(七)
「早うやってあげた方がええ思います。」
麻酔科控室でカレンダーを見ながら三浦が言う。東部病院にキャンセルの電話をしてから半月後、一般外科の手術の麻酔をかけに来ていた三浦を捕まえて、正式に次男の麻酔を打診したのである。
「今日の午後にでも、ここで小児の麻酔かけるのに何が足りんかチェックして、年末くらいにまた来る時に挿管チューブとか足りんやつ持って来るようにします。そこでもういっぺん打ち合わせさせてもらいましょうか?」
「ありがとうございます。お願いします。」
「そしたら・・・最短で年明けすぐくらいの手術ですかね。」
三浦の提案するスケジュールは卒なく常識的であったが、他の麻酔もある中で密に予定を組もうとしてくれている律儀な心意気も見え隠れした。
「ありがとうございます。そんなに早くなくても大丈夫ですよ。」
「あれ? 息子さんって、今、何カ月でしたっけ?」
そう言われて、ちゃんと月齢を伝えていなかったことに気付く。
「今七カ月。年明けで八カ月になります。」
「えっ、もうそんなですか! やっぱり早うされた方がええん違いますか?」
「いえ。全然急がなくも大丈夫なんです。」
実は、なぜ次男の月齢がすでに一般的な口唇形成術の手術時期の三カ月を大きく超えてしまっているのかも、ちゃんと伝えていなかった。母親が全身麻酔を心配して三カ月での手術を先延ばしにした経緯を伝えると、三浦にプレッシャーをかけてしまうと思っていたからである。手術のタイミングについては、東部病院では話題にもならなかったし、月齢が大きいほど全身麻酔のリスクが低くなることは確かなので、とくに話す必要もないくらいのことだとも思っていた。ところが、三浦が小児専門の麻酔科医としての実力を発揮する。
「わしの勉強不足かもしれません。口唇裂ってみんな三カ月くらいで手術や思っとったんですが、そんな遅くなって大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。実はこれには理由がありまして・・・」
顕也は正直に話すことにした。考えてみれば、三浦ほどの麻酔科医がそれで怖気付くなんてことはあり得ないだろうし、自ら小児の専門と明かして進んで麻酔を引き受けてくれた三浦にそれを隠すのはさすがに失礼だと思ったからだ。顕也は、沙菜が出生直後の次男に口唇裂があることがわかった瞬間から全身麻酔を心配して東部病院の受診の案内を蹴ったこと、自身も審美改善を主目的とする口唇形成術を一才くらいまで待つことは医学的に間違いではないと考えて沙菜の意見を尊重したこと、東部病院でも手術が遅くなることは早くやりたい家族の希望に沿えなくなってしまうこと以外の問題がないという雰囲気だったことなどを、包み隠さず話した。ふむふむと聞いていた三浦は、手術が遅くなった理由を知って妙に納得していたが、その三浦が軽い調子で口にした疑問に、顕也は少々驚いた。
「じゃあ、できるだけ早くやった方がきれいな傷痕になるんとは、違うんですか?」
「きれいな傷痕? 低年齢でやった方が仕上がりがきれい、ってことですね?」
それは、患児の親たちから度々受けてきた質問と同じだった。答えはもちろんノーであるが、なぜか早くやった方がよりきれいになると思っている親たちが少なからずいたのである。この真しやかな都市伝説が何に起因するのか確かめようはないが、思い当たる節はあった。それはひょっとすると、「早くやった方が早くきれいになる」という言葉の取り違えなのかもしれなかった。確かに、早くやれば早くきれいな時期を迎えるので、この言葉に間違いはない。つまり、術後に傷痕が白く落ち着くまで半年かかるとすれば、その傷痕の状態になる年齢は、三カ月で手術すれば九カ月、一才で手術すれば一才六カ月であるから、早くやれば早くきれいになる時期を迎えるのである。この早くという言葉が、誤解を生みやすいのではないだろうか? 早くやればきれいになる、と誤って理解されて一人歩きしたのではないだろうか? まだ母親のお腹の中にいる胎児の傷は傷痕なく治癒することがわかっているので、過去には胎児により近い出生直後の手術の方が傷痕はきれいになるという仮説を確かめようとする研究がなされたこともあったが、今ではその説を信じる形成外科医はおらず、一つの古い仮説に過ぎない。三浦は、麻酔には詳しくても、三カ月で口唇形成術を行う意図まで理解するはずもなく、その知識は患児の親たちとあまり変わりないレベルであった。もちろん麻酔科医には不要な知識であるから、決して三浦が勉強不足などということではない。ただ、患児の親のみならず、一小児麻酔科医でさえも、都市伝説の呪縛に囚われつつ何の疑問も抱かずに三カ月の赤ん坊の全身麻酔をかけているという事実に、驚いたのである。
