(三十)
「今日もありがとう。」
披露宴会場から直接病室に駆け付けたその日、沙菜は顕也に会うなり目をパチクリさせて言った。張りのある声ではなかったが、沙菜の方から声をかけてきたのは実はこれが初めてだった。そればかりではない。すぐに収納棚から何かを取り出して洗面所に行ったと思ったら、口紅を塗って戻ってきた。明らかに昨日より調子が良さそうだった。
その理由はすぐにわかった。お互いベッドサイドに立って向かい合ったまま、沙菜が徐ろに顕也の首に掛かったままのネックレスを両手に取った。
「可愛い!」
首元でテディベアをまじまじと見つめながら沙菜が言う。
(しまった! 外すのを忘れた。)
咄嗟にそう思ったが、後の祭りだった。さすがにちょっと飲み過ぎてしまった。どこに行ってたのか聞かれたら、何と答えればよいだろうか? 酒臭いのを感付かれているのではないだろうか? 正直に話すべきだろうか? しかし、沙菜はまったく予想外のことを口にした。
「これ、もらっていい?」
「えっ、これを?」
正直、顕也はかなり驚いた。興味を引くのは当然だとしても、まさか気に入るとは思いもよらない。ただ、自分が使えるはずもないので欲しいならあげてよいとは思う。彩乃が要らない物なのだから、自分にとっても価値は同じだ。
「もちろん、もらっていいよ。外せる?」
そう言ってまた余計なことを言ってしまったと思う。自分でうまく外せないなら誰かに着けてもらったということになってしまう。つくづく自分のいい加減さが嫌になる。そんな顕也の心配をよそに、沙菜は無言でネックレスを外すと、目の前に揺れるテディベアを見つめながら言った。
「せっかく可愛いのに。ちょっと居場所が悪いみたい。大丈夫。安心してね。」
顕也は、沙菜がクマさんに話しかけていると思った。そんな沙菜を見たことがないので返す言葉に少し困る。
「確かに。クマさん、自分のところじゃ安心できないかもね。」
沙菜が顔を上げて顕也に微笑む。
「いいえ。ごめんなさい。そういう意味じゃないの。失くさないように大切にするから安心してね、ってこと。大切な物なんでしょ?」
大切? そうだったかもしれないが、たぶん、もうそうではない。
「大切じゃなくなった・・・あっ、いや、大切じゃない。失くしたってかまわないさ。」
歯切れの悪い顕也の返事が沙菜の笑いを誘う。
「フフフ。無理言っちゃったかな?」
沙菜はそう言って、はいっ、と両手でネックレスを顕也に差し出した。顕也は、沙菜の手に乗るネックレスをもう一度見る。小さなクマが天を仰いで笑っている。それは、優柔不断な自分を嘲笑っているようにも、ストーリーの名脇役を与えられた感謝で涙しているようにも見えた。もし後者だとすれば、こいつは自分に引き取られて暗い引き出しの中で眠り続けることを願うはずがない。前者だとしてもそんな性格が悪いやつはこちらから願い下げだ。顕也の両手が、沙菜の手の中にネックレスを握らせるように沙菜の両手を包み込んだ。
「こいつは要らない。」
さらに強く、顕也がギュッと握り締めると、沙菜が顕也を見上げた。あまり近くで見られると、酔っているのがバレてしまうかもしれないが、この際どうでもよい。
「失くしたくないものは他にある。こんなもの、どうだっていい。」
酒の力を借りた楽観的な見方を差し引いたとしても、沙菜はその言葉をちゃんと受け止めてくれたと感じた。沙菜はネックレスを握って重なる四つの手に視線を落とす。
「そんなことないわ・・・大切なもの、かけがえのないものって、すごく小さなこと、すぐそばにある小さなことばっかり・・・なんじゃないかな。」
その声は落ち着いていたが、語尾が少し震えていた。辛そうなわけでも悲しそうなわけでもなく、むしろそう言った後に沙菜は微笑んでいるように見えた。だから、どこまで自身の壮絶な過去を意識して沙菜がそう呟いたのかはわからない。母との何気ない会話、娘との些細なやり取り、沙菜がそんなかけがえのない身近な存在を次々と失った記憶とは関係がないのかもしれない。ただ、大切なものは小さいというその言葉は、沙菜の本心に違いなかった。
