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未完結「A-レクトル」  作者: 牝牡蠣
アシュラ-レクトル
29/62

三章⑨

***


 パル達は四日間に及ぶ長旅を終え、古代樹の元へとたどり着いた。そこは、荒野の窪地にできた森林地帯であり、窪地ゆえ上からその森の全容をうかがうことができるのだが、もともとはもっと広かったであろう禿げ上がっていったのか、周縁部分はくたびれ死に絶えた茶色になっていた。ここで、カムギとダヴィに一悶着あった。古代樹の中へと、ついて行くかどうか、ということであった。

 カムギが言うには、古代樹は神の住まう聖域であって、パルのようなお告げでもない限り、安易に入るべきではない、ということであった。

 これに対しダヴィは妹を一人で深い森の中へと行かせる気かと反発した。

 カムギが神や聖域などを信ずるのはいがいだったが、ダヴィの意見ももっともなので、パルとダヴィが縄でつながってバディとなって一緒に古代樹の中へと入ることとなり、二人とも発煙筒を持ち、何か異常が発生したらそれを使って古代樹の外で待機していたカムギが駆けつける、という手はずになった。しかし、腰を縄でつながれてしまっては、もし野生動物に襲われそうになった時には逃げる際に邪魔ではないかとパルは思ったが、何よりダヴィがそれを強く望んだのでしぶしぶ承諾した。というのも、お告げを受けたパル自身は、古代樹の中でそういった危険は起きないとおぼろげながら確信していたので、別にどうでもよいのであった。

 パルとダヴィはリュックに必要物を入れ、腰のベルトで様々な装備を付けると、行き先はパルにしかわからないのだが、ダヴィが無理を言って彼が先頭になった。


 すると、古代樹の中にに入ると、パルが真っ直ぐ、右だ、左だ、行き過ぎた戻れ、等を後ろで叫びながら、ダヴィが挙動不審に進むという、チグハグなものになった。

 古代樹の中は青々と生い茂り、木漏れ日のようなものは一切なく、むしろどんよりとしていて暗かった。もちろんこんな場所はパルも初めてだったが、好奇心より恐怖の方が強かった。パルはそれを、怪物を生み出したある一つの方法が、フランケンシュタイン博士よろしくでもなければ、核実験でもない、遺伝子の改変という生命すなわち私内部の聖域から生じてきたものだと感じた。パルにとって、この古代樹の中に茂る葉枝は、そういった遺伝子の聖域から立ち上がってくる圧倒的な恐怖であった。しかし、パル自身の生い立ちからいえば、彼女は幼い頃から科学宗教ポノウェで過ごしており、それこそ白狼や放射能を放つ怪物、劇薬アシュラによる変態等、そういった事象には多少なり免疫があるはずであった。しかし彼女の恐怖は並大抵のものではなかった。この森が抱えている恐怖はポノウェのものとは格が違う、それがパルの観であった。

 前を行くダヴィは特に何かを感じる素振りは見せていない。これがおそらく、パルとダヴィの資質の違いであろう。

 森がざわめいているように聞こえる。しかしそれは、私の皮膚を通り過ぎ遺伝子塩基に絡みつく、私はその時ホモ・サピエンスとしての私という存在なら融解し、一枚の葉っぱになってしまうのではないか、パルはあまりにも詩的な心持ちで歩いていたが、その実は詩的でも何でもなく、現実たる古代樹から直接的に強大な圧力を受けているのであった。

 ようやく、パルの不調に気づいたダヴィが、どうした? と、尋ねようと振り返らんとした時、ダヴィとパルの間を何者かが通り過ぎた。それは暗さとそれのあまりの速さから視認できず、ダヴィとパルをつなぐ腰ひもはあっさりと断ち切られた。