そもそも、生後三カ月の患児に一様に口唇形成術を行うという標準的な治療は、見た目に対する受け止め方が千差万別であることを一切考慮していなかった。口唇裂に対する親の受け止め方が一様ではなく、親の数だけそれぞれに違うことを完全に無視していた。それどころか、立派な論文をたくさん書こうとするハイボリュームセンターが、親の不安を煽って早めの手術を行うことで症例数を稼いでいるような構図が見え隠れすると、顕也は薄々感じていた。少しでも早く手術を受けさせたい親が少なからずいるという状況を逆手に取って、見た目の改善を主目的に行う全身麻酔手術を全例に三カ月で行う妥当性を説いているような気配がどこかあった。しかも、多くの場合、親が味方だった。親が希望すれば当の本人が理解できないリスクなどないも同然である。医学的な正論をかざして低年齢での全身麻酔のリスクを説いてしまえば、多くの症例は他所のハイボリュームセンターに流れてしまったであろうから、きっと過去に正論を追求した外科医は論文を最優先する上司から無能だと散々罵られたに違いない。今や口唇裂に対して三カ月で手術を行うことは世界標準であり、その安全性や手術成績を真面目に評価する報告すら皆無と言ってよい。沙菜の言うとおり、三カ月だとスクリーニングに拾われない隠れた合併症によって周術期に危険な状態に陥る児が少なからず存在してきたのではないかと推測するが、過去にそれが検証されたことはなさそうである。所詮は見た目の問題にそれはないだろうと声を上げた外科医も麻酔科医も、残念ながらいたとは聞いたことがない。
「早くやればよりきれいになることはないですよ。小さな赤ちゃんは指を器用に使うことができないので傷痕のところにテープを貼ったりするアフターケアがやりやすいからきれいになりやすいという先生もいますが、ちょっと怪しいですね。小さいと授乳回数が多くて唇の安静を保てなかったりミルクで汚れっ放しになったりする方が傷痕にはマイナスのような気もするので、自分は離乳が進んでる方が傷痕をきれいに管理しやすいんじゃないかと思ってるんです。」
「そうなんですね。いやあ、村沢先生みたいに考える先生が少ないのが実に不思議ですねー。確かに、全身麻酔の安全性については、一才で体重十キロの線引きいうのはエビデンスがありますから。基本的には、待てる手術はみんな大体一才くらいまで待ってもらってますもん。形成外科だと、例えば同じように見た目の問題で顔のちょっと大きいホクロを切除しましょなんてケースを、三カ月で手術いうのはちょっと聞いたことがないですし、多指症なんかもそうですよね。まあ、昔よりは麻酔の技術がかなり向上しとるんで、三カ月で体表の唇だけやってあげることは大きな問題ない思いますけど・・・でも、口唇裂だけ三カ月って・・・何でですかね?」
「さあ? やりたいから?」
顕也がニヤリと笑って、外国人のように肩をすくめながら両手の手のひらを上に向けて戯けて見せる。
「熱心な親御さん、いますもんね。」
三浦がそう言うと、すかさず戯けたままの真顔で顕也がそれを否定する。
「いや、外科医の方。」
三浦が目を丸くして、一瞬固まる。きっと、息子の鼠径ヘルニアの手術の麻酔を自らかけることになった経緯を思い出していたに違いない。次の瞬間、三浦は大喜びして顕也を指さしてほとんど叫んでいた。
「それ! それですわー!」
顕也も三浦を指さして二人で大笑いする。笑いながらも、東部病院のことが顕也の脳裏を過る。大橋が躍起になって症例集めなどとんでもない。どうやら大橋の走ってきた道は正反対だ。同じ疾患全例に通用する不変の真理に近付くための努力、個々の患者やその家族の多様なウェルビーイングに最大限応えるための努力、この二つが相容れるはずはなく、時に足を引っ張り合ってきたに違いない。それでも忍耐強く並行して繰り広げられてきた惜しみない努力には敬服しかない。その上で大橋は、出すことさえも惜しまなかった。
「申し訳ないが正解はない。唯一正解に近いのは、いっしょに探し続けることかな。」
大橋が正直に出し示してくれた答えだった。わかってるとは思うけどね・・・さらりとそう付け加えて、謙虚に笑う大橋の顔が目に浮かぶ。その通り、わかるもわからないもない。きっとずっと探し続けることくらいしか自分にはできない。




