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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
34/62

終章①



*終章*


 江藤は執筆中の小説『アシュラ-レクトル』をスペースオペラ調の作品にすることを決めた。そしてその作品の中に、「難民」と「気候危機」を組み込むことも決めた。しかしそれは、彼に別段深い視座があったからということでもない。ただ彼の目にそれが世界の有り様として目に入り、自分が世界を創るならやはりそれは考慮しなければならないだろうと思ってのことである。ゆえに、その二つが組み込まれているか否かで作品が優劣決まるものでもない。ただ作り手の世界にそれがなかった、異郷の地であった、それだけのことである。

 小説の書き方など読んでいただけでまったくわからなかった江藤は、原稿用紙を前にまったく手が動かなかったので、とりあえず部屋のタンスのすき間からほこりまみれのノートを取り出すと、ほこりを払い、思いつくままに『アシュラ-レクトル』のことについて書き出し始めた。主人公は夏ヶ魔宮カキという女性であり、彼女は宇宙をまたにかける大盗賊団"ニュー・ビル・サマー"のリーダーである。その仲間には

ブラディの愛称のロレント・カルロ、ファントム愛称のクロフォード・シュルツ、リフォウ愛称のトルターチ・アレックラスがいる。この4人組がどのくらいの宇宙の規模を活躍するのか、それは技術テクノロジー的な面や精神風土の面もあろうでまた整ってはいないが、そんな宇宙を舞台に大立ち回りの痛快冒険物を描く、そんなスペースオペラを想像していた。

 ここまでこの作品を読んでくださった読者諸氏ならお気づきのことと思うが、この夏ヶ魔宮カキというヒロインが率いる盗賊団"ニュー・ビル・サマー"とは、サリヴァの地においてラーネトウィン・アウルスタが率いてその地を偉大に発展させたギャング団と、まったく同じ呼称である。そしてその構成員がブラディのカルロ、ファントムのクロフォード・シュルツ、リフォウのトルターチ・アレックラス、というのもまったく同じである。これが偶然の一致として片付けてよいであろうはずもなく、またかつて江藤がカーヴィンの科学宗教ポノウェにその神性を認められサリヴァンの地に招き入れられ、真エドウという謎のアルターエゴまで創り出したとなっては、なおのことであろう。今まさにこの作品において江藤という存在は、世界の単一性を破壊し世界が複数であると自覚させるどころかその境界を融解させ接着を図っているという、奇妙な動きをしていた。しかし当の江藤本人はそんな気など微塵も無く、ただ一人で黙々と思索に耽っているのである。


 江藤はもう思いつく限りのものを書き、もう何も湧いてこないとわかるや否や、書く手を止めてちゃぶ台の席についたままごろりんと寝転んだ。ちょうど壁との間に上半身がぴったりと収まった。江藤は天井を見ていた。今の彼は貯金を切り崩して慎ましく生活していたが、不思議と不安はなかった。それはといえば、サリヴァンの地を真エドウに追い出されてから正確にはわからなくなってしまったのだが一月半は経とうと思われるが、時を経れば経るほどサリヴァンでの生活というものが、臭いや味や肌触りのような生々しいものはきれいに払拭されながらも、その存在をさらにさらに大きくなったさ、ついには江藤の中で無味無臭の巨大な美しく透明なガラスの宮殿になっていた。そこはまさに永久不変のもので彼の中ではあった。しかし実際のサリヴァンは、ラーネトウィン率いる紅市装兵団によって戦場と化していたのであるが。それはまさに、海の向こうの対岸で戦争が始まっており、江藤はただそれを眺めているだけ、ということであろうか。残念ながらその通りであり、彼に出来ることといえば、その戦火の中で斃れていく人々に対し、その苦痛を思うに自らの矮小な体験とそれを重ね合わせて、勝手に涙するぐらいであった。なぜなら江藤の中のガラスの宮殿のサリヴァンとは、臭いや味や肌触りもない無味無臭だからである。少なくとも今の彼の身体感性は、そのガラスの宮殿のサリヴァンから生の感覚を掘り出すことはできなかった。

