(三)
沙菜に抱っこされて与論に帰って来た次男は、三人の子供たちよりもくっきり大きな目と長い睫毛か印象的な愛くるしい赤ちゃんだった。この地方の子として違和感はないのであろうが、両親にはない要素だった。運命の巡り合わせと言えば大袈裟であるが、その特徴はまさに美人症候群を彷彿とさせた。
現実問題として、長い睫毛と口唇口蓋裂を合併する稀な症候群も存在するらしいので、勤務する病院に週に二、三回やって来る非常勤の小児科医の中でも少し先天異常に詳しい先生に相談しながら経過を診たが、どうやら次男は何の症候群でもなさそうだった。ただ口唇裂がある、それだけだった。
口唇口蓋裂の患児は上手く哺乳できないので、弱い吸啜でも吸い出すことのできる口蓋裂専用の哺乳瓶を使うが、口唇裂だけの次男はそれも不要だった。裂を塞ぐように肌色のサージカルテープを唇に貼っておくと、少しミルクが溢れにくくなる上に上手く裂が隠せるのでちょっと良さそうに思ったが、時々皮膚がかぶれてしまうので面倒臭くなってすぐに止めてしまった。そうなると特別にやることは何もない。ただどこでいつ手術が良いのか思案する、それだけだった。
上の子たちの反応もあっさりしていた。長男は、本島から帰って来た直後にお口が変だと一回言ったきりだった。長女は、時々唇を捲り上げて不思議そうに観察していたが、すぐに飽きてやらなくなった。問題の保育園でも同じような状況で、たまに初めて会う子が最初はジロジロ見て変だと言うだけで、すぐに興味をなくした。両親の予想を大きく覆して、保育士さんが失笑するほど何の問題もなかった。沙菜の予想どおり、メンバーの入れ代わりが少ないことも幸いしたのであろう。
(俺はこうだ、だから何だ)
生後六カ月の次男は、早くもそんなアイデンティティとも言うべき風格を自然と身に纏うようになっていた。
手術をどうするかについては、その頃初めて本島の県立東部病院形成外科を受診した。沙菜としては、自分ばかり何度も与論から離れて気分転換を繰り返して申し訳ないとでも思ったのかもしれない。
「たまにはパパもゆっくり海でも眺めてきて。」
沙菜にそう勧められたこともあって、顕也は、長男を引き連れて三人で本島に小旅行に出かけた。長女が誕生した時に本島に行ったきり、もう四年近く本島に行っていない顕也にとって、確かにそれは必要な息抜きだったかもしれない。しかし、顕也は、次男の口唇裂のことで病院を受診するなら、今となっては初診時だけでも必ず自分が出向くべきだと心に決めていた。受診した病院で、かなり特殊な選択をしている形成外科医の父親への非難があったとして、それを沙菜が受け止めるのは筋が違うと感じていたのである。そんな疑心暗鬼にも似た密かな警戒心を抱いて東部病院を初めて訪れた顕也に対して、形成外科の部長の大橋先生はまったく予想外の反応を示した。白髪混じりの大橋は、大学なら教授という感じの年格好で、気さくで正直で必要以上に融通の利く好人物だった。
「村沢先生、経験あるくらいなら、ぜひ自分でやってあげたらいいよ。ご両親の言うとおり、ここまで大きくなって合併症もない小児の麻酔なんて、わざわざここまで来るほどのことじゃない。」
「じっ、自分がですか⁈」
顕也は面食らった。驚く顕也をそっちのけで、看護師さんと新幹線の玩具で遊び始めた長男に、大橋が新幹線に乗ったことがあると自慢話をし始める。
「二人とも、こんどパパが連れてってくれるって。新幹線はモノレールとはぜーんぜんちがうぞー。はやくてカッコいいぞー。」
返事に困る顕也とどこまでも陽気な大橋の顔を交互に見ていた看護師が、自由に自分の考えを言う。
「でも大橋先生。ほら、麻酔が心配っておっしゃってるんですから。与論じゃ同じような手術はないでしょうし。」
「それもそうだな。ならここでやりますか。いつがいい?」
いくら顕也が同じ形成外科医だとしても、あまりにも軽い調子だった。この軽さが心配になる親もいるのではないかと思う。ただ、顕也自身は悪い気はしてしない。あまりにも何も隠さない大橋の診療哲学が滲み出ていて、興味が湧くくらいである。
「いつって、いつでもいいんですか?」
「いつでもいいよ。あっ、今日は駄目だよ。」
すかさず看護師が笑って突っ込む。
「当たり前です。何言ってるんですかねー。聞き流して下さいね。」
東部病院形成外科は、大らかな雰囲気だった。次男の手術のタイミングがスタンダードから大きく外れていることなど、話題にも挙がらない。それとも、時間の流れがゆったりしている沖縄のことである。全身麻酔への不安とも無関係に、見た目の問題だけだという説明を受けた家族がゆっくりの手術で構わないというケースは、案外珍しくはないのだろうか。いずれにしてもここで手術で良さそうである。
「いつなら空いてますか?」
真面目に尋ねる顕也に、大橋も初めて真面目に答える。
「三か月先以降ならいつでも空いてるよ。最短だと年明け二月くらいかな。」
「じゃあ、そこでお願いしたいです。」
「オッケー。じゃあ平良先生呼んであげて。今から平良先生に手術枠を押さえたり入院予約したりして、段取りしてもらうね。先生が以前いた横浜こども病院とあんまり違わないと思うからあんまり心配ないだろうけど、何か聞いておくことありますか?」
「ありがとうございます。それじゃひとつ。執刀は大橋先生ですか?」
咄嗟にそう質問して、顕也は馬鹿なことを聞いてしまったと思った。というより、自身が患者から一番聞かれてきた質問を、条件反射のように自分も繰り返してしまったのである。三十年以上口唇口蓋裂の治療に携わってきた大橋が自分のような美容外科崩れの若造と対等に接してくれることにも少々気が引けるので、患者側になり切るという意味では多少レベルの低い質問が必要と感じたこともあったかもしれない。それにしては馬鹿が過ぎた。