 しかし何を思ったかダヴィは、その何者かを追撃せんとパルを置いて茂みへと駆け入ってしまった。

 なんて使えない兄だ、パルはそう思いながらも、真エドウのお告げを思い出し、立ち上がると一人歩き出した。すると、何か古代樹の空気が今までとは変わったらパルは肌でそう感じた。それは、バキバキとブロックが組み換わり、新しい形になるかのようであった。パルが少し歩くと、今までなら考えられもしなかったような明るい開けた空間が、暗い木々の間から洩れていた。思わず駆け出して、その空間に飛び出た。そこは、10mほど先に、明らかに今まで見てきた木々とは異なる光を帯びた木があり、おそらくそれが古代樹であった。

 すると、その幹に座り込んでいた少女が立ち上がり、パルを見た。

"よお、来たな小童。ここに人が来るのは、80年ばかし前か。"

 少女は言った。

 パルは身構えた。その少女があまりにも異様な姿だったからである。身体つきは、アンダーティーンのそれであったが、何より異様なのはその捕食獣を思わせる犬歯とそのため頭部からピンと突き出た耳、長髪というよりその質感はもはや獣毛であった。耳は人非ざる生物であるかのように小刻みにピクピクと動き、頭部から垂れる獣毛はありきたりの樹木ならばなぎ倒せそうなほどの、質量があった。

"さて、ここに来られたということは、それ相応の力があるということじゃろうが……。さて、いかほどのものか見せてもらうぞ。"

 そう言うと、異様な少女は風のごとくパルの懐へと飛び込んだ。

 無論、戦士でもないパルに対処などできようはずもなく、大きく体勢を崩した。

 そのスキに異様な少女は右腕でパルの腰に手を回して抱えると、左手をパルの腹へと突っ込んだ。しかし、鮮血が飛び散るようなグロテスクは起きることなく、液体の中へと手を入れたかのように、パルの腹へと異様な少女の左手は入ったのである。

 その時パルはとっさに異様な少女の左手をつかみ、それを見下ろした。

 異様な少女はパルを見上げた。

"ほう、いい目をしておるな。なかなか肝のすわった目じゃ。なぜお前はここに来た?"

 と、問われたパルは、

"サリヴァンを救うため、真エドウの助言で力を得るためにここに来ました。"

 パル自身も想像以上にしっかりとした言動で応答できたので驚いた。

"はっ! あの死者の学校の回し者か! まったく、あの真エドウとかいう奴もラーネトウィンもいったい何を考えているのやら!"

 なぜパルは自身の腹の中に手を突っ込まれるというSF映画さながらの奇妙な場面にいながら、あまり動じていないかといえば、この場所がパルにとっての、本来いるべき場所に近しいからといえるだろう。ちょうど、前述のココの幻覚の中でのダンスの、今生で一番充実した時間であったように、彼女のいるべき時間と空間は、おそらくサリヴァンにはないのである。そういった意味でも、やはり彼女も科学宗教ポノウェのエドウと同じ神格を司る一つなのであった。

"これ以上面倒事になるのなら、お前をここで生かして帰さんでもいいのだがなぁ。"

 真意はわからぬが、急に異様な少女はニタリと笑いながらパルを見上げた。

 パルは一瞬で、これは明確な生命の危機であると感じた。それと同時に、彼女の中に秘められていた力が解放されたことを彼女は感じた。ちょうど遺伝子塩基をブロックのごとく組み換えるよう、しかしそれは生命の原素に対してであり、生者に対しては本来できぬが。しかし忘れてはならぬのは、エドウとジョウザンしていたパルは、間違いなく死者の側の者であった。彼女はその自らの内の存在が組み換えられる中で、異様な少女の記憶の中へと入って行った。


 それは、人間であるパルからでは想像を絶する記憶群であった。その記憶はゆうに1000万年近く蓄積されており、つまり、異様な少女は齢1000万歳、星々宇宙の月日に連なるほどの存在であるということであった。