 江藤は鉛筆で鼻先を擦りながら、では『アシュラ-レクトル』にいかに「難民」と「気候危機」を入れるかを考え始めた。とはいうもの、創作において、この二つの要素を入れることが、満点解答であるかと問われれば、首を傾げざるをえない。第一、江藤がこの『アシュラ-レクトル』をどういった形で世に出すのか、へとなと話した職業作家になるということすら、彼自身には曖昧なものであった。それは、江藤にとってのサリヴァンのガラスの宮殿無味無臭とは、別にサリヴァンに対してのみ立ち上がってくるわけではなくて、今江藤が生きている世界、この世界、へとなやカフェーの店長や自宅アパートメントの隣人や馴染みのコンビニエンスストアや、そういったものすらも、ガラスの宮殿無味無臭なのであった。実はそこにこそ江藤が「難民」や「気候危機」を扱った理由があり、この江藤の身の回りのガラスの宮殿無味無臭な世界において、それら二つが目に入った時、何か感ずるもの、音を感じたからであった。ゆえにそれは前述の通り人権や倫理といった高い視座ではなく、彼の生身の感覚としての生理機能であった。それは、5歳の幼少の頃のエドウが、サリヴァンの歴史をカーヴィンから読み聞かされて、可哀想、助けてあげたい、と言ったことと似ていた。そういう意味では、彼は5歳の頃の自身の身体感覚に少しずつ戻っていく萌芽ともいえた。しかしだがそれではきっと、江藤が職業作家となることは順風満帆と行きそうな気配はなかった。

 すると、江藤はガバッと起き上がると、何かを思いつき書き物を再開した。それは、『アシュラ-レクトル』内で主人公の夏ヶ魔宮カキの好敵手である宇宙海賊、魔業の蜂と呼ばれる怪物、ヴィアクトー・ジュアンを思いついたからであった。



***


"つまりな、政治屋のジイさん達ってのは、腹芸で民衆にはおどけて馬鹿を見せておいて、その実ちゃっかりとことは進めているというもんだ。本当、一流の役者というよりかは、詐術士さ。会社でだったら古狸のキレ者だぜきっと。"

 友人の高川が酒の勢いでそんなことを息巻いてみせたが、それに関して言えば江藤は特に思うことはなかった。高川は学生時代からの腐れ縁であり、たまにこうして酒を酌み交わすことがあった。彼は物静かな江藤と対照的に快活でスポーツマンであり、仕事もよくやり大飯食いで、大声で話すものだからよく唾が飛んだ。これが無能であったなら悪点以外の何ものでもなかったが、その点高川は有能であった。

 高川は江藤が一切手をつけない二人の間に並べられたつまみをガツガツと食べながら、それらをすべて酒で胃の中に流し込んだ。

"ところで江藤、お前仕事を辞めたんだってな。今は何をしている?"

 高川が真正面でその分厚い顔を江藤に向けた。

"俺は今、小説を書いているんだよ。"

 気心が知れた仲だからこそ、こいつだけには見せたくない、そんな自制心も江藤の中にはあったのだが、つい聞かれてするりと口から漏れてしまった。

"おう、小説か。お前らしいな。どんなもんなんだ、教えてくれよ。"

 さすがにこれ以上恥を晒すわけにはいかないと江藤が濁していると、

"その程度でものを語ろうなんざぁ、大したことなんかできねえぞ。いや、三日坊主が関の山だ。"

 さすがにそれを言われてカチンときた江藤は、手荷物の中から一冊のノートを取り出すと高川へと突き出した。それはスペースオペラ『アシュラ-レクトル』のアイデアノートだった。

 高川は訝しみながらそのノートを手に取ると、ハンカチで机の上を拭いてからノートを広げて読み始めた。内容を吟味しながら口をへの字に固く結んだ。こういったものを、偏見からはなから馬鹿にしたように決めつけることをしないことが高川の美点の一つでもあり、普通なら馬鹿にするであろう江藤という奇人を馬鹿にしない辺り彼もまたどこか違っていたのかもしれない。

 その間江藤はちびちびとソーダ割りを飲みながら待っていた。

 ノートをぺたりと閉じた高川は、ありがとう、と一言添えて江藤にノートを返した。そして、少しばかり沈黙した後、

"こういった突飛なイメージで社会風刺を描くというのはあり得るかもしれない。飯の種になるかどうかは、運と売り方次第だろう。しかしだ。お前にどれだけ物を書き語れるか、奇人のお前に。それがわからない。そこでだ。俺はこれから実は政治経済の勉強会に行くんだ。酒を飲んで参加するくらいだ。そんなに格式ばったもんじゃない。車座で話し合うみたいなもんだ。よかったらお前も顔を出してみないか?"