「執刀? ガッハッハッハ。それも同じだよ。」
「同じ・・・と言いますと?」
同じと言われても顕也にはピンと来ない。首を傾げる顕也に、大橋がにっこりと笑い返す。大橋は本当に裏表がなかった。同じ医師からそう質問されたら常識的には答えは勿論しかないのに、大橋は違った。
「形成外科の先生だからって話を端折って申し訳ない。他の患者さんたちと同じ説明を付け加えると、たぶん僕は多くても半分くらいしか執刀しない。いや、問題なさそうなら、ほとんどすべて下の先生が執刀することになると思う。」
大橋はきっぱりそう言った。どこの外科でも上級医が執刀は自分だと言っておいて手術の大半をこっそり若手にやってもらうことが慣例的に行われているが、それでは患者はいい気はしない、若手がいきなり複雑な症例を執刀できないので軽症例で経験を積んでもらう必要がある、聞かれればそう家族に説明しているというのである。確かに、自分が横浜こども病院で執刀した不全唇裂や軟口蓋裂といった十数例ほどの軽症例は、部長が執刀するかのような雰囲気のまま、若手の自分が執刀させもらっていた。術後の話も部長にやってもらうことがほとんどで、たまに術後に親から誰が執刀したか尋ねられたら、自分と部長が二人で執刀したと答えていた。ほとんどすべて自分が執刀したとしても、そう答えておけばいいとも言われていた。もう二十年近く前のことである。大橋が続ける。
「でもね、トレーニングだけじゃなくて、先天疾患ほど、若い先生が執刀するメリットが患者さん側にあると、僕は思ってるんです。先天疾患は最低二十年くらいの経過観察が必要だから、一人の医者がずっと診ていくなんてことは、できたとしても質も量もたかが知れてる。具体的に言えば、残念ながら、六十過ぎの私が、二十才になったこの子が希望するかもしれない修正術を担当できるはずがない。僕はもうこの世にいないか、いたとしても八十過ぎの爺さんの手術を受けたい患者なんていませんよ・・・これはね、リレーなんです。家族といっしょ。親から子、子から孫にバトンを渡していく。医療者側もそうしないと、とてもじゃないが診きれない。僕はそんなふうに思ってて、逆に重症例でも僕一人で執刀することはない。それが十年、二十年したら患者本人にとってプラスにならないはずがないですよ。ああ、あの時自分が関係した、担当した、執刀した患者さんだと思えば、過去の手術内容をちゃんと理解しているだけでなくて、意気込みが全然違いますから。志の高い若い先生に執刀してもらうことは、患者さん本人にとっては保険みたいなもんです。」
説得力があった。きっと、患者の家族は、大橋の下なら若手が執刀しても大橋が執刀するのと変わりない結果が得られると思うに違いない。それどころか、妥協を許さず手を抜くことを知らない若者特有のエネルギーを巧みに利用して結果に繋げる強かな気迫すら感じる。思い返せば、駆け出しの自分が執刀した患児たちは今どうしているのか誰一人知らない。普通に考えれば、大橋の示唆どおり、そのうち何人かは誰にも方向性を示してもらえず、今頃得体の知れない美容外科で無差別に修正術を受けていたりするのであろう。あの頃、少しは向上心を持って口唇口蓋裂を執刀していた自分ですらこの通りだった。十年以上経過観察できた患者はたった一人。その彩乃も最初の口唇形成術も二回目の顎裂部骨移植術も自分が担当したわけではない。結局、自分は最後までいっしょに迷うことぐらいしかできなかった。これが現実である。それにも関わらず、大橋は、どこまでも青臭く高尚な理想論を貫き通そうとしていた。大きく見れば、この分野に興味を持つ若手が少なくなれば、患者に将来真っ当な手術を受けられなくなるリスクを負わせてしまうと言っているのである。間違いなく、次男の執刀が若手に託されることに不安を覚える権利など、自分にはなかった。
「もちろんそれでかまいません。」
顕也がそう言うと、どこからともなく若手の平良先生がやって来て、看護師と長男たちの輪に加わる。大橋はその平良に待ったをかけた。
「呼んでおいて申し訳ない。まだここで手術を受けると決まったわけじゃない。」
そんなことはなかった。ここでよいと決めていた顕也は、もう一度意思を伝える。
「いえ、大橋先生。ぜひここで手術を受けさせたいです。」
「本当? じゃあ話を進めるけど、まずはここの手術枠だけ押さえといて、パパの執刀も選択肢に入れてよく考えるといいですよ。私は、形成外科医のパパにやってもらうオリジナリティーを優先してあげた方が、この子にはプラスじゃないかな、って思ったりもする。せっかく唇裂を持って生まれてきたことを活かせる? そこまで言うと語弊があるかな? 私だったら自分でやるかなあ。経験あるんだもん。やったことなければ仕方ないけど。まあ、よく考えて。ここは美容外科じゃないからキャンセルは手術当日でも無料、電話一本で大丈夫です。」
大橋は本気で言っていた。重みのある言葉だった。二十年後の次男のどんな姿を思い描いて父親の執刀を勧めているのか、顕也には想像すらできない。だからこそ、やはり平良のような若手に任せるべきだとも思う。
平良もまた、非常に優秀そうな好青年だった。この年代の部下として、大橋が全幅の信頼を寄せる若手であるに違いない。大橋が何と言おうと、ここで手術を受ける以外の選択肢はないように思えた。




