(二)
新築の家で子供たちともずく素麺を食べている時に、沙菜からのその電話はあった。沙菜は四人目の子になる次男の出産のために三週間前から本島のホテルにいて、昨日そろそろかもしれないと連絡があったばかりだった。長男が電話に出る。
「ママー、そうめんおいしいよー。」
「あんたたち、またもずくそうめん? ちゃんとパパのお手伝いしてる? それより、あんたの弟君が生まれたよ。ママ頑張ったよー。パパに代わってくれる?」
「やったーやったー! パパー、おとうと、うまれたってー。」
四人目ともなると沙菜も慣れたものだった。出産を終えた直後とは思えないくらい元気な電話の声にひとまず安心する。
「お疲れ様。いつも沙菜にばっかり頑張ってもらって、ほんとにありがとう。こっちもみんな元気にやってるよー。」
取り分けて短く切った素麺を匙に掬ってまだ一人で上手く食べられない次女に与えながら、顕也が電話口に出る。すると、沙菜はちょっと困ったように話した。
「顕さん、それがねー。本人はいたって元気なんだけど・・・」
話し方で沙菜がちょっと動揺しているのがわかった。あまりないことなので、顕也が匙を置いてテーブルを離れる。
「どうかしたの? 二人とも元気なんでしょ?」
子供たちに注意しながら縁側に出た顕也は、念のため二人の安否を尋ねる。あまり心配はしていない。自分の真似をして次女の小さな口に匙を運ぼうとしてくれる長男の素行の方が心配である。庭木の下に揺れるテッポウユリの向こうに、低気圧の接近でいつもより少し白波の立つ海が見えた。
「うん。元気は元気。でもね、これって顕さんの専門分野だと思うんだけど、口唇裂っていうの? 確か、顕さん、前に研究してたやつじゃなかったっけ?」
「こっ、口唇裂⁈」
「唇のところが少し割れてて・・・」
まさかだった。頭の中が真っ白になるとはこのことだった。驚きのあまり、電話の向こうで話す沙菜の声が頭に入って来ない。自分の子が口唇裂・・・まったく考えもしなかった。患者だけではなく、あんなに身近に接してきた疾患なのに、いざ自分の子が口唇裂だとなるとこんなにも受け止め方が違うものなのかと、自身の身勝手さに新鮮さすら感じる。大凡どんな治療経過を辿ってどんなふうに成長していくのか、まさに身をもって知っているはずの自分がこのとおりである。何の情報もないまま聞いたこともないような疾患名だけ告げられて患児と対面する家族は、一体どれだけ不安を感じるのだろうか? 口蓋裂は伴っていないのだろうか? 他の先天疾患を合併していないのだろうか?
「顕さん、顕さぁーん。聞いてる?」
「あっ、ああ。聞いてる。そ、それは確かに、形成外科の専門分野だ。」
「でしょう! だと思って、私、助産師さんに主人が形成外科医だって言ったら、それはここにいる誰よりもパパの方が詳しいよ、だって。さすがね、見直したわ。手術したらきれいになるんでしょ?」
もっと重症度の高い先天疾患で実子を亡くした経験のある沙菜にとって、気管挿管もされずに自分のすぐ横のコットの上で元気に泣いている児の口唇裂など、たぶん吹けば飛ぶような先天疾患なのであろう。聞けば口蓋裂はなく鼻の対称性も良くて、歯茎の裂、つまり顎裂を合併しない片側不全唇裂であった。横浜こども病院で始めて彩乃と会ったのは、彼女の顎裂部骨移植術の時だったことを思い出す。裂がどの部位にあるかで様々な裂型がある口唇口蓋裂という疾患の中でもっとも軽症の裂型と言える片側不全唇裂は、その顎裂部骨移植術が要らない。上手くやれば、生後三カ月で唇の裂を切って縫い合わせる手術が、生涯一度きりの手術になる。とは言え、その一度きりの手術が肝心で、決してハードルは低くない。世界中どこの治療施設でも、上級医が徹底的に切開線のデザインに拘って自ら執刀するか、いつかの顕也がそうであったように、上級医の厳重な指導の下で寸分違わずその手法を模倣する形で、一部の志が高いと評価された駆け出しの外科医だけに執刀のチャンスが与えられるのである。そんな事情を沙菜が知るはずもない。
「ねえ、聞いてるの? 同じような患者さんは、本島の県立なんとか病院で口唇裂の手術をたくさんやってるから、そこに紹介してるんだって。退院したらとりあえずそこに話だけ聞きに行ってもらうことが多いらしいの。でも、ウチはパパのつてとかもあるんじゃないかって。鹿児島の大学病院でもやってるみたいだし。」
