(五)
もちろん、その場ですぐに次男の手術を執刀することが決まったわけではない。三浦は、麻酔科医である以前に、立派に僻地医療を担う総合診療医としての感覚も持ち合わせていた。三浦が真っ先に懸念したのは、次男が平均的な医療を受けられるか、ということであった。どうやら、離島だからといって島民の受ける治療内容が平均を下回ってはならないというのが、三浦の外科系の医療に携わる医師としての信条のようであった。無理に島内で治療を完結しようとしてその質を落とせば、逆に交通網の発達した現代の患者は容易に島外に出て行ってしまう。平均点を取れないと判断すれば最初から島外に送る方がその判断も含めて島の病院の評価を下げない、ということらしい。その感覚は、次男の手術に対する三浦の助言にも現れていた。
「こういうのって、島に限らず、医療者側の人間がいざ患者の立場になった時は、みんなと同じように紹介された病院で淡々とふつうに治療を受けるのが一番やと思っとる医者や看護師が多いんやないですかね。それはそれである意味正解、悪くない思うんです。村沢先生も奥さんも、あんまり変わったことせんと、流れに棹さしてみんなと同じようにやるんが大事や思ってたりしませんか? だとしたら、東部病院で間違いないんです。それに、形成外科の手術がどんな感じかわからんのですけど、無難な結果を残すのは大事なことやと思うんです。気ぃ、悪うせんとってください。村沢先生が何とおっしゃろうと、客観的に見て平均点くらいは取らんと、本人にも申し訳ないですから。」
この歯に衣着せぬ助言は、厳しくも的確だった。一口に手術を受けたことがわからないようにはできないと言っても、その内容に差があることも事実だからである。
口唇形成術の切開のデザインや侵襲を加える組織の範囲などは、様々な施設で様々な方法が用いられている。顕也の知る限り、その部位にその傷痕を残すのは今ひとつかもと感じる術式も、残念ながらあった。ただ、一人の術者が術式を経年的に変えていくということはあっても、患者によって違う術式を何通りも使い分けているという術者はいない。これも症例集めの一環と言えるが、同じ施設の同じ術者が同じ術式の口唇形成術を積み重ねていくのが一般的である。だから顕也は、そんな数ある術式の中でも、実は横浜こども病院で習得した小三角弁法という術式しか知らない。それ以外の術式は手術そのものを実際に見たことがなく、学会や論文の写真で見たり、他の疾患で診察した患者にたまたま口唇裂の既往があればちらりと診たりすることで、その結果を垣間見るくらいであった。そんな自分が次男に適応する小三角弁法は、他の術者の他の術式と比べて劣ることはないのか、と三浦は言ってくれているのである。
実はそこは顕也にもまったくわからない。いや、もっと言うなら誰にもわからない。わからないから様々な術式が存在するのだと思っている。一つだけ確かなことがあるとすれば、やはりどんな術者がどんな術式で手術を行っても、口唇形成術を受けたことがわからない状態にすることは不可能だということだけなのである。顕也自身が自分の目で見てきた小三角弁法は、鼻の変形が軽微な不全唇裂には良い適応ではないかと思っている。鼻の変形が大きい完全裂ではその修正効果が不十分だと思えることもあったが、鼻の修正までしっかりやろうとする他の術式は、唇に変にジグザグする傷痕を残してしまうので、それはそれで目立ってしまう。少しの鼻の非対称が残ったとしても、ほとんど直線として残る小三角弁法の傷痕の方が受け入れやすいのでないかという印象を持っていた。しかも、小三角弁法は直線的なだけにシンプルで習得しやすく、ブランクの長い顕也にも再現しやすい。昔使っていたテキストを引っ張り出してちょっと理論を復習すれば、十分平均点は取ることができるであろう。決して大きくズッコケない自信はある。そればかりか、やり過ぎないのが吉とされる先天疾患の審美改善目的の初回手術としては、考えれば考えるほど、鼻の修正が不要な次男には小三角弁法がぴったりの術式のように思えてくる。
ただ、それらはあくまでも顕也の主観であった。沖縄の東部病院も鹿児島の大学病院も、それぞれ違う視点で違う術式のメリットを主張しているはずである。そうやって競い合って切磋琢磨して良い方法が淘汰されていくことで救われる患者が増えるという信念に、責められる点は何一つない。それが外科医というものである。そんな環境の中で口唇口蓋裂のハイボリュームセンターを牽引してきた東部病院の大橋が、用いる術式すら知らない自分に執刀を勧めるのであるから、話はいっそう複雑である。三浦の言う通り、症例集めの基準から大きくはみ出したケースを、大橋はうまくはぐらかして体よく断ろうとしたのであろうか?