 江藤はまずもってけなされると内心おびえから解放された安堵でつい後先考えずに頷いてしまった。


 それから江藤と高川は、実は今日お前と飲んだのはその勉強会で八姫きたの駅に来たからなんだなどと赤ら顔で照れ笑いしながらさらにコンビニエンスストアに寄り酒やつまみを買い込むと、少し歩くがすぐだからと、徐々に日が隠れる道を二人で歩き出した。

 こんなほろ酔いで行う勉強会なんぞ一体何なんだ、江藤はそんなことを思ったが、前を歩く陽気な高川に付いていく。しかし江藤に政治への興味や学ぶ意欲、責任感があったかといえば、まったくない。しかしそれが安直に参政権放棄のようなことを示すというわけでもない。だが『アシュラ-レクトル』の中で扱う「難民」や「気候危機」は極めて政治的な課題であると言えたのではないか? それは言わずもがな、であるのだが、江藤がそれらを政治として扱おうとした途端、それらの音は崩れ去り無味無臭の透明なガラスの宮殿の中へと収納されてしまうのだ。それは彼が二つの政治的課題を自慰のために使っていると言われても弁明のしようがないが。ではその政治とやらでも解決できる極点にありえないのならば、江藤個々人の世界想像の中に、それを組み込んでいくほかないのではないか、ただそれだけである。

"ここだ。ここが勉強会だ。"

 高川がそう言って立ち止まった前は一軒家で平均的なサラリーより少しばかり背伸びをした者が買うような、プチブルといった趣きの家であった。表札には「阿部」と書かれたすぐ横に『民草の政治経済の勉強会』と表札より大きく木彫りの札がつけられていた。インターフォンを押して挨拶をすると、品の良い女性の声がして、戸が開くとその声の主と思われる60代の女性が笑顔で迎えてくれた。

 高川と江藤は女性に誘われるがままに框を上がり、応接間へと案内された。その意の通りに革張りのソファー二つの間に高級な机が置かれていたが、それを囲むように種類もバラバラの椅子が何脚も置かれており、その雑然さからあたかも運動部の部室にも見えた。高川と江藤が椅子に並んで座ると、後からぞろぞろと人が入って来て、椅子はすべて埋まり、最後に来た一人などは立っていた。

 60代の女性がもう一脚椅子を持って来ると、続いて70代ほどの白髪の老人が和服で紙の束を抱えて現れた。老人からその紙の束が人々の手を回ると、一部ずつ紙の資料を抜いては隣へ回し、高川と江藤も取った。すると、さっと現れた女性が老人とあうんの呼吸で人数分のコップと酒瓶を机に置いた。言わずもがなだが、老人と女性は夫婦である。老人はコップに酒を注ぐと、それを次々と参加者達は取っていった。江藤も高川にならって取った。老人の"乾杯!"の一言で皆が酒を仰いだ。非常に美味い、上物の酒だった。酒を皆が飲み干したのを見て老人が喋り出した。

"本当に有益な議論は、腹を割って相手の懐に入って話さなくちゃ意味がない。本当は会食でもすればよいのだが、何分こちらに金と体力がないもんで、どうかこの一杯の酒でご容赦を。では今回は、ハイテク産業と資本主義の変化、そして最近流行りの脱成長について、話し合いたいと思う。"

 そうして老人が紙の資料を元に話を始めると、途中で参加者が挙手して声をかけ、質問が起こると、皆で意見を言い合い、忌憚のない議論が進んだ。高川も積極的に発言していた。その場は互いに尊敬と配慮を持った緊張感の心地の良い場であって、皆がもう成人したよい大人でありながらも、青春時代の情熱のような若き血潮を互いに各々の中に感じていた。

