿に妙な頼もしさを覚えてしまう。単に、三浦が普段勤務する奄美の病院のものとは仕様が違うだけのことなのかもしれないが、この病院の電子カルテの操作に不慣れな三浦は、少し戸惑いながらX線の画面を開くと、じっと画面を見て言う。

「うーん、問題なさそうですねー。そうそう、手術も立ち会わないし術前説明も来ないなんて親族は、まあまあおるんです。一種の恐怖症ですわ。手術とか麻酔とか考えるだけで怖い、みたいな。実はそういう人って、手術を自分のことのように考えられる、じょうの深い優しい人なんかなと思ったりもします。」

 その余談は、三浦と沙菜の板(ばさ)みになっている顕也への、何気なにげない気遣きづかいだったのであろう。三浦がX線の画面を閉じて、手元の紙の心電図を広げる。心電図だけはまだ電子カルテに取り込まれておらず、紙のレポートが届けられていた。顕也の方に向き直ることもなく、その報告文に目を通しながら三浦がさらりと余談を続けた。

「もちろん、医療事故とかで身近な人を亡くしたなんて場合にも、そんな拒否反応を起こす方がいます。」

 三浦にしてみれば、流れからしてただ聞き流してもらうはずだった話のくくりに、顕也は衝撃を受けた。まさに青天の霹靂へきれきだった。それは真実かもしれなかった。壮絶な半生をくぐり抜けてきた沙菜が、命に関わるリスクを伴う全身麻酔のような医療行為に対するトラウマを抱えないはずはないのだ。目を輝かせてイルカのジャンプを見つめる三才が、母と手をつないで一生懸命病院に通う小さな女の子が、母に看取みとられて動かなくなった小さな体に最期さいごまで維持された気管きかん切開せっかいが、おそらく沙菜の手によって南国の海で祖母といっしょに静かに自然に帰っていった白い遺灰粒が、走馬灯のように顕也の頭を駆け巡る。平然と笑ってすべて任せたと言ってくれてはいても、沙菜にとって手術や麻酔は恐怖なのではないか? 沙菜は自分の不注意だったと自身を責めていたが、気管きかん切開せっかいのトラブルは医療事故とも言える。きん弛緩剤しかんざいで自発呼吸を止めて気管挿管きかんそうかんによる人工呼吸管理を行う全身麻酔を想像できれば、その先に起こりる医療事故を、沙菜なら容易に想像できてしまうはず。出産直後の沙菜にいきなり三カ月での口唇こうしん形成術を回避させたのは、何かもっと理屈抜きの恐怖や嫌悪けんおといった生理的な反応だったのではないか? やはり沙菜の気持ちを根本的に理解することは不可能なのではないか? 毎日のように手術や麻酔を繰り返す医療者が、いくら一般人の抱く全身麻酔手術という医療行為に対する嫌悪けんお無頓着むとんちゃくだとしても、いくらその起こりる医療事故に対して一種の麻痺状態にあるとしても、こればかりは職業病などという簡単な言葉で片付けられることではない。シンプルに唇の見た目の問題しかないの親のちょっとした心配とは、まったく違うレベルの話なのだ。口唇裂こうしんれつを持つ次男が生まれて、自分こそは医療者でありながら患者家族の立場でもその心情を理解できると本気で思っていた勝手な妄想は、音を立てて崩れ去ろうとしていた。まさに次元が違うのだと。顕也は激しく動揺した。

 三浦は、心電図のレポートをひかえしつの入口近くにある返却台に戻しに席を立っていた。自身のタイトなスケジュールに気を取られていたということもあったかもしれない。三浦が茫然ぼうぜんとする顕也に気付くはずもなく、席に戻りながら早々に手術日の相談をしようと顕也に話しかける。

「これで準備万端(ばんたん)、と。手術、いつにされますか? 年明けにわしが来るんは・・・」

 そう言いかけて初めて、三浦が深刻そうな顕也の表情に気付く。

「手術日のこと、まだ気にされとるんですか?」

 当然、三浦には顕也がただ考え事をしているだけのように見えたのである。聞かれた顕也が、はっと我に返る。

「い、いえ。何でもないです。手術手術、手術日ですよね。こちらはいつでも大丈夫です。」

 顕也は何も考えずに答えた。ただ平静をよそおうための言わば常套句じょうとうくとして、反射的にいつでもいいと返事をしたのである。しかし三浦は、自身の余談が複雑な事情に派生する極めて特異な動揺を聞き手に与えてしまったことなど知るよしもない。そればかりか、三浦は手術を急いだ。

「じゃあ村沢先生、年明けすぐなんていかがでしょう?」

「年明け・・・というと、いつですか?」

「一月四日、月曜日。」

 顕也は耳を疑った。さすがに正気しょうきを取り戻す。あと二週間しかない。いくら何でも急過ぎる。肝心かんじんの手術に関しては、東部病院から送ってもらった針付きの縫合糸と細い注射針以外は何の準備もしていない。即答できない顕也に、三浦が急ぐ理由を淡々(たんたん)と打ち明ける。

「実は、わし、三月いっぱいで、ここに来なくなるんです。」

「来なくなる? 異動ってことですか?」

 これまた急な話だった。さては奄美や与論では飽き足らずに、絶海ぜっかいの離島診療にでも身を捧げようというのであろうか。

「そうなんです。また数年で戻って来る思いますけど、奄美からは一旦いったん離れます。」

「どちらに?」

「大阪です。実は以前から公衆衛生関係の研究をやってまして、自分でもびっくりしとるんですが、今回ちょっとまとまった研究費をいただくことになったんです。全国規模の調査研究やシステム構築を、奄美で展開するのはちょっと難しいことがわかりまして。結局、共同研究施設との通信とかデータ解析なんかをやるための人をやとおうにも、奄美やとそんな専門性の高い人材がおらんのです。」

 意外だった。その風貌ふうぼうもあって、三浦は完全に奄美の僻地へきち医療にどっぷりけ込む臨床医だと思い込んでいた。奄美で暮らす家族はどうするのだろうか? 奄美の小児麻酔はどうなるのだろうか?