その日、顔面皮膚悪性腫瘍切除の疲れも忘れて、早速夕食の時に沙菜に相談する。
「パパでいいじゃない。」
三浦という小児麻酔科医の存在に加えて、東部病院の大橋の助言も含めて初めて全てを正直に話すと、顕也の迷いなど関係ないとばかりに沙菜は笑いながら言った。まさに一刀両断である。
「大差ないってことね。検討の余地、ある? 旅費だってかからないし、私やお兄ちゃんお姉ちゃん、島の人たち、みんなそばにいてくれた方が、この人はいいに決まってるじゃない。」
沙菜が膝の上の次男を見る。母親の制止を掻い潜って食卓の上を物色する次男もまたニコニコと上機嫌である。
「それもそうだ。まあ、悪いことはないか・・・」
顕也が決断できずに語尾を濁す。すっかりその気の沙菜が、こちらを向いて次男にもお辞儀させる。
「パパがいいよねー。ほら、お願いしますって、あんたも言いな。」
実は、顕也が一番気にしていたのは三浦の助言通りだった。漠然と抱いていたみんなと同じような経過でなくなることに対する不安のようなものを、三浦が代弁してくれたと言ってもよい。それは、不安とも少し違う。罪悪感に近い。かつて自身が提供してきた医療を、自分たちは受けないという良心の呵責かもしれない。だから、決断とは、自分が手術を執刀するかどうかではなく、自身の葛藤を沙菜にどう切り出すかの見極めであった。隠さず伝えることは決めている。伝えなければならない。
「手術は問題ないと思う。自分が気になるのは、将来のことなんだ。こういうのって、流派とでも言うのかなあ。あの施設のあのやり方みたいなのがあって、それぞれに特徴がある。そうすると、あそこのあのやり方だとこういう問題が起こりやすいから、それを将来的に修正するのはこのやり方が良さそうだっていう一定の流れみたいなものが出てくる。そういう上手いやり方を探って次の患者さんたちにフィードバックしていくのが、症例をたくさん集める施設の役目なわけ。自分が単独で手術すると、みんなと同じようにその恩恵を受けられなくなる可能性が、あるのかもしれない。」
症例をたくさん集める施設と聞いて沙菜が顔を曇らせたことに、顕也が気付かなかったわけではない。
「決まったやり方に従ってやっても、そんな問題が起きるの? 自分だけのやり方じゃないんでしょ?」
「まあね。問題は起きないと思う。鼻を触らず唇だけしかやらない不全唇裂だと、まず考えにくいかな。」
「だったら何が問題?」
「うーん。こっちの問題はないんだけどね。」
「どっちの問題?」
言いにくいが伝えなければならなかった。自分が今この手術をできるのは、駆け出しの自分に協力してくれた患児とその家族がいたからだ。いざ患者家族になってこの大きな枠組から外れるのは、少し虫が良いと感じている。東部病院の大橋があんなふうに執刀を勧めてくれてはいても、駆け出しの形成外科医にとってはきっと貴重な一例である。
「口唇口蓋裂に限ったことじゃなく、難しい疾患はこの治療法だとこんな経過をたどるという記録を一例でも多くちゃんと残して、今後の患者さんに役立たせるのがいいとは思うんだ。症例をたくさん扱う施設にはそういう役割があるからね。そこに貢献しないことに対する後ろめたさみたいなものが・・・」
沙菜の顔が一気に曇る。顕也はその理由をわかっている。自ら選った大樹の影でひっそり散った小さな命を目の当たりにした沙菜に、そんな理屈が受け入れられるはずがないのである。それでも伝えなければならなかった。心ではもう決めているのに、沙菜の気持ちもわかっているのに、余計なことを言わなければよかったとは決して思わない。
「そこまで言われたら何も言えないけど・・・患者さん一人一人は自分たちが良くなればいいだけ。そんなことは、どうでもいいはず。でも、たぶんそれは、わがままなんだね・・・」