 しかしそれに対して江藤ただ一人は居心地の悪さを感じていた。何故居心地が悪いのか? これが高川の見せたがった物を語る人ということなのか? 江藤はとりあえず考えてみたが、ただ何かが、目に見えない何かがついて圧着してきて、息ができない、そんな心境だった。彼はいつしか資料を手から滑り落とし、今の自身の状態をつぶさにアイデアノートに書き殴っていた。そして、トイレに行くふりをして応接間を出ると、そのまま家を飛び出した。辺りはもう閑静な夜で街灯だけが白く煌々と輝いていた。夜風を吸った江藤は幾分か気が楽になった。すると、高川から電話がかかってきた。高川は電話口で、江藤にはまだ勉強会は騒々しすぎたかもしれない、話はこちらでつけておくから心配しなくていい。だが、荷物だけは取りに戻らないか、と言われた。江藤は今来た道を振り返った。しかしその道は高川と来た道とは全くの別の道となっており、勉強会の家に行くことは不可能であった。これは、江藤の心理作用がそう見せていたのかもしれないし、実際にその道が全くの別の道に、つまり道が消滅又は変形してしまったかのかもしれなかった。江藤は高川に頼んで今日はその荷物を高川に預かってもらって、後日取りに行かせて欲しいと言った。

 高川は要領を得なかったが、渋々承諾した。



***


 江藤は疲れていた。というよりも、生きる活力の総量が徐々に徐々に減っていき、疲れが早く出るようになった、というのが正確かもしれない。おそらくメンタルクリニックにかかれば抑うつ状態であり初期の時には鬱症と診断されるであろうが、当然そういった類のものではないとわかっている江藤自身は、病院にかかる気はなかった。しかし、えてして患者本人に自覚症状があることは少ない。それよりちまた江藤にとって差し迫った喫緊の課題というものが、あの高川に連れて行かれた勉強会以降、江藤の生きる身の周りの世界が、少しずつ少しずつ、カチリカチリとルービックキューブのように変形して、見える面が変わってきている、というものだった。今まで何となく歩いていた道や駐車場や歯医者の看板や児童公園やコンクリート壁が、形は以前とまったく同じなのだが、そう、色が変わった、色が変わった、そうとしか言えないのだが、決定的に何かが変わったのだ。江藤はその自身の中の心象現象をつぶさに観察し、その以前以後と関係した何かを推察したが、安直にあの勉強会が原因である、とは考えなかった。しかしそれが彼に何らかの影響を与えたのは確実であり、だがそれと似たような事象を江藤が潔癖に意識的に避けてきたわけでもないので、では何故今回のみ強力に作用したのか、それを探るべきだと考えていた。今の江藤の中には、三つの概念世界、『アシュラ-レクトル』の創作世界と、かつて生きたサリヴァンの無味無臭のガラスの宮殿世界と、そしてこの前の政治勉強会に代表される江藤の今生きている無味無臭の政治世と、がギュウギュウに詰め込まれ、そう質量の異なる油同士が互いに混ざり合うことなく確かな重みを感じさせながら彼が動く度にグルングルンと激しく揺れた。しかし、前述した文章の中に、「江藤は複数の世界の境界を融解させ接着させている」とあった。なれば、たかだか三つの概念世界の統御など造作もないのではないか? したがって、江藤の今の状態とは、前述の機能とは異なるレベルに入っていたのである。大業に言えば、江藤は進化していた。彼はただ大工のように材料を切り出し組み合わせ世界を作るのではなく、材料となる物質そのものを創造しようとしていた。その新たな機能によって一体全体どんな材料・物質・世界が出来上がるのか、江藤本人にもわからなかったが。


 一日四中疲れて足取りの重いことが多くなったが、食わねば生きられんと餓鬼の根性で駅前のコンビニエンスストアに買い出しには行った。やはり自室では幾分ましなのだが外に出ると見る度に見える面の色、世界は変わっているように見え、それは何度あっても慣れるものではなかった。もはやこれは明らかに精神失調の様であった。

