(六)
職場の昼休み中にかけた東部病院のキャンセルの電話には、大橋が手術中とのことで、初診時に入院予約などの業務を請け負ってくれた若手の平良が出た。二つ返事でキャンセルを承諾した平良が続けて軽い調子で口にした言葉に、顕也は耳を疑った。
「ところで村沢先生って、美人と口唇口蓋裂の遺伝子のオーバーラップを報告した村沢先生なんですか? 電話でこんなこと聞いてすみません。」
「そっ、そうですが・・・な、何でそれを?」
「やっぱり! もちろん論文ですよ。拝見しました。もう一年以上経ってますが、以前に他の医局員が抄読会で読んでたんです。それで、前回お会いした後に村沢先生のことをネットで調べてみたら、あれっ、この論文見たことあるぞって。びっくりです。まさか村沢先生があの論文の著者だって、誰も思わないですよ。ふつうに考えて、そんな先生が離島診療の最前線にいるはずないですから。」
まさかあんな論文に目を通す者などいるはずがないと思っていたが、完全に不意打ちを食らった。返す言葉に困る顕也に、興味津々の平良が遠慮なく質問する。
「先生、ぜひ教えて下さい。僕は基礎研究のことはよくわからないんですけど、何であの研究をやることになったんですか? 留学とかされてたんですよね? 普通の日本人のアイデアで、あの研究にはたどり着かないですよ。何で形成外科の学会とかで詳しく話して下さらないんですか?」
熱心な若手を避ける理由はないが、それにしてはいきなりの容赦ない質問攻めである。
「留学はしてないですよ。たまたま同期にアメリカ帰りのゲノム研究の第一人者がいただけなんです。私は少しのアイデアと検体集めに奔走しただけ・・・」
「じゃあ、やっぱり臨床メインでやって来られたんですよね。」
「そうです。どっぷり臨床だけです。」
「それにしちゃ立派で面白い論文だって、大橋が大喜びしてました。抄読会なんて、いつもちょっと矛先を変えただけの論文ばっかりで、みんな飽き飽きしてますから。身近にこんな面白い切り口で貴重な研究をやる先生がいたなんて、ほんとにびっくりです。」
臨床医として基礎研究への根拠なきリスペクトは理解できなくもないが、持ち上げ過ぎにも程がある。
「いやあ、恥ずかしながら、検体処理からデータ解析まで全部同期任せ。一行も自分で書いてないんです。同期には感謝してます。たまたま巡り合わせが良かっただけです。」
謙遜でも何でもなく真実と本心だった。むしろ込み入った研究の内容を聞かれなくてホッとしていた。当然それ以上話せることはないし、昼休みの外来診察室で、あまり昔話はしたくない。しかし、話がそれで終わるどころか、平良の質問は思わぬところに踏み込んできた。
「いただいた電話でほんとに恐縮なんですが、もひとつ質問いいですか?」
「ええ。まあ込み入った研究の内容でなければ。」
「あれって十年近く前の論文ですよね。その後自身のお子さんに口唇裂っていうのは、ただの偶然なんでしょうか? というのは、大橋が言ってたんです。普通の臨床医だとしたら、並大抵のモチベーションではあの熱量の仕事はできないって。具体的には、何か先天疾患の家族歴があったりして口唇口蓋裂に相当な思い入れがないと成し得ない研究じゃないかと。そしたらその後に口唇裂のお子さんが生まれたとしても、辻褄が合うというか・・・でも、問診票には家族歴なしと記載していただいてますから、さすがにそんなことないですよね。すみません。半ば興味本位でこんなデリケートなこと聞いちゃって。」
この質問にはかなり驚いた。大橋の推論に、本物の臨床家の神憑り的な洞察力をまざまざと見た気がした。先天疾患のハイボリュームセンターでは、家族歴は研究対象として最重要とも言える因子である。手術症例を提供できなくても、研究者の端くれとして大橋の元には正確な家族歴を提供しなければならないと直感する。
顕也は、すぐに外来診察室を抜けて、裏の非常口から外に出て非常階段の踊り場に移動した。スタッフが時々こっそり一服している場所なので足元に吸い殻入れの空き缶は転がっているが、そこからは通りの人の頭が隠れるほど立派に育ったサトウキビ畑の向こうにいつもと変わらずどこまでも広がる碧い海が見える。
「実は、おっしゃる通りなんです。」
「ほんとですか! 大橋がこの話をした時には、個人的には何言ってんだろって思ったんです。一編の論文からそんなことまでわかるはずないだろって。」
「いえ、それがその通りなんです。家族歴を端折ってしまって、すみませんでした。家族歴は大事ですから、ぜひカルテにも追記しておいて下さい。実は、妻は再婚なんです。その前夫との間の娘は、トリーチャーコリンズ症候群でした。」