 パルは、その1000万年の記憶に接触した。もはやそれほどの記憶は情報ではなく質量を持った物質であるかのように、パルの五感にのしかかった。しかし、パルはそれに適応してみせた。それすなわち、ジョウザンシステムにより死者生者間との交流プロセスそのものを吸い上げ、演繹的に強化させたことで、可能となったのである。それによる知覚の中では、異様な少女の1000万年は、一瞬一瞬に華はあれど全体を見通してみると、暗く静かで、死のイメージが強かった。しかし、一瞬一瞬にズームしてゆけば、華は確かにあるのである。そして、世界そのものが華であるか、死であるかと問われれば、世界は死の側に近い、現にこの古代樹の一族の少女、名をコ・オー、というらしい、も、他の一族は皆滅び、自分一人だけがただ観察のために生きているという、衰亡の道を進んでいた。

 しかしそれを見たとて、パルは涙を流すことはない。彼女もまた、世界を残忍に凝視するのみである。

"おのれっ! 儂の記憶の中に入ってきたのじゃがっ! ああそうゆうことか! ああそうゆうことか!"

 パルは記憶の中と現実の状況を並立として処理していたので、異様な古代樹の少女、コ・オーの言動もしっかりと認識していた。

"貴方は古代樹の一族の、コ・オーさんというんですね。私はパルといいます。コ・オーさん、教えてください。私の力は何なのですか? そして、何ができ得るのですか!"

 パルは必死に訴えた。

 パルから飛び退いたコ・オーは、パリパリと獣毛を掻いていた。

"ええいじゃよ! 資質は認めてやる! 資質は認めてやる! そうじゃな……。今のこのサリヴァンは、85年ほど前に原住民ヒノマルに連れられて儂に会いに来た、ラーネトウィン・アウルスタとかいう若造からすべてが始まっておってな、奴は儂にこう言ったんじゃ、神を造り出す、と。ついて来れているかな? パルちゃん?"

 と、コ・オーはパルにニヤリと語りかけた。



***


 ココはトカゲとのダンスの幻覚以降、底抜けに明るく振る舞うようになったが、それは気丈というより、一種の痛々しさというものを、周りに感じさせるようになってしまった。しかもそれは、本人はまったく意識していない、そして他者のそういった心配を本人がまったく考え及ぶことがない、ということが事態をより惨めったらしくした。ある時など隠れ家の転居の際に、これは遠足よ! とココが子供の指の城の子供達を励ましたので、子供達もその気になってはしゃぎ始めてしまい、そのあまりの騒々しさに大人のメンバーの叱責がとんだほどである。客観的に見れば、ココは明らかに病んでいた。


 そのあまりの惨状を聞いたモンズダイストがココに会いに隠れ家にやって来た。

 ココと子供達は駆け寄ってきて喜びモンズダイストを歓迎した。もはやいつ死ぬかを待つような変わり映えのしない日常において、訪問者の登場は何よりの幸であった。

 その隠れ家は、家というよりは、もはやネズミの巣であった。

 モンズダイストは酷く衝撃を受けた。しかしそれを表すことは彼らへの侮辱に他ならないと、必死に抑え込んだ。

 そこは人とは思えぬ獣畜の臭いがした。彼らの壊れた玩具のような笑い声が合わさると、本当に畜場のようであった。

 モンズダイストは神と鉛筆を持ってきて、また一緒に勉強しよう絵本はないけれど、自分の好きなものを書こう、と言った。子供達は我先にと紙と鉛筆を取り合い、臭いの染みついた床に紙を押し付けながら集中して字を書き始めた。子供達を見回していたモンズダイストは、ココを見た。

 ココは筆を持ち、ピタリと固まりながら、脂汗をだらだらと流していた。彼女は精神的不調からか、字が書けなくなってしまっていた。ココのへの字に結ばれた口はゆっくりと開き、あ、あ、と嗚咽をもらし、目から何の感情も無くあふれる涙を止めることができなかった。

 モンズダイストはこの時、一人の少女に一生の内にこれほどまでの苦しみを味合わせてしまったことを深く後悔した。ココの元に駆け寄り、ココを背後から抱きしめた。そのココのただならぬ雰囲気に、子供達もココのそばに駆け寄ってきた。皆は、ただ一人のココという少女の世界に関心を寄せて集まってきたのである。