「ご家族はいっしょに?」

「わしの家族っすか? もちろんそのまま奄美にいますよ。単身赴任ですわ。いやあ、さすが村沢先生。先生が家族を大事にされとるの、ようわかります。今は先生の息子さんの手術の話をめとるのに、わしの家族の心配してくれるんですもん。でも大丈夫。わしんとこは、最初カミさんにこの話した時の第一声が、『大阪出張なんて飲み歩きの延長でしょ?』ですよ。そんで、『飲んだくれ的には奄美の酒の方が美味おいしいんじゃない?』なんて言いよるんです。ほんまその通りです。ハッハッハ。」

 自虐的な笑いとは裏腹に、まったく違う形ではあっても、三浦もまた家族に恵まれていることがよくわかる。その三浦がちょっと真顔まがおになる。

「ということで、奄美にはちょいちょい帰ってくるんですけど、ここのポスト、昔いっしょに働いてた後輩にゆずろ思ってます。まだ若いけど自分と同じ小児麻酔が専門なんで、口唇裂こうしんれつの手術は四月以降でもここでやろう思ったらできなくはないんです。でもそれはいかん。いかんのです。ぜひわしにやらせてください。他の手術の予定がいっぱいで、一月四日の次にここでわしが麻酔をかけられるんは、二月後半以降になってしまいよるんです。子供って、熱出したり下痢したりしてすぐに手術が中止になるやないですか。二月後半の手術が延期になったら、おそらくもうわしは担当できんのです。」

 三浦の熱い思いには感謝しかなかった。くわしく知りようはないが、公衆衛生(がら)みの研究というのもきっとこの熱量と責任感にたくされたプロジェクトに違いない。年明けの手術は、三浦のような麻酔科医が問題ないと言ってくれて、今となっては沙菜もすべて任せたと言ってくれていて、このに及んで外科医がちょっと待ったというわけにはいかないであろう。三浦の推す後輩なら手術は問題ないに違いないが、えて引き延ばす理由は心の準備以外に見当たらない。テクニカルな問題ではなくメモリアルな問題でも、ぜひ三浦に麻酔をお願いしたいとさえ思う。

「忙しいところをすみません。一月四日、お願いします。」

 心を決めた顕也が改めて三浦に頭を下げる。三浦も自身の都合で手術が早まって申し訳ないと形だけの謝罪をするが、実際にはたいして悪いと思っていないことは顔を見ればわかる。優柔不断な両親のもとでさらに運悪く離島に生まれて治療が迷走するを救い出したとでも思ってくれているのであろう。粗野そやに見せて恩に着せないこの独特なスタイルこそが、愛すべき三浦という人物を強烈に特徴付けている。

 客観的に考えれば、三浦だからこんなふうに患者や執刀医の都合に最大限配慮して折り合いをつけてくれているのだと思う。そこには何の打算も善意もなく、かすかかに習性の臭いがするだけである。外科医はもちろん、麻酔科医もまた勤務医である以上は手術を何件担当しても給料は変わらない。小児麻酔の専門であることを明かさず、へーへーと話を聞き流していれば、余計な仕事が一つ減らせたはずなのである。何よりも、ここは離島である。必要な物品を自分で準備して持ち込まなければ小児麻酔をかけられない状況は、それ自体がリスクと判断するのが常識であろう。与論でこの手術を行うメリットがそのデメリットを上回るという総合的な判断の根拠があるとすれば、それは三浦がいかに患者背景をよく診ているかという非常識な臨床能力に尽きるのである。奄美の医療のためには、とりあえず三浦のような人物をくだらない研究に邁進まいしんさせてはいけない。

 そんな三浦の異動はまったく急な話で、沙菜がどう思うのかその場では考えが及ばない。ここでの手術を望む沙菜にとっても、熱意と実力を伴う三浦の異動は、恐らく不測の事態のはずである。自身の不安だけで悠長ゆうちょうかまえて機を逃すことを一番避けたいのは沙菜であろう。次男に口唇裂こうしんれつ以外の合併症はなく、もはや十分じゅうぶんに丈夫な児であることは両親とも身をもって納得済みである。今となっては、準備期間が長い方が、三浦が与論に来なくなる日が迫るという意味で不安をつのらせることになりかねない。

 顕也は、自分が少しかん違いをしていたことに気付き始めていた。たくさんある手術が可能な場所の選択肢の一つがここ与論ではないということだ。色んな巡り合わせと偶然が重なってたまたまここでも手術ができることがわかり、消去法でここが選ばれたわけではないということである。ここでなければならない、そう誰かが強く願わなければ普通はこんな離島でこの手術をやる流れにはならない。その誰かは自分かもしれなかった。

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