なぜだろうか? 顕也は、沙菜のその言葉が自分に対する前向きなメッセージのように聞こえて、妙に嬉しかった。こんな子供っぽいデザインの小さなアクセサリーを大事そうに首に掛けて現れた自分を、肯定してくれているように感じたのである。もちろん、単に感じたことを口にしただけで、沙菜がそんなことまで意図するはずはない。何だか気分の良い沙菜が微妙にバツの悪い自分を面白がっているだけのような気もする。そもそも、研究に没頭していた頃の自分が沙菜のこの言葉を聞いたとして、少しでも自分の身に置き換えて、そうかもしれないと共感できたであろうか? どう考えてもそんなことはなかった。何を言っているのか理解しようとさえしなかったに違いない。そんな自分自身の心境の変化こそ、沙菜の言葉を前向きなメッセージとして自然に受け止めた一番の理由かもしれない。
「大事にして、っ言ってくれる?」
からかうように、沙菜が言った。相変わらず言葉足らずの顕也がオウム返しに答える。
「大事に、して・・ねっ。」
沙菜が笑った。こんなに笑った沙菜を初めて見た。
「はい。大事にします。」
弾む声でそう言って、くるりと背中を向けた沙菜は、床頭台の上に大事そうにコトリとネックレスを置いた。沙菜の手からネックレスが離れる時、顕也はふと菓子折りを思い出していた。いつか沙菜が見舞いのお礼にとクリニックに持って来た地味で年寄り臭い、あの小さな菓子折りである。
あの時、沙菜は何を思って、おそらくほとんど誰にもつまみ上げられることのないどこまでも質素な和菓子を持って来たのだろうか? いつかお店で客の自分にそう語ったように、ただママに行けと言われて何も考えずに地味な和菓子を買って来ただけだったのだろうか? 小さいといえば、確かにあの菓子折りは一際小さかった。さては同じようなメッセージが込められていたのだろうか? 偶然だとは思う。何より、沙菜は明らかに研究至上主義の怪しい美容外科医を軽蔑していた。今でもそうかもしれない。贔屓の太客だと豪勢な菓子折りが届けられた。それだけのことである。
しかし、考えてみれば、沙菜があの小さな菓子折りを持って来なけなければ、自分はまだ確実に仕事も研究も続けていたはずである。佐伯の論文の図表の赤い点々が一つでも増えることを最優先して、その一つ一つの向こうに隠れるストーリーに一切目を向けることなく、新たな論文のアクセプトに歓喜していたに違いない。それが、結果的にはあの菓子折りが、他にもっと大切なこと、守るべきものがあるということを自分に気付かせてくれるきっかけになった。そして、仕事も研究もやめて彩乃の新たなストーリーの第一歩を見守った今日、この小さなネックレスを大事そうに首に掛けた自分を見て喜んでいるかのような素振りを見せる沙菜の一面に辿り着いた。それがこんなにも嬉しいものなのかと半ば驚いている。もう答えは明らかだった。今、そしてこれからも、自分が沙菜の力になれるなんてとんでもない。沙菜が自分に気付かせてくれたのだ。沙菜がどう思っていようが、沙菜こそが自分を導こうとしてくれているのである。
翌日も翌々日も、沙菜は口紅を塗って顕也を出迎えた。沙菜の調子は安定していた。ネックレスを譲ってから三日後、イチゴ大福を持って病室に現れた顕也に、沙菜が突然尋ねた。
「ところで、先生の下の名前、何て言うの?」
顕也は、沙菜にまだちゃんと名前を覚えてもらっていないことに、我ながら呆れた。
「そうか、まだ名乗ってなかったな・・・顕也っていうんだ。村沢顕也。ごめんね、名乗るのが遅くなって。」
「大丈夫。そんな人だということだけはわかってる。」
皮肉交じりに沙菜が笑って答える。顕也が頭の後ろをポリポリ掻く。いっしょに笑うしかない。沙菜にとって、自分は最低な人物だったところからのスタートだったことを今更のように思い知って、顕也が呟く。
「はんぶん、か・・・」
福富の言う半分差し出すことを想像して思わず口をついて出た。もちろん差し出す相手は沙菜である。正直なところあまり現実味はない。何しろ沙菜は、今初めて名を明かしたばかりの相手である。それぞれの半分がどんな内容なのかさっぱり見当が付かない。ただ、この二人の場合、積極的には差し出さない方がいいことが、恐らくお互いにたくさんある。それを含めずに半分差し出すなら、残す半分は選択の余地があまりない。そうなると二人で同じような方向を向くしかない気がして、少しだけ変な自信が湧いて来る。そういう意味で半分というのは絶妙かもしれない。いや、この二人に限らず、どこか惹かれ合っていっしょに生きていこうとする二人というのは、大方そんなものなのかもしれないとも思う。沙菜が首を傾げている。