 では、当人のココは何を考えていたか? 実はココ自身は、字が書けなくなったということへの涙をいまいち理解していなかった。それは無論、今まで読み書きに明るく、秀才として様々な自身と比較して、今の自身の落ちぶれ様に傷つき涙したというのが、一般的な見解であろう。しかし今の彼女にとって過去の自分というものは、今の自分を苦しめるかせでしかなく、ゆえに自己防御のためと完全に忘却していた。それゆえの、幻覚である。彼女は過去の自分を燃料として炉に投げ込み、そして新しい幻覚を創るのである。しかしその過去の自分と幻覚は決して無関係ではない。ココは幻覚の中では、学校の先生なのである。もはや、ココと幻覚の世界構築は、常人からは遠く及ばないものとなっており、これが常人から見て病だというのなら、それは仕方のない判断であろう。ゆえに、今ココが流していた涙は、ココの世界にとっては悲しみの涙ではない。何だかよくわからない所の、涙である。


 モンズダイストはその後、ココに折り紙を教えた。

 字は書けないが紙を折る手先の作業は、ココをよく楽しませた。一枚の紙が別の何かになるが存在としてはもろい紙そのままであるというそれを、ココはまさに今の自分のようだと大変喜んだ。

 それを見ていた子供達も、自分達も折りたいと言い出し、皆で折り紙を折った。

 紙飛行機などを折ると、ちょっと外に出て飛ばしてみようとモンズダイストは言った。

 大人のメンバー達は少し不服げであったが、モンズダイストの提案であること、そして何より楽しみを奪われた彼らの今楽しそうな姿を邪魔することの後ろめたさを感じてのことであった。

 ココ達皆は外に出て、少しの間だけで紙飛行機で遊んだ。皆次々と飛距離を競って喜んでいた。

 ココは紙飛行機を飛ばしながら、私も紙飛行機のように空高くへと飛んでゆきたい、そう思った。


 その夜、ココ達の隠れ家から戻ってきたモンズダイストは、ファントムに提案をした。

"ココちゃん達をサリヴァンから脱出させたい。あの子はもう頑張りすぎた。これ以上だとあの子自身が壊れてしまう。手はずは私がなんとかして整えよう。だから、頼む。"

 モンズダイストがファントムに頭を下げた。

 ファントムは少しばかり黙りこくった後、

"彼らをよろしくお願いします。"

 と頭を下げた。



***


 そうしてモンズダイストは翌日、ココと子供の指の城の子供達にそのサリヴァン脱出の件を伝えるため再び隠れ家を訪れた。

 子供達は喜んだが、ココは通常ならばこんなことはないと考えて、大事かと身構えた。

 皆を車座にさせたモンズダイストは、こう切り出した。

"みんな。もっと、安心できる生活が送りたくないかい? あったかい布団で寝て、美味しいご飯を食べて、たくさん勉強して、いっぱい友達と遊んで、安心安全な家に帰る。サリヴァンから出れば、そうゆう暮らしができる。私が保証する。旅路も私が用意する。もちろん、みんな一緒だ。だから。サリヴァンからみんなで脱出しよう。みんなも大変だったろう……。そうすればみんな安心して暮らせる。"

 そう息巻いて語るモンズダイストは、自分を見る視線が奇妙なものだと感じた。

 さらに言葉を発しようとした時、ココが遮った。

"お話の内容は大体わかりました。ありがたい話ですし、そのお気持ちにも感謝します。しかし、私達はここに、サリヴァンにいます。"

 ココや子供達の奇妙な視線の正体とは、これであった。

 それは、おそろしいほどの霊格を伴っており、モンズダイストは狼狽した。

"みんなは……。辛くないのかい? もしその辛さから逃れられるのなら……。逃れたいとは……。思わないのかい?"