顕也は迷っていた。このままその本島の県立何とか病院に行ってもらうか、どこの治療施設も受診せずに一先ず与論に戻って来てもらうか、である。父親が形成外科医であることを伏せて素知らぬ顔で大勢の患児と同じ流れで同じ治療を受けてもらえば、沙菜にはまた少し負担をかけるが、本人と家族全員の労力はもっとも少なく済むであろう。同一疾患患者を大勢扱ういわゆるハイボリュームセンターは、ある程度安定した結果が得られるということが最大のメリットではある。一方、経験的に、母親の思い、沙菜がどうしたいかはとても重要である。同じようなハイボリュームセンターとして、鹿児島の大学病院と両方受診して良さそうな方を選びたいと言うならそれもいいだろう。そんなことは言わないと思うが、インターネットで探し当てた拘りの手術を行う東京の治療施設で手術を受けさせたいと言えば、旅費や紹介状くらいはいくらでも用意できる。
「沙菜はどうしたい?」
顕也が率直に聞く。顕也が思うよりもずっと楽観的な沙菜が、似非沖縄弁で笑いながら答える。
「フフフ。そんなぬわからんさぁ。だってよくわからんから顕さんに聞いてるんやさー。」
沙菜にはそんなところがあった。電話越しに、顕也が迷っていることを透かさず見抜いて戯けているのである。沙菜は何かにつけて驚くほど雰囲気を読めた。与論に来たのも、家を建てたのも、四人の子も、実は顕也の思いを見抜いて沙菜が付き合ってくれているのではないかと思う節もあるくらいだった。だから、沙菜にどうしたいのかと尋ねることは、自分が今から話すことが間違っていないか確認してほしいという意味に近かった。沙菜に確認というのは他でもない。五年もいっしょに暮せば明らかであったが、沙菜という人物を引き立たせる彼女の一番の特徴はその並外れた頭の良さにあった。
沙菜はおそらく類い稀な明晰な頭脳の持ち主だった。一切メモせずに家族全員の行事やイベントを過去から未来まで事細かく把握していたり、患者との会話で耳にする機会が多い顕也よりも圧倒的に早く沖縄弁を聞き取れるようになったり、凄まじい情報処理能力を隠し切れずに度々顕也を驚かせていた。数字にも滅法強く、スーパーでの買い出しに付き合う時には三十品ほどの商品を計算どころか値札を見ないでカゴに入れているのかと思いきや、消費税を含めた支払い額をピタリと言い当てることが何度かあった。本人も自分が他と違うことに気付いているのか、その能力をあまり人前で発揮したくはないようで、たまにコンピュータのようだとからかう度に、使い方が大事とだけ言って笑った。いつか、小中学校のテストは満点以外採ったことがないと冗談っぽく自慢していたが、満更嘘でもないと今では思う。その思考力を出し惜しみする一方で、自己主張を我慢している様子は微塵も感じさせない。それでいて沙菜に言い包められたと感じたことは一度もない。そこが沙菜の凄さでもあった。
「ひとつ聞いていい?」
「ん、何?」
「これってすぐ手術しなきゃいけないの?」
「んっ、どういうこと?」
「こんな小さな子が見た目なんか気にするはずないじゃない。何で生後三カ月とかで手術なの?」
「・・・」
「小さな子の全身麻酔は危ないって聞いたことあるんだけど、見た目だけの問題だったら、もうちょっと大きくなってからやった方がいいと私は思う。これを三カ月で手術するのって、何だか親のエゴなんじゃないかって。親のエゴのためにちっちゃな子を危ない目に合わせてるんじゃないかなあ、って思っちゃう。」
この判断力に、顕也は戦慄すら覚えた。昨日まで口唇口蓋裂の治療のことなどよく知らずに、自ら産んだ子に口唇裂があることがわかってせいぜい一日しか経っていないのである。たった今沙菜が口にした思いは、顕也が横浜こども病院で働いて半年ほどしてようやく感じ始めた率直な疑問であった。もっと言うなら、生後三カ月の乳児に対して百パーセント見た目の改善だけを目的に全身麻酔手術を行うことに対する異議は、この疾患に長く関わっている医療者全員が、思っていても決して声高に言うことはできない、言ってはならない不文律であった。それくらい、口唇裂の手術を生後三カ月で行うことは、世界標準の当たり前の医療であった。そんな事情こそ沙菜が知るはずもないのである。
「そんなこと言う親はかなり少数派だけど、確かにそれは正論だと思う。インターネットで調べたの? それとも、スタッフの誰かに入れ知恵された?」
「いいえ、何も。」
一体どんな頭の構造をしているのか、興味だけで顕也が聞く。
「ふーん。何でそう思ったの?」
「何でって、全身麻酔って、なんか心配じゃない? こんな口唇裂の手術くらいで大出血して死んじゃうなんてことはないと思うけど、全身麻酔ってちょっと量を間違えれば死んじゃうような薬、たくさん使うんでしょ? 小さい方が難しいに決まってるじゃない。この世に出て来て間もない、体の他の所に異常があってもまだ気付いてもらえないような赤ん坊なのよ。ちょっと大きくなってくれたら、ちゃんと大きくなってるってこと自体が手術に耐えられる丈夫な子だってことなんじゃなくて? だいたいさあ、顕微鏡とか使ってやるんだか何だか知らないけど、手術だってこんな小さな口よりも大きな口の方がやりやすいんじゃないの?」