「半分? 何それ?」
「いや、なんでもない。」
にこりと笑う顕也を沙菜が不思議そうに見上げる。
「はんぶん・・・いる?」
「ん? んんっ!」
突然半分あげると言い出した沙菜に驚いて、顕也が奇声を上げる。その声に、廊下を歩いていた看護師がちらりと部屋を覗くのがわかった。沙菜はまだ自分から少しの差し入れとネックレスくらいしか受け取っていないのである。名前なんて今教えたばかりだ。いきなり半分と言われても・・・
「いっ、いっ、いきなりそんな半分なんて・・・」
「何変なこと言ってるの? 今食べたいから看護師さんにナイフ借りて半分に切って来てよ。」
沙菜がオーバーテーブルの上のイチゴ大福を顕也に押し戻す。
「だ、だ、大福! ハハハ、アハハ、アーハッハッハー」
一個七百円の立派なイチゴ大福を指さして、顕也が一人で大笑いする。横でぽかんとする沙菜に申し訳なくても笑いを堪えられない。最近、次々と不意打ちに合ってずっと笑ってばかりだ。きっと、この数日の日々を生涯忘れることはないだろう。
部屋の入口でそんな二人を微笑ましく見ていた看護師が、切りに行きますかと顕也に声をかける。大福を手に看護師に付いて部屋を出る時、顕也に釣られて沙菜もクスクス笑いながら後ろで言った。
「不思議な人・・・」
大福の入った袋を手に提げて病棟の廊下を歩く顕也は、まだ笑っていた。その姿は、仕事帰りに立ち寄った赤提灯の店からよれよれと出てきたお父さんに見えたかもしれない。笑いながら、いよいよ始まりそうな新しい生活を予感していた。もう後には引けない。今のこの状況は、あと少しでまったく変わってしまう。何がどうなるのかまったく想像は付かないが、まったく変わってしまうことだけは確かだ。こんなにも数日後、数か月後、数年後の自分がどうしているのかわからない境地になったことはかつてない。それが不思議とこんなにも清々しい気分であることに、また笑いが込み上げる。顕也はこの時、浮足立つ気持ちを抑えて、どういうわけか大福を片手に自らの半生を振り返っていた。全身全霊で笑ってはいたが、言うなれば、それは武者震いだった。
随分回り道をしたが自分なりに精一杯やってきたとは思う。一方で、数えきれないほどの人たちが、何の見返りも求めずに、あちこちでこんな自分に力を貸し続けてくれたとつくづく思う。家族、先生、級友、先輩、後輩、同僚、上司、部下・・・美希と彩乃、そして夜の女たち、これまでに関わったすべての人々への感謝で胸がいっぱいになる。手元の大福を見ると涙がこぼれ落ちたかもしれない。
(これが自分だ。見届けてくれ!)
病棟の廊下の天井を見上げながら、顕也は心の中でそう叫ぶ。心が高ぶっていたわけではない。むしろ、落ち着き払って全てを受け容れる覚悟を決めていた。ようやく自分に相応しい死に場所を見つけたとでもいうのであろうか。
平和な時代でも人は必ず死ぬ。相応しい死に場所が大義名分にだけ付き纏うとは決して思わない。雲の切れ間から特攻目標を見付けた特攻機のパイロットの心境、どうせ死ぬなら上手く当たってくれという最期の祈りとは、こんなものかもしれない。大福を二つに切り分けながら、顕也は心穏やかにぼんやりとそんなことを考えていた。
一週間後、沙菜が退院した。沙菜は顕也を拒みはしなかったが、二月初旬の寒さが二人の距離を近付けることもなかった。もう自宅には戻らない、戻りたくない、そう言って沙菜はホテルで寝泊まりした。
二月中に、沙菜はお金が続かないと言った。思い切って自宅の一室を使ってほしいと伝えて沙菜の照れ笑いに安堵する。シェアルームのような生活。いつの間にか彼女の自室に積み上げられた見覚えのある段ボールの山。そのどれかに押し込まれたのであろうか。母と娘の遺灰の入った紙袋は見当たらない。自宅内でお互いの部屋を行き来する。豪雪地帯の雪解けのように、二人の関係は麗しいほどじれったく進んだ。
三月。無職であることが沙菜にバレる。とことん呆れた人だと沙菜が笑った。節約のために二人でたくさん料理を作った。食材を買いにあちこち出かける。ある日、買い物をしながら、顕さんと呼んでいいかと沙菜が言う。もちろんと答える。淀みの深層にある微かな浸透が泥水を浄化するように、上下すら見失いそうな勾配の中を時が流れた。
