表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
54/68

診療編(一)

 五年後、顕也は家族とともに与論島にいた。与論の海が格別に美しいことは確かであるが、二人は決してその美しさにかれてこの島に辿たどり着いたわけではない。海なんてどこにもあるのに、なぜ与論島だったのか? それだけが実は今でも二人はよくわからない。何となく方向だけは合っている最終電車に飛び乗るように、鹿児島空港でたまたま目に入った与論行きの双発機に乗った、ただそれだけのことである。そして、そこに降りられたから降りたとでも言うのだろうか。当てもなく東京を脱出した二人は、まさに与論島に不時着したのであった。

 与論は、沖縄がすぐそこに見える鹿児島県最南端の島である。島には入院できる病院が一つだけあった。表向きはまあまあ立派な総合病院であるが、何ということはない。その役割は正真正銘の僻地へきち医療であった。ほとんどの医師を非常勤でまかなう離島の病院の慢性的な人手不足は言うまでもなく、どこからともなくふらりとやって来た顕也が何となく就職を打診すると、すぐに皮膚科形成外科で採用されて町長が直々(じきじき)挨拶あいさつに来た。関係者から熱烈な歓待を受けて驚いているひまもなく、数日後には即戦力になった。住民の高齢化は、日本屈指の出生率を誇る奄美沖縄地域の与論も例外ではなかった。じょくそうなどの皮膚潰瘍やスキントラブルは想像以上に多く、外科医や整形外科医が専門外を自負しつつ診てきた患者さんたちが、あっという間に顕也のところに回ってきた。このような患者さんが、高血圧や糖尿病を始めとする様々な内科的疾患を抱えているのは当然で、貴重な常勤医の顕也はたちまち傷にもくわしい皮膚科寄りの総合診療医という位置付けになった。

 家族は沙菜だけではなくなっていた。移住してすぐに沙菜に新しい命が宿っていることがわかったのである。実はその時初めて知ったのであるが、この病院には産婦人科の常勤医がいなかった。長らくこの島で出産した女性はおらず、沙菜もまた、出産が近付くと一人で沖縄本島の分娩施設のそばでホテル暮らしになった。もとは自身が離島暮らしを望んだということもあるのだろう。

「ずっと海を見てられるなんて素敵。」

 沙菜は顔色ひとつ変えずにそう言って、毎回部屋から海を望むホテルをリクエストして本島に渡った。本気で島外出産は息抜きだとでも思っていたのかもしれない。沙菜は、その見た目よりもずっとタフだった。

 一方、月に四、五回の当直や日常的に救急対応の当番もこなす顕也は、そんな特殊な出産に立ち会うこともできずに、ただ無事を祈るばかりであった。長男の出産の時には、電話でそろそろかもしれないと話していたら、翌日仕事が終わって電話を見るともう生まれたとメールが届いていた。仕事中だろうからと沙菜が気をかせて電話しなかったらしく、週末に休みをもらって面会に行こうとしたらそれも来なくていいと言われてしまった。二人とも元気で週末だと退院間近だし、一人で来て母子おやこ二人で帰っていく同じような島外出産のお母さんたちも多くて自分もそんなたくましさを見習いたい、というのである。

 さらに、どこからでも情報が伝わるようで、二人が帰って来ると島の先輩ママたちがこれでもかと世話を焼いてくれた。長男は、祖父母の手を借りる一般的な里帰り出産の新生児よりもはるかに手厚いケアを満喫したに違いない。また、長男の世話だけではなく、沙菜は長女の出産の時に親しくなったママ友の勧めで銀座通りにある食堂の仕事を手伝いに行くようにもなった。その間子供たちは保育園に預けられるのであるが、なぜかこの島では昼間に両親と離れて園に預けられることを強く嫌がる子供たちをあまり目にしない。それは、一体感の強い島内の親たちが赤の他人に子供を預けるという感覚に乏しいからなのではないかと想像する。寝返りも打てないような乳児であっても親のちょっとした気分を敏感に感じ取るものである。一般的によく見られるという、園に預けられるのを極端に嫌がる分離不安のような親子の関係とは、実は親側の問題もそれなりに大きいのではないかと疑ってしまうほどであった。それくらい何かと手をかけずに島の子供たちはすくすくと育つのである。気が付くと顕也も、五才を筆頭に、男、女、女、三人の子の父親になっていた。


 引っ越し業者に預けたままの荷物の送り先を島の民宿から指示するところから始まった駆け足の移住生活のスタートは、どうやら沙菜の精神状態にもプラスに作用した。大黒柱の顕也は、慣れない総合診療医のような仕事に手一杯で沙菜の出産にも立ち会えないくらいであるから、一か月や二か月はあっという間に過ぎてしまう充実した毎日だった。長男の出産、それもまったく未知の島外出産をひかえる中で二人の生活基盤をいちから築くために奔走ほんそうした当初の沙菜の暮らしは優雅のゆの字もなく、その顕也に輪を掛けて充実していたに違いない。沙菜がその生活に疲れを見せることはなかった。病院が用意してくれた少しだけ間取りの広い単身寮の整備に始まり、水道とガスの開栓、電気とインターネットの開通、役所への届け出から食料の調達まで、頼もしいほどたくましく、沙菜はてきぱきと日常業務をこなした。それは観光客でにぎわう夏休みのハイシーズンにかなり忙しくなる食堂の仕事を得た長女の出産後も変わらず、基本的には家事や育児、日用品の買い出しや公共料金の振り込みまで、沙菜が家の仕事のすべてを担っていた。そんな沙菜の離島暮らしをもっとも充実させたのは、まさにその自分たちの家を与論に建てたことであった。それは長女が生まれる少し前、ある患者のお婆さんとの何気なにげない会話から始まった。

