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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
35/62

終章②



***


"みなさんもご承知の通り、サリヴァンは完全に崩壊し、ほぼ無政府状態になった。おそらくもう時期にラーネトウィンが本格的に表に出てサリヴァンを跡形もなく破壊する。その前にアクションを起こして、何としてもそれを阻止する。そこで、ココとモンズダイストさんから提案があるそうだ。今日はそれを検討したいと思う。では、ココ、モンズダイストさん、お願いします。"

 と、ファントムが言った。するとカウンターにいたココが店内の皆を見渡すと大声で言った。

"私はこのサリヴァンで街全体を取り込んでしまうような、大規模なお祭りを開催したいと思いますっ!!"

 その第一声を、皆内容をうまく理解できなかったので真剣な顔をしていたが、ココが屋台だの山車だのダンサーだの衣装だの言い出したので、その意味がやっとわかり、いたく混乱した。

"ココ、祭りって……。一体何を考えているんだ?"

"ラーネトウィンと最終決戦だって時に、祭りはしないだろう。"

 ファントムと真エドウは呆れてしまっていたが、ココはいたって真剣だった。

"我々サリヴァン市民は神であるラーネトウィンと対立するために、民主主義としての組織を機能させる必要があります。その民主主義の組織という共同幻想がラーネトウィンと対立しサリヴァンとサリヴァン市民を包み込んだ時初めてラーネトウィンではないサリヴァンとしての歴史・世界が始まります。ではそのサリヴァンとサリヴァン市民を包み込む民主主義の組織、共同幻想とは何か? それが祭りです。みなさんもお分かりのことと思いますが、このサリヴァンのゲーム盤上でラーネトウィンと武力による戦いをするのは無意味です。神ラーネトウィンと我々は圧倒的な差があり、勝てる見込みは万に一つもない。なぜならこのサリヴァンは、彼のサリヴァンジョウザンシステムの上で、その生殺与奪のすべてを握られているからです。我々はサリヴァンに生まれた生きている以上、その神との関係から逃れられない。であるからこそ、我々は祭りを通して、我々の新しい世界を、新しい我々の神を、我々の革命を、我々の国家を、我々の手で樹立せねばならないのです。"

 皆が腹の中で何を考えているかはわからぬが、一同はしんと黙り込んでしまった。

 すると、申し訳なさそうにカムギが手を上げた。

"あの……ええっと……。カムギ・ゼンジと申す者です。ラーネトウィン。や、ジョウザンシステム……と、言っていますが。それが今のサリヴァンとどう関わっているんです?"

 これは、カムギやダヴィやパルと地下アジトに関わった者、さらに上のココやファントムや真エドウでは、現状を把握する情報の質が大きく異なり隔たっていることを意味した。その場に一瞬、何か場違いなものが入ったかと少しばかりヒヤッとする空気が流れたが、するとパルが、

"一緒になって戦うのなら、本当の敵は何なのか、それを腹を割って話せなきゃダメね。裏でこそこせやりたいんなら、いいわ。私一人でも、戦ってやるから。"

 パルがそう言って席を立とうとすると、皆が一斉にパルをなだめた。

 そして気を取り直して、ファントムが語り出した。

"まず本当に最初から話すと、サリヴァンの地に渡来してきたNBS、そのリーダーたるラーネトウィン・アウルスタが、神と交流に使う秘薬ヒノマルと、サリヴァンの地に太古からいる神霊、古代樹の一族と接触したところから全ての始まりだ。ラーネトウィンはそれらを元に、死者を召喚し生者と融合するシステム、ジョウザンシステム、を作った。そしてここからだ。ラーネトウィンはサリヴァンの都市開発の中で、サリヴァンそのものを死者を召喚し生者と融合させる国家、サリヴァンジョウザンシステムにしてしまったんだ。ラーネトウィンはそのサリヴァンジョウザンシステムの中枢機関として今も生き続け、我々を見ている。このサリヴァンの土地そのものが、巨大なラーネトウィンのようなものだ。だからこのサリヴァンではラーネトウィンの意のままに人を動かすことができる。好き勝手に死者を召喚し、死者と生者を融合させることもできる、一人専制支配だ。ブレスレット状のジョウザンシステムとは、ラーネトウィン以外のその使用者が死者と融合、ジョウザンを、非常に限定的にできる、というちっぽけなものだ。ラーネトウィンのサリヴァンジョウザンシステムはそれよりはるかにすごい、国家や歴史や世界といった類のものだ。そして、貴方の追っていたアシュラは、少なくとも巷に流通していたアシュラは、ただの偽薬で、その本当はラーネトウィンがアシュラの使用に合わせて使用者を無作為に死者と融合させるという遊びをしていたに過ぎない。"