四月。桜が散る頃。沙菜がネックレスの元の持ち主は娘かと聞いた。そうだと答える。娘の母は事故で亡くなったことも重ねて伝える。舞い散る桜の向こうの空に雲がゆっくり流れていた。あら偶然と、彼女も一人娘を病気で亡くしたことを教えてくれた。
五月。天気が良かったので、二人で鎌倉に散歩に出かける。由比ガ浜で海を見つめながら、初めて沙菜が故郷の話をした。子供の頃、母と二人、田んぼの畔で誰も採らない土筆をたくさん採ったのだと。波打ち際の少女たちが寄せる波から逃げて笑い合う。母と娘は土筆の卵とじがご馳走だったらしい。このまま働かなくても食べていけそうだとからかって怒られる。不意に振り返った裸足の少女たちと一瞬目が合って、沙菜が困惑の表情を浮かべる。そのまま先に歩き出した沙菜に手を引かれるまま、初夏の浜辺をしばらく歩いた。
六月。沙菜の外来通院。今後の通院は必要と感じるなら近所のクリニックで十分と言われて二分で診察終了。帰り道に銀座でランチをする。どれも味が濃過ぎて口に合わない。窓の外の雑踏を眺めながら沙菜がこぼした。海も田んぼもない東京は好きじゃない、と。
七月のある日。沙菜の部屋であのイルカのキーホルダーを見つけた。テーブルの上の日用品の陰に、それは隠れていた。所々塗装の剥げたガラクタ同然のキーホルダー。それが二人の視界に入っただけだと思ったが違った。すぐに気付いて、亡くなった娘の物だと沙菜が重い口を開く。気管切開されて外耳道閉鎖による難聴もあったが精神発達は問題なかったらしい。呼吸停止で緊急入院する直前に連れて行ってもらった品川の水族館でイルカと泳ぐ飼育員を見て、自分もいつかイルカといっしょに泳ぎたいから気管切開を閉じるための手術を頑張る、目を輝かせて手話でそう語っていたのだと。
「ふつうの三才のふつうの夢。特別なことじゃない・・・なのに、なのに、自分の不注意で・・・」
異変に気付くのが遅れた自分を責めて、同じ手術をたくさん手掛ける東京の病院を選んだ自分を責めて、沙菜は泣いた。沙菜がキーホルダーを手に取ってじっと見つめる。
「話して楽になるのは自分勝手だとずっと思ってた。でも・・・相手にもよるのかな・・・」
何かを諦めたように、沙菜が寂しく笑う。隣に座る沙菜が肩にもたれ掛かる。返す言葉がなかった。
八月。冬が来る前にここを出たいと沙菜が言った。誰も知ってる人がいない遠くの海辺に行きたい、迷惑をかけたくないから一人で行く、強くそう主張した。驚きはしなかった。むしろこの時が来たと察した。確実に眼下の海面を見下ろせる雲の切れ間がすぐそこに迫っていた。
キッチンに行って冷蔵庫から栄養ドリンクを一本取り出す。何がしたいのか自分でもわからない。茶色の瓶を握りながら、とりあえず冷蔵庫の横に貼り付いたマグネットポケットに大量の書類といっしょに無造作に突っ込まれた一枚の紙切れを抜き取って沙菜の元に運ぶ。冬物のコートをクリーニングに出した時に、店員がポケットから抜き取って無造作に伝票の脇に置いたビラである。沙菜の入院していた病院で拾った離島診療の医師募集案内だった。沙菜がビラに見入る。なぜ捨てなかったのかよくわからない。横で栄養ドリンクのフタを開けて一気に飲み干す。なぜそこで栄養ドリンクを飲んだのかは、さらにわからない。そのフタが目に留まった。
無我夢中でフタの下にくっ付いているリング状のパーツを千切って少し曲げて輪を縮める。それを沙菜の薬指にそっとはめる。沙菜がゆっくり頷いた。沙菜の頬を静かに伝う涙が、世界一安い指輪を付けた手の上に落ちる。
「いっしょに行かせてほしい。もうこれ以上失いたくないし・・・失わせたくない。場所なんてどこだっていい。半分失っても、残った半分ずつ出せば立派にやっていける。何より・・・」
プロポーズというほど格好いいものではない。沙菜がまっすぐこっちを見る。
「何より、そろそろ働かないと、もうお金がない。」
沙菜が泣きながら笑った。
「ありがとう。信じさせてくれて。まだこんな気持ちになれるなんて・・・まだ誰かを信じられるなんて・・・本当に不思議な人。」
九月。それぞれの思いを段ボール箱に詰め込んで、二人は東京を離れた。