その場の思い付きで話しているような軽い口調とは対照的に、驚くべきことにその内容は顕也の知る限り医学的にすべて正しかった。出来過ぎたロボットのような沙菜の思考回路に、顕也はお手上げだとばかりに笑い出す。
「ハハハ。参った。参りました。降参しまーす。」
さらに、沙菜が優れているのはその思考回路だけではなかった。以前精神科医に指摘されていた、逞しい想像力に後押しされる他者への感情移入が、良くも悪くも人並み外れているのである。沙菜はもう顕也の思いを見抜いていた。
「逆に私のわがままだったら許して欲しいんだけど、私がこの子だったら・・・もし自分で話すことができたら・・・『手術はゆっくりでいいよ。』って言っちゃうかなぁ。手術怖いし、見た目だけなんだったらなおさら。というわけでまっすぐ帰りまーす。」
沙菜の主張には、異論どころか見事としか言い返しようがなかった。生後三カ月の手術を希望しない親など現実にはほとんどいないのであるが、沙菜のこの意見に強く反論できる医療者こそさらにほとんどいないであろう。もし弱く反論できるとすれば一つだけ。児の見た目が正常ではないことによって、精神的に不安定になってしまう親の育児が上手くいかなかったり、人目を気にして外に連れ出してもらえなかったりすれば、児の精神発達に影響を及ぼすというもっともらしい理由を聞いたことはあった。ただそれは、もっと重篤な顔面先天異常を合併した幼い実子に寄り添って最期を看取った経験のある沙菜には、ほぼ意味を持たない理由であろう。重篤な患者には施す術がなくて、軽症の患者にはされど見た目と過剰な理由を取って付けて幾分早めの手術を施す医療に、沙菜ほどの人がその微妙な御都合主義を見抜けないはずがない。だから顕也は、少しでも情報が欲しいに違いない母親に、あくまでも中立的な立場で一般論としてそれを伝えた。
「わかった。とりあえず寄り道しないでそのまま帰って来て。手術はゆっくり考えよう。ただね、一般的な話をしておくと、見た目を気にする親が外に連れ出さずに公園デビューが遅れたりすると、その子の精神発達に影響するかもしれなくて、早めの手術はそんな思惑もあるらしいよ。」
「冗談言ってる? 本島ならともかく、与論のどこに気になる人目があるの? 一般論は一般論、与論は与論。駄目かしら?」
「そりゃあ確かにそうだ・・・んっ! ありゃりゃ、大変。素麺が・・・」
子供たちに目を遣ると、長女がテーブルの上に素麺をぶち撒けている。見つかると怒られると思ったのか、長男が掃除機のようにテーブルの上の素麺を直接口に吸い込もうとしている。まだまだ自らスプーンを使って食事するのがもどかしいに違いない次女が、なぜかそれを見て大喜びしている。顕也が駆け寄りながら叫ぶ。
「コラーッ! そんなん食ったらお腹壊すぞー。」
気配を察した沙菜も電話の向こうで笑っている。
「ハハハ。ごめんね。また電話する。パパ、がんばってねー。」
ソファーの上にひょいと電話を投げると、顕也は子供たちの前に座ってぶち撒けられたもずく素麺はそのままに、改めて三人の顔を見た。この賑やかさにすぐにもう一人加わる。しかもそいつには口唇裂がある。自分にとっては思い入れがある疾患なので少々驚いたが、それによってこの家族六人に何か特別な出来事が待ち受けているだろうか? 沙菜の言うとおりかもしれない。手術を受けさせること以外に何も特別なことが思い付かない。その手術でさえ立場的に特別と言うにはどうも大袈裟である。本人には申し訳ないが、口唇裂などこの賑やかさのほんの一部でしかないように思えてくる。一大事だと大騒ぎすれば本人がハッピーなわけでもないし、テーブルの上にぶち撒けられた素麺を見る限り、口唇裂ぐらいで大騒ぎできるような環境でもないだろう。三人を見ていると、沙菜が無事に元気な次男を出産して家族がまた一人増えることが何よりだと心から思う。そんなことは母である沙菜自身が直感的に瞬時に見抜いている。
自分たち医療者は幾分騒ぎ過ぎなのかもしれない。全例そうだとは言わないが、良かれと思ってやっている医療がやや押し付けがましいように感じる患者やその家族は少なくないのかもしれない。まだ実感は湧かないが、自身の子が口唇裂を有するという立場になった今になって初めて、彩乃がはにかみながら人差し指を立てて見せたからかいのポーズの意味が少しわかった気がした。