 駅は高架にあったので、階段で上がろうとすると、階段の入り口のところで男女が二人揉み合っていた。江藤はその生活的身体感覚の延長線上でありながら非日常として異化されるであろう闘争の様に、ただただ呆然としてしまった。しかし実際は、男の側が一方的に力強く、女を痛ぶっているだけであり。女はよく見てみるとあまりキレイな身なりとは言いがたく、どうやらホームレスのようであった。このままでは女は殺されてしまうかもしれない! そう感じた江藤は近くにある交番へと駆け込んだ。そして、男が女に暴行を加えていることを伝え、一緒についてきてもらうと、揉み合う男女はもうそこにはいなかった。

 江藤は警官から注意を受け、その日は帰った。

 そして翌日である。江藤がまた同じ道でコンビニに向かっていると、昨日とまったく同じところで同じ男女が揉み合っていた。今度こそはと交番に駆け込んだが、やはり戻ってみると二人はいなかった。

 そしてまた翌日、やはり二人は揉み合っていた。何故江藤自身が揉み合いの仲裁に入らず、必ず警官を仲介するだけなのか、それはわからなかったが、さすがに三度も交番に嘘の駆け込みをしていると思われていた江藤は、警官にたらたらと説教を受けたが、この間に女が死んでしまったら警察の責任問題だぞと脅して引っ張り出したが、やはり誰もいなかった。警官は訳の分からないやつに絡まれたと辟易した顔をしていたが、それは江藤も同じであった。一体この世界で何が起きているのか? 男女の暴行は自身の幻覚であり本当は何も起こっていないのか? もしくは警官が来たから隠れ、何もできないしない江藤の前でだけその凶行を露わにし、彼を試しているのか? 何故毎日彼らは同じ場所で同じ行為、を機械のようにするのか? そして、自分江藤は何をすれば正解なのか? 結局、やはり男女はいないのである。江藤は悩んでいた。

 そして四度目である。この時はこの事態の成り行きを知りたいという興味も少しばかりはあった。いつもと同じ、階段での昇り口で男女は揉み合っていた。そうだ、何故行き交う自分以外の通行人は何もしないのか? 江藤は見回すが人通りは少ない。いるにはいるが、江藤は何故か声をかけることもしない。そしてその間も暴行は続いている。そうだ、三度てして何事もなく翌日には元気に暴行が繰り返されているのなら、この男女の暴行は明日も明後日も明々後日も元気に繰り返されていくだろう、だから。このまま放っておいても問題はない。もう自分にできることはない。そう言い聞かせて何もせずその場を通り過ぎた。

 ゆえにその日は暴行の結果がわからずもやもやとして一日自室で過ごしたので、気晴らしの散歩と言いながらその暴行現場を見に行った。するとそこにはいつもとは異なる人集りができていた。何台かのパトカーが夕日で薄橙色に染まり、人集りも主婦から背広姿から学生まで帰宅中の人々でごった返していた。江藤は人集りを押し退けいつもの暴行現場を見た。その7m先の階段の昇り口で警官に押さえつけられる男と、警官達に囲まれてぐったりと地べたに座っている女がいた。彼女は上半身がベッタリと血まみれだった。その女の取り巻きの中になんと高川と勉強会の老人がいた。推察するに、高川と勉強会の老人が第一発見者で、揉み合いを仲裁しそして警察を呼んだのであろうか。

 江藤がその様を凝視していると、ふいに高川がこちらに向き、江藤と目が合った。江藤は心臓をつかまれたような気がして、慌ててその場から立ち去った。


 そして、その夜。高川が江藤が勉強会で忘れた手荷物を持って、江藤の家に訪ねてきた。江藤は要件はわかっていた、男女のについてであろう。

 高川は他愛もない近況報告から楽しげに話し始めた。もちろん、男女の暴行は省いて。そしていくらか話し終えた口を水で潤すと、しっかと江藤の真正面を向き直して、

"すべて警察で聞いたよ。お前はあの暴行を知っていて警官を連れて行ったそうだが、忽然とその姿は消えて無くなっていたそうだな。警察からは、暴行を知りながら見過ごしていたんじゃないかと責任問題になるかもしれないからあまり口外しないで欲しいと。勉強会の先生はえらくご立腹だったよ……。何、俺はお前を責めてるわけじゃあない。お前が警察を呼んだのは正しいと思うし、何よりお前の腕力じゃもし分入ったところどお前がボコボコにされてたかもしれない。俺が聞きたいのはな、こうだ。お前は内心、あの女性が死ぬことを良しとしていたんじゃないか? あとあの女性は血だらけだったが命に別条はないそうだ。"

