(四)
与論に戻ると、沙菜には大橋の助言には触れずに年明けの二月に手術が決まったとだけ伝えた。具体的な日時を聞いた沙菜は、カレンダーを見ながらもっとゆっくりでもいいのにと笑っていたが、手術のタイミングが遅くなっていることに対する葛藤もあるようだった。思ったより早く問題なく手術を受けられそうな次男の健康状態にまずは感謝すべきよね、そうも付け加えて、顕也たち三人の小旅行の労をねぎらった。とにかく次男がふつうに手術を受けてふつうに生きていってくれることが、沙菜の唯一何よりの希望だった。沙菜がきれいな手術結果に対する拘りを見せることは一切なかった。沙菜の半生を考えれば、それは当然かもしれない。
顕也の心境が少し変わったのは、勤務する病院で顔馴染みになった麻酔科の三浦先生に相談してからだった。三浦は、普段は奄美本島の病院の常勤の麻酔科医で、この病院の主に一般外科などで全身麻酔が必要な手術があると度々与論に駆け付けてくれる非常勤の麻酔科医だった。与論では、機動力のある若い世代の島民がそこそこの手術を受けなければならない病状に直面すれば、そのほとんどが沖縄本島の病院を選択するのが実情である。ただ、施設に入所していたりスーパーに買い物に行くのがやっとだったりという高齢者ではそうもいかない。この病院の一般外科では、そんな島外の病院に行くことが困難な患者に対する全身麻酔下の手術を、日常的に行っていた。そして、形成外科でも、年に五件くらいのペースで同じような患者の全身麻酔下の手術を細々と行っていたのである。その日も、三浦に全身麻酔をお願いした高齢者の顔面皮膚悪性腫瘍の切除術を執刀しながら、何気なく次男の口唇裂の相談をしてみた。
「いやあ、村沢先生、そいつはなかなか上手くはぐらかされましたねえ。」
大橋の助言も含めて軽く話すと、三浦は妙に納得しながらちょっと得意気に答えた。
「いかにもハイボリュームセンターですなあ。わしの長男も、カミさんの実家がある福岡の子供医療センターで鼠径ヘルニアの手術を受けようとしたら、そんな感じだったんですわ。」
三浦は、奄美沖縄地方の出身ではないらしいが、焼酎を一升瓶で直飲みしそうな人間味溢れる外見は、奄美人そのものだった。顕也よりも少し若い四十そこそこで立派に酒焼けの似合う風貌に、一人称が「わし」である。三浦が長男の鼠径ヘルニアにどう対応したのか気になった顕也が一瞬縫合中の手を止めて目を逸らすと、麻酔器の横で覆布の上から術野を観察する小柄な三浦と目が合った。術野と麻酔器のモニターを交互に見ながら三浦が続ける。
「東部病院、若手の執刀だって言ってくれるんが、ええじゃないですか。大したもんです。」
「ですよね。任せることにしました。来年二月に手術です。」
「ほう、さすが早いですなあ。うちは、カミさんが執刀医のことで受け答えがしどろもどろになる若い先生が気に食わんとか言うて、一悶着あったんですわ。症例数が多い施設はどこもそんなもんだっつっても、納得してくれんかったです。」
「一悶着?」
穏やかではなさそうな話に、完全に顕也の持針器を持つ手が止まった。三浦が笑って縫合の続行を促す。
「ワッハッハ。手、動かしながら聞き流して下さい。つまらん話ですから。」
「すみません。」
「いえいえ。急かしてません。ゆっくり丁寧にやってあげてくださいね。そうそう、それでうちの長男、結局手術しなかったですよ。」
「しなかった?」
顕也は少し驚いた。自分たちと同じような話だったからだ。
「いや、やったんです。でも福岡ではやらんかった。聞くだけで面倒臭い話でしょ。」
「いえ、興味深い話です。どこで手術を?」
「そりゃもちろん、奄美で。」
「奄美? 自分の病院で?」
「そう。わしが麻酔かけて。」