沙菜が、次男をギュッと抱きしめて悲しい表情で遠くを見つめた。その場の雰囲気を読めても何かと喋っていたい長女が、小声で長男に言う。
「ママ、おこってるね。」
何かと雰囲気の読めない長男でも少し分別はある。
「バーカ。だまってろ!」
長女が投げた紫芋のヘタが長男の頭に命中するのを見て、次女がケラケラ笑う。怒った長男に髪を引っ張られた長女が火が付いたように泣き出す。これでも取っ組み合いにならないだけ収拾がついている方だ。いちいち泣くなと長男に睨まれてどんどん大きくなる長女の泣き声に少しも動じることなく、沙菜と目が合った次男は意味なくバンザイして喜んでいる。燃え盛る泣き声に負けないように、顕也が声のトーンを上げた。
「ごめんね。どうしても知って欲しかった。手術できるからやりましたってんじゃなくて、色々迷いながらやるって決めたことをね。結果も大事だけど、過程が何より大事だと思ってる。この人たちのためにも、自分たちのためにも。患者さんたちが、それを自分に教えてくれた。こっちにおいで!」
顕也が両手を差し出して泣きじゃくる長女を呼び寄せると、次男の顔をじっと見ていた沙菜が顔を上げた。
「患者さんたち?」
「そう。患者さんたち。以前に手術を執刀したり主治医になったりした患者さんたちが、自分に教えてくれた。いい手術結果がすべてじゃない、ってことをね。患者さんだけじゃない。二匹の動物もいたな。」
顕也が、ヒクヒクと泣き続ける長女を膝の上に座らせて背中を摩る。正面に座る沙菜と次男が、二人同時に同じようなきょとんとした顔でこちらに注目する。
「二匹? 何それ。動物の手術もやってたの?」
「まさか。イルカとクマだよ。自分の人生を、大きく左右した二匹。キーホルダーのイルカとネックレスのクマ。頭がおかしいと言ってくれて結構。実は今でもこいつらが、『執刀しなくていいのか?』って、耳元で囁やき続けてる。だからどうしようもない。明日にでも東部病院は電話でキャンセルしようと思う。」
それは確かに頭がおかしいと沙菜がクスクス笑った。
「色々考えてくれてありがとう。ほんと不思議な人ね、あなたのパパは。」
前に差し出された沙菜の両手にわしっと掴まれた状態でそう話しかけられた次男もまた、宙に浮いた手足をバタつかせてなぜか大喜びしている。その隙を見て、次女がふざけて沙菜の膝の上に倒れ込む。ふてくされた長男は、少し離れて一人で黙々とふかし芋の皮を剥いている。
「おーい。そこのお兄さん。こっちで食べな。」
ママに呼ばれた長男は、目を合わせようともしない。ふくれっ面の小さな手が芋の皮を剥き続ける。そして、すぐに作業を終えてすくっと立ち上がった長男は、そっぽを向いたままもじもじとこちらにやって来て、きれいに剥かれた紫色のふかし芋を泣き止んだ長女にひょいっと差し出す。受け取った芋をちょっとびっくりしたような表情で見つめる長女に、家族全員が注目する。次の瞬間、長女はがぶりと芋にかじり付いて、沙菜と目を合わせてにんまりと笑った。泣き腫らして鼻水を垂らしながらもぐもぐと芋を頬張るその顔が、狂おしいほど愛おしく不細工で可笑しい。家族みんなでお腹を抱えて大笑いする。
胸が締め付けられるくらい素晴らしい家族だった。きっとそれは、いつの時代にもどこにでもあり続けてきたはずの日常である。それこそは沙菜が望むすべてに違いない。沙菜だけではない。哀しくもいつかそれが突然失われる日があり得ることを、自分も知っている。だからこそ、今この時を少しでも長く濃く共有して心に刻んでおいてほしい気持ちは同じだ。三人の兄姉たちに限らず、やがては島の家族の元を離れてゆくであろう次男にも、ちょっと唇に怪我をして父に縫ってもらったくらいの感覚で島の暮らしを駆け抜けてくれれば何よりだと思う。沙菜の言う通り、何を優先するかを考えれば検討の余地はなかった。