 モンズダイストは皆に、冷静に尋ねた。

 ココが光る目で、

"辛い、辛いです。ですが、このゲームは。この作品は。逃げて終わり、ということにはならない。いつかこの先の人々が、その代償を払うことになる。だからといって当然、逃げることが悪とされていいわけもない。私はこれまで、多くの逃げてきた人達を見てきました。それがこの町の、サリヴァンの歴史です。そして今私の目の前に滅びという絶望があるなら、ではそれに対して私はどうするか? それが歴史に対する、私の存在軸になります。私は何者であるか? それは時に権力によって、その問いをする権利すらも剥奪されることになる。だが私はまだ問える! この身体は! この心は! まだその問いを続けている! 私はその問いをしました。そして答えは。サリヴァンで生きたい。それが歴史に対する、私の存在です。"

 モンズダイストに語りかけた。

 それを悟ったモンズダイストは、少し視線を下すと、眼鏡の奥の鋭い眼光から、寂しげに語り出した。

"私は今までたくさんの死地を駆け抜けてきた。その中では、多くの仲間が死んでいった。本当に、多くの仲間が。彼らは皆、勇気があり、強かった。だから権力に対して徹底的に向き合っていた。私は長く戦ってきた英雄とまで言う人もいるが、そうじゃあない。私は弱かったんだ。勇気も無く、強くも無く、命を投げ出して戦う覚悟がなかったんだ。だから生き延びてしまっている、だけなんだ。それを払拭するかのように性懲りも無くまた行って、多くの仲間が斃れ、また私だけ逃げ帰ってくる。これを聞いてね、では私の歴史に対する私の存在とは何かと考え、それは生き続けることだと考えるようになった。強い君達には世迷言のように聞こえてしまうかもしれないが、生きるという選択肢によってしかできないこと、できない世界というものも、あるのではないかと思うんだ。死を恐れ、我が命に固執し、生き延びんとあがくこと。私は生きて、多くのことを伝えたい。それは君にも同じだ。君が勇気があり強い人であるならば、私は最後まで君達に付き合おう。しかし一つだけ教えてくれ。君から見たら私はいったいどのくらい醜く見えているんだい?"

 モンズダイストは照れ笑いをしながら頬に触れていた。すると、さっきまでの奇妙な視線は無くなっていた。

"そうなんですね。私は決して、貴方を醜いなどと思ったことはありません。ただ、貴方のような歴史との向き合い方もあることを知ったことに対する、驚きがあります。……、少し考えさせて下さい。"

 ココはそう言った。

"ゆっくり考えてほしい所だが、あまり時間の猶予はない。腹が決まったら、もし脱出するということになったら、知らせてほしい。沈黙は、おそらく火中へと分け入る道にぬる。弱い私が言うのもなんだが、死ぬことだけが人生じゃない。考えてみてくれ。"

 そう言ってモンズダイストは隠れ家を去って行った。

 この時、隠れ家の全員は、本当の、人生というものに連なる所の言葉で、剥き出しの話し合いをしていた。そこに本来、正誤や善悪というものが社会倫理、道徳のような第三者が立ち入る必要はなかった。誰しも一人一人の生に対し、真摯であることができた。

 ココはモンズダイストとの対話を通して、考えていた。モンズダイストの考えを徒に貶すことは毛頭なかったし、かといって自らの使命を再確認に情熱に身を焦がすこともなかった。ただ、何かを見続けていた。しかしそれが一体なんであるのかは、ココには分かりかねた。