「ト、トリーチャーコリンズ症候群ですか!」
平良が驚くのも無理はない。形成外科が扱う先天疾患の中でも最重症の顔面形態異常を合併することの多い症候群である。しかも稀な疾患なので、平良は名前しか知らないかもしれない。
「ご存じとは思いますが、その子にもやはり口蓋裂がありました。口唇裂はありません。あとの症状は典型的です。小顎症で気管切開あり、両側小耳症と外耳道閉鎖もあり、です。」
「そ、そうなんですね! 気管切開があって与論で暮らすのは大変そうですが、島外に通院されてるんですか?」
電話口の声で、平良が少し興奮気味なのがわかる。さやさやとサトウキビ畑を揺らしてやってくる柔らかな海風に吹かれながら、顕也は空を見上げた。
「三才で亡くなりました。呼吸器合併症だったようです。なので、私との接点はないんです。」
「そっ、そうなんですね・・・いやあ、すみませんでした。お電話でこんなことを聞いてしまって。」
「いえ。むしろ電話でなければ話しにくい内容ですから。」
顕也は、いつか共同研究員の小児科医に沙菜のバックグラウンドについてこっそり調べてもらったことを思い出していた。今再び自分がこっそり医療機関にそれを伝えることになったのは、偶然ではない。本来これは、沙菜の心の奥底に仕舞い込まれたままになるはずの情報なのだ。一般的には配偶者の自分に差し出されることのない、向こう半分のどこかで大切にしておきたい過去だったはずなのだ。決して容易く誰かに言えるようなことではない。自分としても、次男が口唇裂という特殊な事情がなければ、決して第三者に口外することはなかった。いや、こんな機会がなければ、医療者として平良の立場を理解した上で家族歴について聞かれなければ、恐らく今後も誰にも伝わらなかった情報に違いない。研究者の端くれとしてその重要性を十分理解している自分ですらこの通りであるから、世の中には記録に残らない家族歴は山ほど存在してきたと想像できる。自分たちのせめてもの協力が、遺伝領域の医学の発展に貢献する芥子粒になることを祈るばかりである。
「ほんとにすみませんでした。問診票に嘘を書いてしまって。ちゃんと伝えられて、すっきりしました。」
「ありがとうございます。カルテに追記させていただきます。ところで先生、何か必要な物ありますか?」
「必要な物?」
「そう、手術物品。器械とか針糸とかです。」
「器械? 針糸?」
「大橋が言ってました。あの感じだと村沢先生は自分で手術するだろうと。今の話を聞いて、僕も確かに村沢先生が執刀されるのが一番いいんだろうなって思いました。大橋は凄いです。あの論文のことも知らずに、初診の時にちょっと話しただけでそんなことを感じ取ってるんですから。確か初診の日です。器械や針糸で必要そうな物があったら貸し出しせよ、という命令があったのは。キャンセルの電話をいただいて、論文のことよりもその命令が先に頭に浮かんだくらいです。」
大橋が部下にそんな命令を出していたなんて、一体自分のどこにそんな意志を感じ取ったのであろうか? まったく理解不能である。しかもその命令は的確にツボを押さえていた。
「いや、まあ、自分でやろうとしているのは確かなんですが・・・」
「だったら、針糸なんて小さいのはないんじゃないかって大橋が言ってました。遠慮なくどうぞどうぞ。命令ですから。ケースで買っても無駄になりますし。三つほど郵送しますよ。」
「だったらお言葉に甘えて、6-0白ナイロンと30ゲージ針ですかね。他はあります。」
それはまさに、手術までに病院に臨時購入してもらうことを考えていた、細かな針付きの縫合糸と眼科領域の細い注射針だった。とは言え、他の手術であまり使わない消耗品を、自分の息子の手術のためだけに病院に購入してもらうのはどうなのかとも思っていた。平良が、まるで同じ職場で働く部下のような口振りで返事をしてくれる。
「承知しました。お安い御用です。」
「何から何まですみません。助かります。ぜひ、大橋先生によろしくお伝えください。」
「先生、その大橋から伝言です。っていうか論文のことを伝えた時に、その場で自分たち下々に言ってたんです。」
「で、伝言? 自分に・・・」
押しの強い平良が、顕也の言葉を遮って、大橋の言葉そのままにメッセージを続ける。