"ちょっと待って、2月と11月にアシュラを使用していないアシュラ患者が……。"

 と、カムギはあまりの情報のショッキングさに、混乱して口走った。

"2月と11月……。そういえば、ラーネトウィンはそのぐらいの時期に気圧だか気温だかの関係で頭痛が酷いと言っていたな。それでサリヴァンジョウザンシステムが誤作動を起こしているのかも。"

 カムギは絶句した。サリヴァン市内で200万というアシュラによるアシュラ患者で死んでいった人々が、一人の人間の頭痛や遊びなどでその命を散らしたというのは、故人や遺族に何と説明すればよいのか、一体この世界はなんなのだと、無味無臭の透明なゼリー状にサリヴァンという超巨大な水槽を満たされ、息すら自意識でさせてもらえぬのかという滑稽の極みの様を見た。しかし、改めてそれを口にしたことで、そんかラーネトウィン相手に相当に突飛で奇天烈な作戦でもない限り、勝ち筋などないのではないか、そんな気も皆は思い始めていた。

"ハアアン。つまり、ラーネトウィンとかいうやつの手のひらの上で踊るアリンコの私達が、その人様神様のラーネトウィンを、生かさせてもらうおこぼれをもらうどころか、ブン飛ばそうというわけね。"

 パルは案外、サリヴァンにそこまで執着はしていなかったので、カムギのように驚くことはなかった。

 隅で黙って話を聞いていた真エドウが、店内の中心に来た。

"さっきはああ言ったが、話を聞いて考えが変わった。確かに、ラーネトウィンを殺せばサリヴァンジョウザンシステムが、このサリヴァンもろとも消滅してしまう以上、究極的に不利な状態で戦うならば、これぐらいの奇策もありかもしれない。で、皆はいかがか?"

 皆は黙ったままうなずいてみせた。

"では! これからの我々の行動はラーネトウィンに対して祭りを開催するということでいい。規模や内容はこれから検討するとして……。私はラーネトウィンに休戦をかけあってみよう。祭りの準備中に人死が出たら士気が落ちるからね。"

 ファントムがそう言った。



***


 こうして、対ラーネトウィンにおける祭りの開催の意思決定を一致させた一同は、さらに具体的に開催への道筋を見極めるため、各人が割り当てられたセクションに人を集め具体的な計画を立てることとなった。ココとモンズダイストを連名の実行委員長として、しかし祭りの運営経験などない彼らにいかなる役職が必要かもわからなかったので、とりあえず、そういった催しに長けた人材を選定することも始めた。しかし、この紛争下で祭りをするから協力してくれ、というのは信用されるはずもなく、作業は難航していた。やはり、ファントムの述べたように、ラーネトウィンとの休戦の協定を結び、少なくとも安全は確保された中で祭りの準備は行われなければならないそのことの発信も含めて、その渉外は喫緊の必要と思われた。そのためファントムは敵であるラーネトウィンに会談を申し込み、それは旧友のよしみか、以外にあっさりと日取りは決まった。その間も彼らは少ないながらも賛同を示した人々や企業を集めたり連絡をとったりしながら、本当に一瞬でも止まったら計画そのものが雲散霧消しそうな気配があったので、必死に語り合った。さすがにこの紛争時に仕事が忙しいというものは生命インフラ除けばほぼいなかったので、逆に普段の紛争下の緊張からのガス抜きのために、祭りの話し合いに参加する者も現れた。


 しかしそんな中において、ディオの居場所はほぼなかった。彼はイシエと共に他方と連絡をとり合う電話番をしていたのだが、決してその仕事を嫌味ったらしく思っていたわけではないのだが、今自分が本来為すべきこととは何だったのか? と物思いに耽ることがあった。


