三章⑩
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ココは今一度自身の身の振り方をどうすべきか、考えていた。それは、幻覚にうなされていたココとは思えぬほどに冷静であった。おそらく、ココの判断いかんで、子供の指の城の子供達も動くであろうことは彼女にも大方予想がついたが、かといって気負いすることはなかった。彼らは、死者の学校の側の者であり、自分達の側の存在ではない、ココはそれを幻覚の中で知っていた。ココも、モンズダイストが先達だからといって、そのすべてを無条件で鵜呑みにしようとは思わなかった。しかし、ココはモンズダイストはこの町で、あれほど生き続けるということに情熱的な人を見たことがなかった。
すると、ココの周りに子供の指の城の子供達が集まっていた。
"どうした? ココ。行くのか?"
と、ギャニットが言った。
"ううん、早く決めなきゃいけないんだけど、どうしようかな迷っているのよ。みんなは、どう思う?"
とココが尋ねると、子供達は顔を見合わせてごしょごしょと相談を始めた。
ココは一体何を相談しているのかわからなかったが、黙って待っていた。その時彼女は清い心であった。今だに子供の指の城の子供達が何者で、生まれ育ちはおろか両親さえも何も知り得なかったが、大切な家族であり、同志でもあった。こう書くと、軍隊のならず者の付け焼き刃の部隊のように見えるかもしれないが、それは言い得て妙で、家族そのものの記憶のないココがそういっているだけであって、実質は書いて見たそれなのであった。しかしだからといってココと子供の指の城の関係が家族に劣るものであるかと言われれば、否である。彼らは、我々とは異なる所の感性で、強力に連帯しているのである。
相談を終え、一列に並んで座っていた子供達が全員ココを見た。
"僕達はココはサリヴァンを出た方がいいと思う。しかし僕達は出ない。"
ココが何故? と尋ねると、
"僕達は死者の学校の子供の指の城だからだ。この町の虐げられなぶり殺される少年達の唯一の理解者であらねばならないから。"
そう言うと、子供達は目に一杯の涙を溜め、おいおいと笑い始めた。
一見するとそれは、子供達の言う自らの使命というものの重責に対する苦しみからの涙ととれるかもしれないが、異なる所の感性で連帯していたココは違っていた。ココはモンズダイストが持ってきていた紙と鉛筆をどこかから持ってくると、筆記を始めた。その手は文字通りココの動きのものでは無く、何かに憑かれたように、書けなくなっていた文字を、ジャギリジャギリと書いてゆく。その中には図案のような幾何学的な模様も描かれていた。
子供達は笑うのを止め、ココの手と紙をじっと見つめていた。
そんなものに気を取られることなく、ココは集中真剣に筆記を続けた。ココのその手は芸術家のそれを遥かに凌駕しており、その文字と描線の構成によって、ココ自身のすべてを表現しようとしていた。それは一枚の紙では足りず、何枚も何枚も、ありったけの紙を使って、筆記された。その文字と描線は、ココの自身の存在を飛び越え、自身とサリヴァンをも内包し始めていた。ココは30分と経ったが、まだ筆記を止めなかった。しかし誰も飽きることなどなく、ココの手の動きに注目していた。
そしてやっと、ココが事切れたように筆記を止めた。それは20数枚に及ぶ、謎の文字列と幾何学模様の図画となった。ココはそれを、
"これが、私の代わりです。ここに置いておきます。"
と子供達に渡した。子供達はそれを受け取ると、大変喜んだ。
"そうだわ! 最後に、とっておきのお祝いをしましょう!"