 江藤は高川の言葉を最後まで聞かずに反論した。

"違う。違うんだよ……。女性への暴行は止めなければと思っていたんだ。でも結局、俺には何が出来たというんだ? 高川はあれを止められたが、俺は止められなかったんだよ。"

 するとすかさず高川が、

"じゃあお前も鍛えればいい。あの女性の暴行を止められるように、強くなればいい。"と言った。

 しかし、江藤はそれにどこか納得のいかない、不服そうな顔をしていた。

 すると高川は目の前のテーブルをバンッ! と叩くとにやりと笑った。

"お前もまた、愚かに逃げることしかできない命よ。その果てに何がわかるか? 哀れな異形、哀れな義肢、哀れな去勢。"

 高川はそう言い捨てて玄関にすたこらと行くと、

"持ってきてやった荷物の中に手土産を入れてやったぞ。"

 と残して去っていった。

 江藤は齧り付くようにその手荷物の中をのぞいてみると、中には一本の軍用ナイフが入っていた。



***


 地下アジトを襲撃され散り散りになった地下アジトメンバーだったが、ココとモンズダイストはジョウザンした芸術家の化身、グラフィティーアーティスト・ウィッチリムの手引きでまた一つに集結しつつあった。そしてそれに先んじて主要メンバーのファントム、子供の指の城の子供達、真エドウ、そしてそこに記憶の根の列車に乗ってサリヴァンにやって来たカムギとダヴィ、パル、古代樹の一族コ・オーも合流し、合わせて13人が紛争で奇跡的に被害のなかったバー・モントルイユに集まることになった。

 顔を見るなりひざをついて泣き崩れたのはファントムだった。

"ココ、無事だったんだね。よく生きていてくれた。よくぞ生きていてくれた。"

 しかし、カウンターに回り込み彼女に足がないことに気づいている気づくと全身が硬直し、感情が一瞬で死んだ。

 ココは椅子の上に座り、モンズダイストに手伝いをしてもらって作業をしていたのだ。彼女は笑いながら言った。

"ファントムさん。自分を責めないでください。貴方は何も悪くありません。元はと言えば勝手に抜け出した私の責任です。それより、この背丈から見る世界というのは、今まで見えてこなかったことも見えて、結構楽しんでもいるんですよ。それよりモンズダイスト教授をお給仕さんのように使ってしまって、ちょっと偉くなった気分です……。"

 ココは照れながら言った。

 その時ファントムは、虚勢ではない、ココの強さを見たような気がした。

 モンズダイストみ優しげに笑いながら、ファントムをカウンター席へと案内し、ココの淹れたコーヒーを置いた。

"すいません、モンズダイストさん。パルさん達にも、コーヒーを持って行ってくれませんか?"

 モンズダイストがコーヒーを三つ持って奥のボックス席に行くと、そこにはパルとカムギとダヴィがいた。

"ねえ、おじさん。何が甘いお菓子とか、ない?"

 食糧を探す小動物のようにジロリンと目を動かしながらパルはモンズダイストに尋ねると、カウンターのココが、

"あ、カクテルに使うアイスクリームならありそうです。"

 と言った。

 するとパルは、

"じゃあそれ! それちょうだい!"