 バー・モントルイユでの祭りの開催の意思決定の後、なぜかディオはコ・オーの元へと向かい挨拶をした。

 するとコ・オーは、

"フン、カイゼヨウのガキか。あの冷酷無比で薄氷な奴よ。儂は覚えておるぞ。儂の大好きなホロノミちゃんを見捨てたことをな。しかし、ホロノミちゃんのお前への恋慕は本物じゃったから、何、とって食ったりはせんよ。ホロノミちゃんに怒られてしまうからな。しかし。儂の腹の中は違うと心得よ。もし必要以上に儂の前をフラフラするなら、不快虫は思わず叩き潰してしまう短気な性分なのでな。気をつけろよ、カイゼヨウの坊や。"

 コ・オーの言葉は字面だけ見ればかなりキツイものではあったが、その少女の姿、そして楽しげに笑いながら長駄弁りをする様、どこか昔を懐かしむ瞳、しかしその一瞬にきらりと煌めく殺意、とても一言で言い表せるものではなかった。

 ディオは喜怒哀楽のどれを示せば良いかわからず、ただコ・オーを見続けた。その時、ディオの中に何かが宿ったのだ。


 彼は少し休憩をしようとバーのテーブルに広げられたメモと電話を片付けると、店の裏口のスタッフ用の出入り口から外に出た。

"おや? 何か楽しそうなことをしているね。"

 何とは無しにその声の方へと振り向いたディオは、視界に少女カーヴィン・シトックを認めた。思わず懐の短刀を構えようとした。

"いい、いい。今日はちょっと話に来ただけなんだ、戦いに来たわけじゃあない。ラーネトウィンについでに様子見もと頼まれてはいるがね。ではさっそく本題に入らせてもらう。ジョウザンシステム、始動。"

 カーヴィンは金の腕輪ジョウザンシステムを始動させると、真紅の閃光に包まれ、中からアシカジョウ・ホロノミが現れた。

 ホロノミがディオ、すなわちカイゼヨウに対して微笑みかけようとしたその時、丁度企業回りをしていたモンズダイストとコ・オーが戻ってきた。そして、コ・オーはホロノミを見るなり、

"ホロノミちゃんじゃないか!"と叫んだ。

 ホロノミも突然の大声に肩を上げて驚いたが、その姿を見るなり、

"オーちゃん!!!?"と言った。

 二人は磁石のようにそれが当然の真理であるかのように寄り添うと、女学生のようにはしゃいだ。

 ディオは遠くからそのホロノミの横顔を見た。彼の中に宿った何かが激しく動いた。それは、ただ自身がクレナイチョウを見捨て死んでいったホロノミでも、そんな自身を殺したいほど憎んでいるホロノミでもない、そんなディオの中の二つの巨大な念ではない、コ・オーと楽しげにいるということが、もはや彼の中にあったホロノミという目の前の現実が崩れ、世界一面にホロノミという存在が花畑のように広がったような気が、なんとも自己中心的で身勝手な思いが去来したのだ。しかしそれは、紛れもなくディオ以外のもう一つの世界でもあり、もう一つの、ディオにとっては真のホロノミだったのではと感じさせた。その心の様を恋と言えば容易かったかもしれないが、彼は言えなかった。

"ホロノミちゃん、今日は儂に会いに来てくれたのか?"

 コ・オーが無邪気にそう尋ねると、

"そうね、今日はちょっと違うの、オーちゃん。また今度お誘いするわ。"

 そう言ったホロノミなディオの方へと近づいてきた。

"カイゼヨウ、5日後にこのメモに書かれたビルの屋上に、イシエミサキと来なさい。そこで雌雄を決しましょう。"

 ホロノミはそう言ってディオに一枚の紙切れを手渡した。

 その時ディオは、ホロノミが好んでつけていた甘い香を久しぶりに嗅いだ。彼は小さくうなずいた。

"どのような結末になろうと、私達は決着をつけなければなりません。当日までに近隣の住人の避難はさせておきます。受けますか、カイゼヨウ?"