***


 しかしサリヴァンの人々は大警察組織エドオルムの完成を喜ばしいものとは思わなかった。そのエドオルムという巨大な箱物の建設のために、多くの労働力がかり出された。しかしこの施設は、サリヴァン議会政府の消滅と同時に、ちょうど完成したのであった。本当に物理的にもスムーズに、サリヴァン議会政府は大警察組織エドオルムへと移行したのである。それは、明らかに人々を不審がらせた。なぜこんなにもタイミングを計ったかのように事は起きたのか? それは、エドオルムの竣工も、サリヴァン議会政府の崩壊も、すべてが一つの筋書きの上でブロックのピースのようにきれいに収まることを計算されていたのではないかと。サリヴァンの人々は、こういったサリヴァンの世界を牛耳る、不可視の神なる力を認知はしていた。しかし、それは巧妙に姿を見せないで、彼らの前に巨大な忌み物、エドオルムをまたもや出現させた。そこに、サリヴァンの人々の意思はない。それは彼らサリヴァンの人々の生からはかけ離れた物であったと言える。しかしだからといって、エドオルムに行政機能上の致命的な不備があり、市民生活を脅かしているということはない。それはむしろ今までの経験の蓄積から、最高の行政サービスを提供していたといえる。しかしそれでもなおサリヴァンの人々がエドオルムを忌み物と言ったのは、サリヴァンの歴史上で専制的な政治の中で組織が暴走し多くの血を流すことになったという歴史をよく理解し、それは突如自身に降りかかってくると知っており、であるからして、それをしっかりと統御することのできる仕組みを、なによりも望んでいたからである。おそらく、エドオルムが今度また同じように暴走した際に、それを止める手はずは残ってはいなかった。だが、エドオルム以前のサリヴァン議会政府は、一応民主的選挙制を現した仕組みであったが、これはどうであったか? ココに対しては解釈が難しいところであるが、サリヴァンの人々は民主主義に失敗したのだといえる。サリヴァン議会政府を設立し、民主選挙が行われたのも良い、そして民意としてポノウェの議員が議会入りしたのも良い、しかし、そのポノウェとサリヴァン議会政府の軋轢で、政治に支障をきたした時、それへの対処がまったくできなかった。それは、ことサリヴァンの人々が民主政治に対しての教育や経験値やリテラシーの能力が高くなかったためだと思われる。それは、メディアについても同じである。結局、サリヴァンという土地の歴史上、NBSという、ギャングの分派から始まったこの町では、力で物言わせる政治が強い特色として残っており、そういった血の歴史の上でしか、物を考えられなかった、それを克服できなかったということであろう。サリヴァンの人々がエドオルムを忌み嫌うのは、それそのものへの嫌悪というより、それを打ち克つことのできなかった自身の弱さというものを鏡のように見るからである。

 ではそれに対してサリヴァンの人々は次に何をしたか? オブラートに包まず言えば、怠け、何もしなかった。もはやサリヴァン議会政府でも無理であったなら、我々にできることは何も無いと、諦めたのである。学習性無力絶望感とでも言えばよいか。それであったならば、始めから参加しなければいい。そうすれば無力を痛感することも、絶望することもなく、自身の幸福を追求し楽しく生きられればそれでいい、そうしてエドオルムに無関心を示すようになった。そうしてエドオルムもサリヴァンの歴史に漏れることなく、その組織的腐敗が始まった。その頃からであろうか、サリヴァンではポノウェが作ったとされる劇薬アシュラがとてつもない量市内に流れ出したのである。それは、ポノウェが存在し、アシュラ患者であるロロノア・ダヴィのバビロン・シークレエ事件の時とは比にならぬ量であった。そもそも、ポノウェは消滅したはずなのにこれだけの量の劇薬アシュラが流通するというのは、はなはだ疑わしい限りである。そして、周知の通りアシュラを服用した者は身体が変態し凶暴化したアシュラ患者となる。それは一気にサリヴァンの社会問題と化した。しかし、エドオルムによって学習性無力絶望感を植えつけられたサリヴァンの人々がポノウェの作ったと言われる劇薬アシュラで、エドオルムとサリヴァンを脅かすというのは、どこか暗喩めいたものを感じないわけでもなかった。これに対しエドオルムは、劇薬アシュラ捜査に特化した捜査部門を開くこととなる。"特別怪奇事件担当捜査班、通称トッケイ"である。

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