ココはそう言って持って来た手荷物の中から資金の入った袋を取り出した。
"このお金はすべて終わった後の生活の再建のために取っておいたのだけれどらもう必要もないから、これでお菓子を買ってみんなで食べましょう。"
子供達はさらに喜んだ。
***
そしてココは大人のメンバーの目を盗んで隠れ家から抜け出すと、馴染みだった菓子屋へ、隠れ家のある暗くジメジメしたバラック群の一画の中を駆けた。ココはその駆けていく体と一緒に、新しい何かへと自分自身も駆けている! そう感じた。しかしそれは、先程の筆記ができたからでも、字がまた書けるようになったからでもない。それは言葉で表現するとその鮮明さを失う類のものであった。
ココはしゃがんで抜け道を通り、今にも崩れそうな鉄階段の昇り降りをして、明るい明るい方へと駆けた。そして、サリヴァン都心部の往来に出た。この時のココはその逃亡生活のためか身なりはみすぼらしい上に酷い臭いを放っており、往来の紳士淑女の多くは眉をしかめただろうが、彼女はそんなことなどどうでもよかった。ココは菓子屋を目指して全力で駆けた。みんな生きているじゃないか! みんな生きているじゃないか! 自動車も人も! みんなみんな動いているじゃないか! 私のあの陰惨な死の臭いのする逃亡生活でなく、ここはこんなに生きているじゃないか! ココはそう感動した。
ココは信号機に捕まり、立ち止まった。目の前には背広を着た男性の肩甲骨が見えた。今のココにはこんな日常の風景のありがたみが身に染みてわかった。信号機が青に切り換わり、彼女がまた駆け出そうとしたその時だった。突然鼓膜を裂くような音が辺りに響いた。ココが驚き辺りを見渡すと、白い煙がもうもうと立ち上がっていた。次は二回、連なるように爆発音が鳴った。どうやら誰かが往来の人混みに手榴弾を投げ込んでいるようである。ココは周りの状況がまったく把握できなかったが、往来の人々が急に波のようにココの身に押し寄せ、息ができないほどに身動きがとれなくなった。何のためかはわからぬが、必死に手を伸ばした。ちょうどその目の前にスペースが空いたかという時、そこに手榴弾が落ちて来た。それはココの数歩先で爆発した。
ココは気づいたら、男性に覆い被さられていた。どのくらいの時間が経ったのかわからぬが、ココがとりあえず動かねばと、男性をゴロンゴロンと転がすと、その男性の銃痕から流れた血でココの全身は紅く染まっていたが、何より彼女のひざの関節から下が吹き飛んでいた。ココの全身を染めた血は、自身の血であったのかもしれない。ココは遠く意識の中で上半身をのけぞらせ辺りを見渡した。人が山のようになっているわけではないが、菓子箱に菓子を詰めるように辺りに死体があった。今もおそらく遠くの方で、爆発音と銃声が聞こえている。つい先程まで生きた人間であふれていたとは思えぬほど辺りは死であった。何をしていいかまったくわからず、というか失血で意識がもうろうとしているためか、茫然としていると、
"助けてくれえ。"
という声がした。
しかしココは急な寒気に襲われ、身体がブルブルと震えた。身体を縮ませ、寒い、寒い、と、震えた。
"助けてくれえ、助けてくれえ。"
ココは寒さと同時に、自分はここで一人で死ぬのかという、寂しさも感じ始めていた。寒い、寒い、寂しい、寂しい。
"助けて、助けて。"
ココはようやっとその声を聞き取り、まだ人がいる! と思った。その人の元へと行こうと思ったが、思うように腕に力が入らない。足はもうない。感覚のない腕で這うようにして声の方へと行く。腹の下にはゴロゴロと、死体が転がっており、時々ブヨブヨと血でべとついた肉は重く固い石にスポンジを巻いたようなもので、手で押し出して進んでいく。ただ声が聞こえるから、ただ声が聞こえるから、進まねばならぬ。屍を踏んづけて押し退けてでも。急にココの足に燃えるような鈍痛が走った。足を見るが何もない。その一瞬を過ぎてもう痛みは無くなってしまった。ココは自分が死ぬ番だと悟った。寒い、寂しい。人肌恋しい。一人で死にたくない。ココは声の元へと這い進んだ。おそらく3mとなかったであろうが、ココには大変な距離であった。
その声の主は仰向けで寝ていたが、上半身は赤黒く焼けただれており、顔の判別もつかず、腹にはガードレールの破片が突き刺さり、臓器が噴出していた。
ココは、声の主の顔へと近づく。
声の主はココの物音には気づいたようで微かに呼吸のリズムが変わった。
ココが声の主の顔のそばまで来ると、その顔を両手で抱いた。
声の主は強く息を吐いた。
"もう大丈夫よ、もう大丈夫よ……。"
て言う。しかしココは医療行為などできぬのでどうにもならなかったが、そう呟いた。
すると、
"あったかい。女神様……。ですか……?"