"謹んでお受けいたします。"

 そうして瞬時に踵を返したホロノミは、コ・オーの元へと行き、軽く頬に接吻をして、天高く舞い上がり、去って行った。

 それをずっと目で追うディオの隣に、コ・オーが来た。

"男を見せろよ、カイゼヨウの坊や。"

 そう言ってディオの腰辺りを軽く小突くと、彼女は店内へと入って行った。



***


 江藤は男と女ホームレスの暴行事件以降、塞ぎ込みがちになってしまった。彼にとってそれは、彼自身が抱える暴力性と無関心が自然な状態、すなわち自然界の野生動物の捕食風景のように、生きるために当然のことであって余計なコミットを必要としないものではない、人工的に鋳造された洗練された状態のショッキングであった。ただ単なる人の死ではない、保存食のために塩漬けにされた死であって、それを味わうために人は多量の薬剤をその塩漬けされた死にべたべたとまぶすのだ。つまり、あの男と女ホームレスの死は保存され今もこの世界のどこかで多量の薬剤を抱えた亡者達によって味わられているのである。それはもれることなく江藤も含まれた。しかし、死に対して塩漬けと薬剤というのは、なんともフォークロア的なものを漂わせたが、それはつまり人類の原初の簡単な石器を使った時代から続く、塩や薬剤つまりは香草や湿気取りの砂土含め呪術儀式的なモチーフまで含めて、その思考は脈々と続けられてきたということであろう。人類の7割はこの思考を失っている。しかし以外の3割だからといって、その思考を正当に使えているかどうかははなはだ怪しい。だが江藤は考え塞ぎ込む最中にあって、突如としたへとなの介入によって以外の3割でもなかった。では自分は何であるか? 7割か? しかしそんなことはへとなにとってはどうでもよかった。


"センパイ。スッゲー難しい顔してますよ。一体何考えてるんすか。あんまり難しいこと考えちゃダメですよ。せっかく若者の街甘山まで来たんですから。やっぱ八姫の人間には刺激強すぎるっすね〜。あ、あれが有名なハチ公の銅像っすよ。"

 江藤はへとなに連れられて京妃八姫線から古宿駅まで出て、そこから谷足線の内回りで甘山駅へと遊びに来ていた。

"センパイ、せっかくのデートなんですから、この際楽しみましょうよ。ちょっと人混みはすごいけど、それも醍醐味ですよ。"

 確かに人の数はすごかった。901の前のスクランブル交差点を行き交う人、そして甘山駅前にたむろする人、道素坂の存在のうるささ、江藤はそれらの前にただ沈黙するしかなかった。これが塩漬けなのか? これが薬剤なのか? これが人工的に鋳造されて洗練された死であるのか? それを答えるべきは本来へとなであるはずだった。しかし江藤は彼女にそれを尋ねる度胸がなかったから、ただ黙っていることしかできなかった。

 しかしへとなも別に行きたい目的地があるわけでもなく、ただ街ブラをするというボヤンとした考えしかなかったので、中途半端な田舎者のような足取りだった。何かないのか、そんな気から道素坂から一本入った小道へと曲がって入った。かなりの狭い急勾配でこれは八姫にない流石甘山だ、などとへとなは笑っていた。


 しばらく歩くと、目の前に人集りができていた。

"んん? 何か大道芸でもしてるんですかね。こんな所で?"

 へとなに手を引かれ江藤はその人集りの中へと入っていった。ここにも人がいる、あの男と女ホームレスの暴行現場のように、ここにも人がいる、俺が見ていた時には誰もいなかったのに! お前達は一体何だ! なぜあの時いなかったんだ! お前達を集らせるものとはなんだ! 答えよお前達! 直立し答えてみせよ! 

 へとなが人集りから顔を出すと、4m先ぐらいに段ボールを台車に載せてその側で何かをしている男性がいた。彼は足元を見ている。そこは何か茶色いもので1.6m四方ほどがまだらになっていた。

 へとなは今一度男性の手元を見た。彼は何か紙の包みを開いているところだった。よく見るとそれはどうやらハンバーガーのようである。

 男性はハンバーガーを手に持ち包み紙を側の段ボールにしまうと、ハンバーガーを地面に直に置き、左足で踏んづけた。ハンバーガーは見事に潰れ、足元の茶色いまだらの一部となった。それはつまり、何十個もの食物であるハンバーガーを足で踏み潰してまだらは作られたものらしかった。

 人集りは何か嘲るようなヒソヒソ話をしたり、携帯で写真を撮る際のシャッター音をさせたりしながら、奇異の目でそれを見ていた。

"げえ、ハンバーガー踏んづけてますよ、あの人。もったいない。甘山って、こんなことするんですかね。"