顕也はかなり驚いた。他にいくらでも病院があるのに、どういう経緯で父親が麻酔をかけることになったのか気になった。込み入った話に違いないが、残すは表層の縫合だけになった手術操作に差し迫る判断や集中力は要らない。リラックスしてひたすらきれいに縫うだけである。頭を整理して、手を動かしながら、落ち着いて三浦に聞き返す。
「奄美の病院って、ふつうに小児の全麻手術をやってるんですか?」
「ええ、まあやっとります。数は少ないですけど。わしが赴任して以降は、それなりに受け入れとるんです。わしゃ、こう見えても一応小児麻酔が専門なもんで。」
「外科の先生はどうされたんですか? まさか奄美に小児外科医なんていないですよね。」
小児外科医というのは、小児の一般外科医である。主に消化器の先天疾患を扱うのであるが、さすがに非常勤でも奄美の病院に出入りしているとは思えない。その執刀医の話になると、三浦は待ってましたとばかりに答えた。
「それがわれわれ麻酔科医の強みですわ。外科医の知り合いが、山ほどおりますんで。相談できる小児外科医も実はいっぱいおるんです。変な話、よりどりみどりですわ。しかもこの手の出張手術、頼むとみんな結構喜んで来てくれるんです。わしみたいに奄美から与論じゃあ大して息抜きにもならんのですけど、内地から奄美に来てくれって言われたら、素敵なスポットのバイトなんでしょうなあ。わしの長男の場合は、来てもらった先生がたまたま奄美の外科の常勤の先生と以前同じ医局にいたことがあったりして、カミさんと長男には申し訳ないけど、手術当日の夜の飲み会は院長まで出動して、それは大盛り上がりやったです。その先生、今でも時々奄美に手伝いに来てくれるですよ。」
日常的に非常勤の応援を必要不可欠とする僻地の病院で働いていれば、そんな人の繋がりが何より嬉しいものだということを、顕也も何となくわかっていた。あいにく今の自分にはそんな知り合いは一人もいないが、科を問わず島外の医師をリクルートできる人脈作りは離島診療には欠かせない能力の一つであることに感付いてはいる。外科系の自分は麻酔科医との連携が欠かせないので、積極的にコミュニケーションを取ろうと顔馴染みになっていたのがまさに三浦であった。その三浦が、突然何かを思い出したように、淡々と縫合を続ける顕也に質問した。
「ところで東部病院って、口唇口蓋裂の手術をやっとるのは形成外科ですよね。村沢先生って・・・口唇口蓋裂の手術はされんのですか?」
さすが小児麻酔が専門の麻酔科医だった。口唇口蓋裂は口腔外科で扱う施設も多く、形成外科が扱う疾患とは考えない医師が大勢いるのが実情である。おそらく三浦は、形成外科医が行う口唇口蓋裂の手術の麻酔を担当したことのある麻酔科医の一人なのであろう。顕也が正直に答える。
「やってました。ずーっと昔に。」
「ほう、そいつは面白い。息子さんって、口蓋裂はなくて口唇裂だけの元気な坊主なんでしょ? いけねぇ、坊主なんつったら失礼だ。すみません。」
「いえいえ、見てもらったらわかるんですが、ただの元気坊主ですよ。四人目ってことを差し引いても、一番手のかからない元気いっぱいのクソヤンチャ坊主予備群ですよ。」
「ワッハッハ。それは何より。だったら先生、やりましょ、ここで。わしが麻酔かけますよ。東部病院も悪くないけど、若い先生の練習台になるよりパパにやってもらった方が、そりゃあ本人はハッピーですよ。いくらブランクが長いっつってもやり初めて間もない若い先生より、何例も経験のある村沢先生がやった方がきれいになるん違いますか? それにね、先生やから好き勝手言わせてもらうんですけど、わし、福岡の子供医療センターが気に食わんかったカミさんの気持ちも、ちょっとわかるんです。外科の先生方が症例を集めて立派な論文書きたいってのも、まあわからんでもない。でもね、疾患とか年齢とか合併症とか、集める基準から外れたケースやとあからさまに若い先生に丸投げして良きに計らえってのも、ちょっとどうかなって思ったりしたですよ。疾患的には当たり前ですけどね。ヘルニアなんか集めてる施設、ふつうはないですから。」