と、声の主は聞いた。
ココが沈黙して顔を声の主の方へと埋めると、
"はい、そうですよ。"
と言った。
声の主の息は穏やかなリズムになり、ココの腕の中でそのリズムは、静かに止んだ。
ココと声の主はそのまま固まった。すると、彼ら二人を青い閃光が包み込んだ。それはジョウザンシステムの光だった。光が弾けると、そこには一人の青年が立っていた。どうやら、ココとこと切れた声の主がジョウザンシステムよろしくかろうじて生きていたココと死者である声の主がジョウザンしたのであった。
"行きましょう!"
とココが声をかけると、二人はどこかへ駆けて行った。
***
ファントム達は事態を把握するとすぐさま行動を起こした。まだ仔細な情報は入ってこなかったが、おおよそ紅市装兵団が攻勢に出たというのは察しがついた。ファントムはついに戦いだ! と血騒ぐ若者メンバー達に対し、
"今までの訓練は戦うためじゃない。逃げて、生き延びるための訓練だ。おそらく今の我々では紅市装兵団の武装や能力には敵わない。だから逃げて、逆転の機会をうかがうんだ。そのために、生き延びろ。それが今の君達の任務だ。訓練を積み重ねてきた君達なら生き延びられる、私はそう信じている。"
これを聞いた若者メンバー達は拍子抜けし中には不服を示す者もいた。たしかに、いくら紅市装兵団が戦闘のプロとはいえ、正規の軍隊でもないのであれば、ファントム程の人物ならいかようにもゲリラ戦的な戦い方もあるように思われる。無論、今の紅市装兵団にはブルーポノウェの組織と装備があり、サリヴァンそのものも手中に収めているということ、そしてファントム達には今、数限りある白狼とファントムとイシエ、ディオしか敵と正面から渡り合える武力がないのも事実である。しかしファントムは、決定打の見出せぬ戦いは徒に浪費させ、血肉を削る消耗戦へと陥っていき、そうしたら本当に勝ち目なく全滅の道であろうと考えていた。ゆえに、まだ、まだ戦うべきでない、合理として意義を見出せぬ戦いで死んだ日には、無駄死に以外の何物でもない、そんなことをさせてはならない。
"今の死に溺れるな! きっとこの先未来に君達の力が必要になるんだ! 私は言うぞ! 泥水をすすってでも生きてみせろ! 君達が真の戦士であるならば! 今は戦うべき時ではない!"
その叱咤激励を受けて、我に戻ったかのように動き出したのが半分、しぶしぶと一応動き出したのが半分、といった具合であった。しかし、ファントムは振る舞いに出さんとしていたが、正直、いかに勝機を導き出すのかがまったくわからなくなっていた。エドウナウカを失い、パルの力の可能性といえどどれほどのものであるかの確証も無く、それ以外に何もない。そもそも、ファントムは逃げて生きろとああは言ってはいたが、それがもし具体的なサリヴァン脱出という道ならば、その手はずはどうなっていたか? 残念ながらファントムにはそこまで考え至る経験値はなかった。やはり彼は策謀のエキスパートそれ以上のものではなく、戦争家の兵站についてまでは深く至っていないのであった。しかしおそらく、紅市装兵団も、兵站という視点からいえばただの凶暴な暴力装置たる彼らももとないものであろうことは推察できる。しかし彼らは、その暴力でいかようにも奪ってしまえばよく、そういった意味では非常に明快であった。
ファントムはせわしなく地下アジトからの脱出の準備をするメンバーの姿を見て回った。今のファントムにはその程度しかできず、何より脱出といっても個々人でサリヴァンの地下へと勝手に潜っていきなんとか生き延びる、程度の指示しかできなち。一通りの生存技術は学ばせたが、結局その後の明暗を分けるのは個人の才能になってしまった。
そんなブリキ人形のファントムの前に、ココと子供の指の城の子供達と生活していたメンバーがやって来た。メンバーは涙ながらに言った。
"ココちゃんがいません! 目を離したすきに、どこかに行ってしまいました。"
ファントムはそれを聞いて無言で青ざめたが、すぐに赤くなって、
"何!? 一体こんな時にどうしたというんだ!"