 と言って席を立ち、づかづかとココのいるカウンターへと入ると、タッパーに入ったバニラアイスクリームを、大ジョッキの中へとドカドカと詰め込み始めた。彩りだからといってカクテルに使うであろうフルーツを乱雑にむしって大ジョッキの中に入れ、また上からアイスクリームをのせた。

"チョコソースはないの、チョコソース。チョコでもいいわ、パフェになる……! あ、あるじゃないチョコソース、こんなところに。"

 パルが冷蔵庫の中を漁っていると、

"パルさんそれチョコレートリキュール、お酒よ。"

 とココが言った。

"ヘーキヘーキ。私ラムレーズンのアイスとか洋酒漬けのお菓子とか大好きだから。"

 そう言ってパルは取り出したチョコレートリキュールをアイスクリームとフルーツの入った大ジョッキにだぶだぶと注ぎ入れた。そして自分の席に戻るとマドラーで器用にすくいながらチョコレートリキュールまみれのアイスクリームとフルーツを大変美味そうに口へと運んだ。


"ところパルちゃん、あの狼っ子はいったいどうしたんだい?"

 と、カムギが辺りを見渡した。

"知らない。オーさんは、なんか外で待ってるんだって。"

 それを聞いていたモンズダイストは何か思うところがあったようで、今にも駆け出したい衝動をその紳士たらんとすり意志で強固に押さえつけながら悠々とした足取りで出入り口のドアへと手をかけた。勢いよくドアを開けると、そのすぐ横で、コ・オーが俯き佇んでいた。モンズダイストは息を飲んだ。十代の青春期に恋した少女が、そのままの姿でそこに立っていた。しかし五十年余りの歳月は、そうやすやすと二人の間の隔たりを取り払いはしなかった。

 コ・オーは俯き黙っていた。

 モンズダイストは彼女を見下ろしていたが、言葉が出てこなかった。何を言っていいかわからなかった。しかし意を決して、

"オーちゃん、あの頃のままだ。あの頃の、美しい君のままだ。"

 そのモンズダイストの声にほとんど同時に反射して、コ・オーは彼を見上げた。その大きな瞳はキラリと潤みながら、胸の高鳴りのためか頬は紅潮し熱を帯びていた。

 二人は無言で見つめ合った。見た目はアンダーティーンと六十代老体の様であったが、お互いの五十年分の隔たりは、三秒ほどの一言で埋まった。

"やっぱりだ。あの頃と変わらない、強く気高く美しいオーちゃんのままだ。対して僕は、こんなおじいさんになってしまったよ。"

 モンズダイストはコ・オーから視線を外し、空を見仰ぎながら照れ隠しに頭をかいた。

"……ウィリアムのそのクセは、昔と変わらんようじゃな。照れると空を見て頭をかくの。それにその瞳の情熱に燃える色は、若い頃も年老いた今も何一つ変わってはおらんよ。"

 と、コ・オーは見上げながら言った。この二人はこれからラーネトウィンと共に戦う仲間というよりも、あまりにも私情を混ぜすぎていた。

"また昔のように、なれるのかな……。"

 モンズダイストは甘えるような声で言った。

 コ・オーはモンズダイストの顔から視線を外しながら、

"わからんな。ところでウィリアムは、所帯は持っておらんのか。"

 と尋ねると、

"そうだね、活動に熱中し過ぎて、家庭を持つことを遠ざけてしまっていたかもしれない。それに。君よりも魅力的な人に僕は出会えなかった。"

"それは大変じゃ。儂のような魅力的な女に会ってしまったのが運の尽きじゃな。"

 彼らは大変楽しそうに互いに甘い軽口を叩き合った。それはいくら時を経ようと、紛れもない青春であった。

"とりあえず中に入ろう。君の好きだったミルクセーキをも作ろう。まだ好きかい?"

 モンズダイストが微笑むと、

"また飲めるのかっ!? 儂はあれ大好きじゃ!"

 と言った。


 モンズダイストがコ・オーを店内へと誘うと、そこに一組の男女が駆け寄って来た。

"モンズダイストさん! ここでしたか! みなさん揃っていますか?"

 胸で息を切りながら来たのはイシエとディオであった。

"イシエさん! ディオさん! よくぞ来てくれました! 皆さん中でお待ちですよ!"

 モンズダイストが他の女性と話している姿を見て、コ・オーは少しだけムッとした。



***


 そして全員が揃うと、店内の物陰に隠れていたがヌッと現れた真エドウが、

"では全員揃いましたね。それでは。これから先、我々がいかに行動を為していくか、話し合いたいと思います。"

 と言った。

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