疾患、年齢、合併症、そう聞いて、顕也は複雑な気持ちになった。裂型が様々ある口唇口蓋裂は、口唇裂と口蓋裂が途切れずに連続して揃う完全裂の発生頻度が最も高く、症例集めの対象として主軸になることが多い。一方で、口唇裂と口蓋裂の両方を伴っていても僅かでも組織の連続を保つケースは不全裂として対象外の扱いになることが多く、口唇裂あるいは口蓋裂しかないケースも同様である。手術年齢にも線引きがあり、理由に関わらず大きく外れて超えれば除外される。合併症についても、あるだけで除外されることが多い。合併症があるとリスクのために手術時期を遅くせざるをえないので、規定の年齢を超えて手術になることがほとんどだからだ。東部病院のような口唇口蓋裂のハイボリュームセンターにそんな症例集めがないはずはなく、次男は裂型でも月齢でも明らかにその枠組みから大きくはみ出している。三浦の言葉を聞きながらそんなことを考えていたら、ちょうど縫合が終わった。縫合を終えた創部全体をもう一度よく見る。ここでこんなふうに次男の口唇裂の手術? 技術的にできなくはないが考えたこともなかった。
「確かに、どこの外科もそんなとこありますよね。すごくわかります。あっ、終刀になります。ゲンタシン軟膏と新しいガーゼを下さい。」
手術がフラットではない局面に達したこともあり、顕也は次男の執刀については何も答えられなかった。三浦は返答に困る顕也を見て、言い過ぎたと感じたのかもしれない。患者と顕也を交互に見ながら、三浦が落ち着いて話し続けた。
「わかりました。終刀ですね。もうほとんど醒めてて自発呼吸出てますんで、バッキングしたらすみません。やっぱ、麻酔と違って、手術は自分の家族が相手だとやりにくいですよね・・・すみません。変なプレッシャーかけよったですかね?」
三浦は、経験豊富な、まさに脂の乗った麻酔科医だった。複雑なシステムに頼らず必要最小限の機器と薬剤しか用いない一方で、手術内容に微妙にアジャストしてくる麻酔はいつも安定しており、むしろ洗練されていると感じていた。次男の手術のタイミングが遅くなっているのは、沙菜がまさにその全身麻酔を不安に感じたからであって、手術の内容にはまるで興味を示していない。三浦なら間違いはないと思う。無意識的な肩肘張らない自信が、必然的に仲間内の息子の全身麻酔をかけると言わせているに違いない。縫合創に軟膏を塗りながら、顕也も落ち着いて返答する。
「ありがとうございます、三浦先生。手術のプレッシャーはないんです。誰がやっても口唇裂の手術を受けたという仕上がりになるのは間違いない手術ですから。」
顕也の頭に、はにかむ彩乃の笑顔が浮かんだ。麻酔器のモニターを見ていた三浦が、顕也の方に向き直る。
「おっ、さすが年季入った形成の先生は、言うことが違いますなあ。」
そんなやり取りをしながら創部に当てたガーゼをテープで固定し終えると同時に、患者が目を開けてバッキングし始める。麻酔時間を極力短くすることに徹した完璧な麻酔だった。ただ、いくら手慣れているとは言っても、飛行機に例えれば着陸直前の操縦桿を握る麻酔科医と話を続けるわけにいかない。
「次男の麻酔、お願いするかもです・・・」
抜管の準備に入った三浦が、忙しく業務優先の目配せをする。
「オッケーです。後でまた! みやさとさーん、手術終わりましたよー。」
次男の口唇裂をここで顕也自身が執刀することが、現実味を帯びた瞬間だった。