「しんしいや、アパート暮らし?」

 外来で診察が終わって処方(せん)を印刷している時だった。とくに次の患者もいなかったので、孫と話しているような人(なつ)っこいしわくちゃの笑顔に顕也が答える。

「そうですよ。そぐそこにある病院の借り上げのアパートに住んでます。」

「あんしぇー、しんしいや、またちゃあき転勤するぬが?」

 ほとんどの患者さんは、標準語っぽい言葉で話してくれるバイリンガルなのであるが、この婆さんは耳が遠いこともあって通じることを期待していないのか、いつもかまわずコテコテの現地語で一方的に話してくれた。横に付いてくれたベテランの看護師さんが面白がって通訳してくれる。

「先生もまたすぐに転勤するんでしょ、だって。確かに一、二年でどっか行っちゃう先生ばっかりですもんね。」

 看護師さんが、顕也の返事を待たずに、待合にも届くくらい大きな声で続けて婆さんの耳元に話しかける。

「村沢しんしいはー、風来坊ふうらいぼうやあらんさぁ。院長しんしいの次に長くいる常勤のしんしいやさー。」

 いやいや立派な風来坊ふうらいぼうなんだけど、とは思っても言えない。院長の次とは言っても常勤医は系列病院の人事で派遣されて来た若い内科医があと一人いるだけで、副院長のような紹介は立派に詐称さしょうである。すると、看護師さんの言葉をに受けたのか最初から伝わっていないのかもよくわからない様子で、婆さんが言った。

「だったら、ー、建てぃねえちゃー? わんがやーぬはる、ちかいがー?」

 顕也には何を言っているのかさっぱりわからない。クスクス笑いながら看護師さんが翻訳する。

「ずっといるんだったら家を建てたらどうか、って。うちの畑をゆずりますよ、だって。」

 この手の話が他にないわけではなかった。そんなふうに言ってもらえることはありがたいが、普通に考えれば一種の社交辞令である。いつものように気持ちはうれしいと礼だけ伝えたものの、何だかこの婆さんは本気だった。待合に出ていった後もしばらくその話を続けて戻ってきた看護師さんが言うには、どうやらご主人が施設に入って一人暮らしになってやらなくなった畑を使ってもらえたらありがたい、とのことらしい。一か月後の再診の時にもいきなりこの話から始まったので、婆さんの本気度がよくわかった。気に入らなかったらやめればいいと何度も言われて断るに断れず、その週末にちゃばなの銀座通りのスーパーで待ち合わせて、とりあえず見にだけ行くことになった。

 スーパーから徒歩圏内だということ以外に何も知らされないまま、杖も突かずにすたすたと坂道を登っていく腰の曲がった婆さんの後ろを黙って付いて行った顕也は、その土地を案内されて体に電流が走った。銀座通り周辺のちゃばなの町並み、その向こうに広がるサトウキビ畑とあおい海、それらを見下ろす高台にある赤茶色の土に覆われた婆さんの畑からの景色は、観光スポットに隠れた飾らない与論の風景を見事に凝縮していた。顕也はともかく、翌日顕也に連れて行かれてそこに立った沙菜こそ、この風景に一目ひとめれしたのは言うまでもない。独立して内地や本島に住んでいる婆さんの子供や孫たちの間でも話し合ってくれたらしく、リゾート開発などではなく島に長くいそうな常勤の医師が宅地に使うなら喜んでおゆずりしたいとの返事を頂き、とんとん拍子に話が進んだ。元々(もともと)不動産売買の少ない保守的な土地柄の与論で起きた奇跡のような巡り合わせは、ある意味自分たちの運命を決定付けたかもしれない。沙菜は、次女の出産前後で家全般を切り盛りしながら、まさにその箱ともいうべき自分たちの家を建てるのに奔走ほんそうした。その適度な忙しさが、沙菜を本来あるべきシンプルな人の暮らしに導いたことは確かであった。

 ただ、島の時間の流れは東京とはまるで違う。大工や左官の仕事も多分にれずのんびりした工程である。先祖代々の婆さんの土地にプレハブ工法の家を建てるわけにもいかず、景観に調和した白い平屋の家を間取りからドアの色までこだわわって建てると二年近くかかった。もちろん島の暮らしに慣れてしまえば、じれったく思うことはない。それは都会の暮らしに劣ることを我慢するということではない。他にもやることが適度にあって、同じくらい考える時間も適度にあるということを意味している。ここならではの、ちょうど良い時間の流れがあり、それが自分たちの思いにうまくみ合ったとしか言いようがない。

 とにかく、そんなべったり地に足の着いた島の暮らし振りが、沙菜の心の肥やしになったのは確かだった。そして何よりも、絵の具をいたという表現が陳腐になってしまうほどに果てしなく濃く深く吸い込まれるような色彩を放つ圧倒的なあおい海を常に身近に感じる日々の生活こそが、まさに沙菜の心を確実に癒やしていったのだと思う。植え替えの土の中にわずかに残った根からいきおいよくい茂る雑草のように、沙菜の心は瑞々(みずみず)しくすこやかに息を吹き返していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