「『村沢先生は、手術の経験もあってあの論文を書いてるって、只者じゃあない。口唇口蓋裂に対するそこまでの思いがあれば、手術が上手くいくかどうかは問題ではない。何よりも、手術のテクニックだけで、手術が上手くいった、いかなかった、なんて議論してる外科医がいるけど、患者が手術やって良かったって思わなければそれは手術が上手くいかなかったってことになるわけで、そう思ってもらえるかどうかは手術内容だけじゃなくて一人一人みんな違う患者に手術前後でどう関わっていくかが大きく左右する、それをおそらく村沢先生はよくわかっておられる。どんなに完璧な手術操作をやってのけても患者が満足しなければ、それは手術が上手くいかなかったってこと。満足していない患者に対して、手術は上手くいったのに、なんて言葉は論外。その辺りを確かに村沢先生はわかっておられる。あの目、あの顔付きはきっとそうだ。あの論文と今のお立場からは、そうとしか考えられない。』・・・以上、そんなことを言ってましたよ。僕は、ちょっといい話だと思いました。ふだんはひょうひょうとしてて、あんまり説教染みたこと言わない大橋が、この時はずいぶん熱いオッサンだなあって思いました。」
涙が出そうになるくらい温かい言葉だった。物品の提供なんかよりもずっと力強く自分を支えてくれようとするメッセージだった。
「大橋先生がそんなことを・・・」
「うわっ!」
突然、悲鳴のような平良の声が響く。電話の向こうで、誰が熱いおっさんなんだと笑う大橋の声がする。平良が電話から離れて、手術はもう終わったんですかとか病棟処置が残ってますとか、何かごちゃごちゃ言って話を逸らそうとしているのが丸聞こえである。
「す、す、すいませーん。そういうことで失礼しまーす。」
お笑い番組のような最後の挨拶に反して、平良の電話は爽やかな余韻を残してガチャリと切れた。雰囲気のいい職場だった。自分の目に狂いはなかった。沙菜の意見がなければ、迷わずそのままここで手術を受けさせることになったと実感する。大橋の思いが自身の思いとかけ離れてはいないことも嬉しかった。それこそ口唇口蓋裂の術式やテクニックに心血を注いできたはずの大橋が、手術が全てではないと言ってくれているのである。ついには術式について聞かれることもアドバイスされることもなかった。手持ちの術式が一つしかなくて自信の根拠があやふやな顕也にとって、これ程頼もしい言葉が他にあるだろうか?
ただ、大橋は、決して手を抜いた手術をしても関わり方一つで挽回できると言っているわけではない。患者とよい関係性を築くためには最低限よい手術をしなければならないからだ。よい手術が全てという関わり方だと満足してもらえないことも多く、それでは手術が上手くいったことにはならない、と大橋は言っているのである。大橋が若手を前にしてそう言ったとのことであるが、少々下手な手術をしても大丈夫だと捉えた若手がいなかったと信じたい。おそらく大橋は、もっとレベルの高い哲学、いや、審美手術なので美学について語っている。手術は患者に提供できる医療の最低限であり、最低限とわかっていながらその最低限に知恵と技術を駆使して最善を尽くすことが外科の美学、そう言いたいのだと思う。手術でその疾患でなかったことにできる外科医の手を本当の神の手と称するなら、人の手はすべてその遥かに下のところで似たり寄ったりの横一線なのだという意味もあるのだろう。
昨今の医療界の流行り言葉を借りれば、これはウェルビーイングの話ということになるのかもしれない。最新で最大限の治療介入だけが患者にハッピーをもたらすのではなく、患者を取り巻く全ての環境や大切に思う人の気持ちにまで配慮された最善の治療は必ずしも最新でも最大限でもないという考えである。まさに次男のウェルビーイングとは、島に生きること。島で育っていくことと切り離して考えることはできない。島の子供たちはみんな島が大好きだけれども、物心が付く頃には早くも周囲を見ながら、いつかそう遠くない将来ここが故郷として遠くで想う場所になる日が来ることを、それとなく自覚するようになっていく。次男も例外である筈がない。島で手術を受けることは、島ならではの唯一無二の今の暮らしを心に刻むことに他ならない。ましてや決定的に劣ることなど考えようがない不全唇裂の手術を島で父親にやってもらうことは、もっと肯定的に、もっと積極的に、彼のウェルビーイングなのだと、大橋は言おうとしているのかもしれない。気が付けば顕也は、そんな次々と新しく出て来るカタカナの医療用語を吸収するにも随分時間がかかってしまう年齢になっていた。
程なくして、針付き縫合糸と30ゲージの注射針が病院に届く。いよいよ約二十年ぶりの口唇形成術である。島での手術だからという言い訳は許されない。それは全身全霊を込めて最善を尽くす最低限の医療である。