 それを一番良く知っているのはお前のはずだろう、と江藤はのどまで出かかったが、そのハンバーガー踏み男に丁度そのまだらの前にあるクラブか何かの従業員が出てきたので、自然と消滅した。

"あのねおじさん。ここ公共の道路よ。それをこんなに汚されちゃ、たまったもんじゃないよ。早く片付けて。ここ、ウチの店の前なの、わかる? 道路通りづらくなってんじゃん。これじゃあ、うちの営業妨害してるって、警察呼ぶことになっちゃうよ。"

 しかしハンバーガー踏み男はその呼びかけを無視してハンバーガーを踏み続けた。

 どうやら手を出してはならぬと考えている従業員は、ハンバーガー踏まれる様を無視して店内に戻り、7〜8分程経って、今度は3人で店内から現れて、ハンバーガー踏み男を取り囲んだ。そして今度はさっきとは別の従業員が、ハンバーガー踏み男に何かを言っていた。おそらく警察に連絡したとでも伝えているのであろう。手馴れたものである。

 だがそれでもハンバーガー踏み男は動じない。

 すると取り囲む3人の従業員の一人が

"こんな食べ物を粗末にするなんて。世の中には食えないで死ぬ人もいるのに。何考えてんだこいつ。"と言った。

 すると、その言葉を聞くや否や、ハンバーガー踏み男は殺気立って動き出し、

"いくらお前達が食べ物を粗末にするなという言ったところで消費経済のためといって、大量の食糧を輸入したり商品価値のためといって商品廃棄ノルマを作る時点で、もう飢えの構造システムに加担しているんだ。いくらお前達が食べ物を大事にしたって、物流の労働をしないならばそいつらのところに食べ物はいかねぇんだ。本当に飢えを止めたいなら、企業の食糧サプライチェーンを制限して、飢えたその土地や人々がその土地で食べる物を自分達で作れるようになる環境を作ることだ。後給料を上げてスタグフレーションを避けろ。"

 とまくし立てた。

 なので、従業員達はキョトンとしていたが、すぐに、

"ごたくはどうでもいいからそのゴミをさっさと片付けろ!"と怒鳴った。

 それは愉快なショーだった。甘山の若者達はそれを見て笑っていた。

 へとなの後ろにいた江藤は周りの人々を見渡した。そして不意に上を見仰ぐと、3人の従業員が出てきたクラブの店の建屋の上に、下の一部始終をのぞき見るかのように、大人一人分ほどの巨大な新月を横倒しにしたような鋭利な形の顔と、鋭い爪をこちらに向けた『アシュラ-レクトル』に登場する宇宙海賊、魔業の蜂ヴィアクトー・ジュアンがそこにいた。

"ウシシ。こいつら全員、食っちまおうか?"

 ヴィアクトー・ジュアンが言った。

"いや、止めておけ。"

 その言葉が江藤に向けられて言われたかどうかはわからぬが、江藤がそう答えてみると、それを言い終わる前にヴィアクトー・ジュアンは大きな翅を広げ曇天を見据えると一飛びで飛翔し、そのいびつな黒い影はあっという間にいなくなった。

 それから江藤は自身を、慈悲のない透明な猟奇という、サーカスの巡業のようなもののクラウンとして自身は働いているのだ、という意識を持つようになっていた。



***


 へとな一時は江藤との結婚についても考えていたが、最近の彼の変貌ぶりにその自信がなくなっていた。失職してからの彼は精神的に不安定になっており、躁と鬱を非常に早い頻度で繰り返すことがあったが、そんな江藤にへとなが必死に関わり、なんとか自制を保たせようとしていた。しかし、甘山の一件でそれは決定的に狂った。その時のへとなは、江藤のためというよりか、自身の息抜きに江藤を何も考えず楽しんでくれればいいと連れ出してしまったことを後悔した。あんな所に自分が行かなければ、江藤はここまで狂わなかったかもしれない、それはへとなをさらに苦しませた。そして、江藤といると楽しくて有意義なだと思う気持ちと、自分が苦しいと思う気持ちが拮抗し、徐々にネガティブな方が上回らんとしていた。しかし彼女には、まだ江藤をメンタルクリニックに連れて行くことは、もともと健常であった江藤を追い込んだのは失職が起因であるだとか、そうゆうことを考えるゆとりはなかった。そんな中で自身の江藤への好意が大きく揺らぐことがあった。