と怒鳴りつけた。しかし、事態はもうどうしようもないところにあるということを悟ると、
"すまない。ついカッとなってしまった。大丈夫だ、ココはあの年でもしっかりした子だ、なんとかやっているだろう。君も心配しなくていい。それより、ここも次期に危なくなる。君達も逃げる準備をするんだ。"
泣いていたメンバーが気持ちを落ち着かせ脱出の準備へと急ぐと、その後ろにいた子供の指の城の子供達がファントムを見上げていた。
ファントムはしゃがみ込むと子供達の顔を見た。
"みんなは、ココの居場所は知らないかい?"
すると子供達は返事をせずに、紙の束をファントムに突き出した。
ファントムはびっくりしてそれを受け取った。彼はまたそれを見てさらにびっくりした。それとは、かつて若き頃に交流を結んだヴィアクトー・ラーネトウィン・アウルスタに見せてもらった、ジョウザンシステムの概念図にそっくりだったからである。
"これを一体どこで?"
ファントムが尋ねると、
"ココが自動筆記したんだよ。ココは女神様になったんだ。"
と、タタンが言った。
ファントムはその真意が分かりかねたが、そうなのかと言おうとした時、爆発音が地下アジトにこだました。
"マザー!"
ファントムがそう叫ぶと、マザー白狼が石台の上で脱出のために動くメンバーを見ていたのが、爆発の方へと飛び出した。その爆発は、地下アジトの中に無造作に投げ込まれた手榴弾によるものであった。
その白煙のなかから、紅い鎧の紅市装兵団と、放射能を出す怪物が現れた。
地下アジトのメンバーは血に滾る者や、慌てて逃げ出さんとする者など、様々であった。
マザー白狼は侵入者に塞がるように牙を剥き出し威嚇した。
紅市装兵団の奥から出てきたのはリーダーのウォントン・ジェフであった。
"うわ、世紀のスーパーマッチじゃん。白狼vs怪物! じゃあ、怪物ちゃんは白狼を頼むわ。"
そう言うと放射能の怪物はうなずき、マザー白狼へと突進した。
"さて! 俺達人間様は……。皆殺しだぁ〜!"
ウォントンが機関銃を乱射すると紅市装兵団が雄叫びを上げ、突撃してきた。
ファントムも応戦せねば、と駆け出そうとしたら、レキュスタに袖をつかまれた。振り向くと、レキュスタの腕には、木でできたジョウザンシステムがついていた。
他の子供達を見ても、皆、木のジョウザンシステムをつけていた。
ファントムはすべてを悟った。
"そうか、つまりは。そうゆうことなんだな。わかった! なら、力を貸してもらおう!"
子供達は一斉に腕を交差させた。
"ジョウザンシステム始動。"
ファントムと子供達は緑の閃光蕾のような形をした閃光に包まれた。
紅市装兵団は驚き、そちらへと発砲した。しかし、ジョウザンシステムの前では無力である。
閃光が弾けると、ファントムと子供達がジョウザンした、ファントム・クロフォード・シュルツが現れた。
"うむ! 素晴らしい生命力だ!"
クロフォード・シュルツはそう言うと、黒いマントをはためかせた。それは、刃物のように、波のように、そして猛禽のように、全翼は6mはあろうかと荒々しくするどくきらめいた。それによって、紅市装兵団を身じろがせた。なぜなら、それは人の有り様というより、絵物語に出てくる悪魔のそれだったからである。
ウォントンが構わず機関銃を放った。
クロフォード・シュルツが右手を仰ぐと、猛禽のマントがウォントンの元へと鋭く飛んでゆき、彼の機関銃を絡め取ると、マントは戻っていった。
"ク……、クソッ! 撃てよオラァ!"
と言ったウォントンは、周りの紅市装兵団に発砲を指示した。怖気ながら全員は引き金を引いた。
クロフォード・シュルツは全身をマントで包まると、直撃した弾丸はすべてマントに吸い込まれてしまった。
"いいのか! 逃げるなら今のうちにだぞ!"
しかしその温情に聞く耳を持たず紅市装兵団は突撃してきた。
クロフォード・シュルツは身を縮こませて力を溜めると、一気に放出して鋭く低く一閃のように紅市装兵団へと駆けてゆく。そしてマントを広げると、それはみるみる広がってゆき、波のように広大になった。彼は両手でそれを紅市装兵団へとぶつけた。
すると、直撃した紅市装兵団のおよそ二十人は跡形もなくマントに飲み込まれた。
間一髪一人だけ逃れたウォントンは尻もちをつきながら、
"なんだコラおい、なんだこのやろう。"
と言った。
その時、地下アジトの入り口を吹き飛ばして、紅市装兵団の援軍がやってきた。それは、ブルーポノウェで開発されていたゴリラの形をした全長3mのパワードスーツと、紅く塗られた見たこともない戦車のようなものであった。どちらとも、ブルーポノウェの虎の子である。
クロフォード・シュルツがその二つへと鋭くマントを放った。
しかし、パワードスーツの方は軽々とそれを避け、そして紅い戦車のようなものも、なんとその巨体と重量を感じさせない中に浮かびながら軽やかに避けた。そして、パワードスーツは肩に備えられたショルダーカノンを、紅い戦車のようなものは戦車砲を放った。
クロフォード・シュルツはそれに反射して宙へと大きく飛び上がり、回避した。スンッ、と着地すると、さらにゾロゾロと同じパワードスーツと紅い戦車のようなもの、そして紅市装兵団を視認した。
"よおし! 形勢逆転! 皆殺しだ!"
クロフォード・シュルツはちらと背後を見た。まだ退避は十分にできているとは言えない。
"あと30分! それで皆は逃げられる。30分もたせるぞ! いいか!"
クロフォード・シュルツの中でファントムが言うと、
"もちろんさ!"
と子供達も言った。
***
放射能の怪物に襲いかかられ取っ組み合いになったマザー白狼は、地下アジトの石柱や設備を互いの体躯をぶつけ合い粉砕していた。その互いの巨体によるぶつかり合い、そこに発生するエネルギーは易々と乗用車を破壊し去る、人力の域を超えていた。この両者の戦いに生身の人間が立ち入ることは不可能であった。
マザー白狼は怪物の脇へと右腕を滑り込ませると、そのまま腰をつかみ上げ、左後方へと半回転するように地面にそれを叩きつけた。凄まじい地鳴りと粉塵が撒き上がると、マザー白狼は怪物の喉の急所へと目がけ牙をかけた。しかし、怪物のそれは固い皮膚があたかも装甲のようになっており、文字通り、まったく歯が立たなかった。すかさず彼女は怪物の腹部へと何発か拳を撃った。しかし、その装甲の皮膚のせいか、まったくダメージを受けた様子を見せない。
"こいつ、頭は悪いが図体だけはでかい、馬鹿の見本のようなやつだな。"
と、マザー白狼は億劫になった。
そのすきに、怪物がマザー白狼の腹へと脚を滑り込ませると、両足で彼女を思い切り蹴り上げた。
マザー白狼は思わず蹴り上げられてしまったが、滞空で受け身の体勢をとりドシン、と着地すると、すかさず怪物へと殺気を飛ばした。
しかしそんなやり取りも虚しく怪物はただマザー白狼に突っ込んでくるのみであった。
マザー白狼は器用に怪物の襲いかからんと突き出した左腕の内側からスルリと右腕を滑り込ませ絡めると、その勢いを利用して、ぶんといなしながら投げた。
投げ飛ばされた怪物はバキリと石柱に激突し、そこに巨大がずしりと減り込んだ。怪物は石柱から脱け出さんとじたばたしたが、しばらくして両腕を使って押し出た。
このときマザー白狼は、こちらが相手に致命傷を与えられず長期戦になってしまえば、こちらに不利になると考えた。これだけで戦いが済むはずがないであろうし、このままこの場所で投げ合いをしても消耗するだけだ。そう考えたマザー白狼は駆け出した。
地下アジトの廃線跡を使って、地上の外界を目指す。しかしこれはファントムに命令された地下アジトメンバーの脱出まで守り抜くというものと違うが、怪物を相手にしそれをする余裕は今のマザー白狼にはなかった。
マザー白狼が廃線の暗い跡を手足全身を使い四足で駆けていると、怪物もまた同じように駆けてきた。両者は光のない廃線跡を駆ける。