 ある日、へとながいつものように江藤の自宅に行くと彼は玄関の前で上半身裸でひざを抱えて座り込んでいた。すぐさま駆け寄って一体どうしたのだと尋ねると、ジュアンという女性に外で待っていろと言われた、と言うのだった。その時のへとなの激情は想像を絶する。自分がこれだけ献身的に尽くしているというのに女を連れ込んだのか! へとなはまずもってその女の顔を引っ叩きたいと思い、江藤を突き飛ばして室内へと押し入った。しかし、人気はない。そんなに広い部屋ではなかったので、室内を隈無く探したが、誰もいない。不思議に思ってへとなが玄関の江藤の首根っこをつかんで連れてきて、ジュアンという女性はどこにいるのかと尋ねると、彼は机の上を指差した。そこには一本の軍用ナイフが置いてあった。いよいよわからなくなってきたへとなは、どこにも女なんかいない、と言ったが江藤は軍用ナイフを指差して、ジュアンだジュアンだ、と言った。さすがにイライラしてきたへとなは、机の上の軍用ナイフを持ち、これはナイフだ、女でもましてやジュアンとやらでもない、と叫んだ。

 すると江藤は凄い剣幕で近づいてきて、へとなの頬に平手打ちをした。

 へとなは運良くベッドの上に倒れ込んだ。そしてそのままベッドに顔を埋めて泣いた。しばらく泣いて、顔を上げるとこう言った。

"センパイ。元のセンパイに戻って。じゃないと私、大好きなセンパイのこと、嫌いになっちゃう……。今のまま一緒にいたら……。"

 これは、その体勢からは考えられぬような必死の懇願であった。今のへとなには、狂人の江藤とどう接してよいかわからず、これが狂人への応対として正しいかどうかはわからぬが、泣きつくことしかできなかった。この時へとなは初めて、自身の明朗明快のみでしかなかった世界が、江藤のような奇妙奇天烈で狂った世界が触知できるものとしてあることを、知ったのだった。しかし、彼女は江藤にはなれない。ただ彼に振り向いて欲しいだけである。

 対して江藤は何故か先程までの狂人とは打って変わって正常であるかのような顔をして、

"う〜ん……。ちょっとわかんないかな。"と言った。

 この時、江藤とへとなの破局が決まった。


 へとなが江藤の自宅から出てくると、外には高川がいた。

"ちょっと取り込み中かと思って。本格的な騒動になったら乗り込もうかとも考えたんだけど、憔悴しょうすいしているようだね。ちょっとお茶でもしないかい?"

 と高川に誘われた。


"そうなんです。もう先輩、私じゃどうしようもないんです。言動もどんどんおかしくなってて。このままだと、私も壊れちゃいそうで……。"

"そうか、へとなちゃんはとても良くやっているよ。俺も何度か江藤の所へは行ったが、やっぱりもう俺達の手に負えないよ。へとなちゃんは、あいつの両親のこととか、知ってる?"

"いいえ。なんか先輩、実家と仲悪いみたいで。全然話してくれないんです。"

"うーん。とりあえず実家かどこかにでも保護してもらわないと、今のあいつ何するかわかんないし、最悪衰弱すらも考えられるかもしれない。……よし、とりあえず来週の土日のどちらかに、江藤をメンタルクリニックに連れて行って診察してもらおう。それで今の状態から改善すれば良いし、もし何かしらの病気が見つかったら、そこから公的な支援につなげられるかもしれない。まずは一歩。俺一人じゃ大変だから、嫌かもしれないけど、へとなちゃんにも手伝って欲しい、お願いできるかい?"

"……。高川さんはそうやって手まで握って弱目の女の人につけ入って、ものにしていくんですか? 先輩から聞いてます、良い奴だけど色恋が派手だって。先輩についてはもちろんお手伝いします、させてください。私はまだ先輩が治ってくれるって信じてますから。"

"そう思わせてしまったのならすまない。そのことについてはおいおい。じゃあ、次の土日に俺が江藤を病院に連れて行く。君は少し休むといい。ちょっと疲れてるだろう?"

"はい、わかりました。高川さん、先輩をよろしくお願いします。"

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