怪物の目だけがギラリと光っていた。
そしてマザー白狼の白銀の毛は暗闇では蛍光緑のようにも見えた。
すると怪物はまったくスピードを落とすことなく、廃線の壁紙へと駆けよじ登り、その勢いのままマザー白狼に高度から飛びかかった。
しかしその程度の動きなら容易に想像できたマザー白狼は、何の躊躇もなくそれを躱した。
怪物はぐしゃりと廃線路に倒れ込んだ。
マザー白狼は思わずそのすきにと思い切り駆けたが、なおも怪物は駆けてくる。
本当に体だけは丈夫だな、とマザー白狼は思いながら、廃線の横道の扉を蹴り飛ばすと、そこへと入っていく。そしてちょうど地上の浄水場へとつながる上側から見れば奈落、下側から見れば光が差し込む穴へと、下側から昇っていく。何も取っては無いのだが、両手両足を使い、器用に昇っていく。
15mと昇ったところで怪物もやってきて、怪物も同じ要領で昇ってきた。
もうじきに出られる、マザー白狼が恐るべき速さで穴を昇り飛び出したその瞬間、いまだ穴の中にいた怪物が口から青白い炎を吐いた。あと数秒でも遅かったならマザー白狼はその炎に焼かれていただろう。
つくづく知恵足らずでよかった、マザー白狼はそう思いながら、怪物を誘い出すスピードで駆け出した。浄水場の注入設備とパイプの間をマザー白狼はぬう様に進んでいると怪物がその設備ごとバキバキと破壊しながら突進してくるのがわかった。設備は瞬く間に吹き飛び、パイプは花開くように大きくひしゃげながら壊されていく。それによって生じた濁流にひるむことなく怪物はついてきた。
両者は河川水道へと出て、それによってそれに沿って走る。
マザー白狼のその足は、一切の迷いなく力強いものである。しかし、地下アジトからの廃線の道や、浄水場の順路、そして河川水道への全容など、このような情報をなぜマザー白狼が知り得ていたか? これは、戦略兵器としての白狼の能力の一つであり、二月ほどの時間さえあればサリヴァンのありとあらゆる道の全てを網羅学習し、それを元に襲撃作戦を立てることも可能なのであった。しかしそれが使われることはついに一度もなかったのだが。この瞬間にも、マザー白狼は子である活動中の白狼と常に情報を共有しており、意思疎通を行なっている。あるニ体は古代樹へと向かう最中、ある一体はサリヴァン市内で紅市装兵団と戦闘、そしてある一体はたった今地下アジトでパワードスーツに殴り殺された。
マザー白狼は河川水道を跳び上がると車道へと出た。そこから見たサリヴァンの街はいたるところから灰色の煙が上がっていた。マザー白狼は何にも構わず車道を我が物顔で駆けて行く。しかし、もはや壊滅的であるためか、車は一台とて走っていなかった。車道を駆け、そしてサリヴァン都心部へと出た。
そこでは、混乱や逃げ惑う人々などではなく、人は一人としておらず、もしいるとしたら今死に絶えるという人のみであった。そして、またぽつねんと死体が積み上がる。ショーウィンドウや陳列棚、街灯、看板、自動車、そして、消え失せた人々、少しばかりの死体、つまりサリヴァンの森羅万象は、まさに被災して人を寄せ付けなくなった町の風景そのものであった。それは生活と破滅とが奇妙に混合した状態である。
マザー白狼の視界に5歳ほどの少女が目についた。どうやら親とはぐれてしまったようである。
少女は行く当てもないかのように泣きながらあぐねていた。
マザー白狼は何を思ったか、その泣いている少女の鼻先まで近づいた。
"少女よ。どうした。家に帰れ。親はどこにいる。"
少女は泣きながら燃え上がる車を指した。
マザー白狼はその車に近づき、中をのぞいた。運転席には燃えている黒い死体があった。
"お前、名前は何という。"
マザー白狼が尋ねると、少女は、ルゥ、と名乗った。
それを聞くとマザー白狼は、
"ルゥ、そこのビルの物陰に隠れていろ。次期に私に似た白い狼がやってくる。そいつを手足のように使って、どこへなりとも好きなところに行くがよい。"
少女ルゥはぽかんとマザー白狼を見上げていた。
するとマザー白狼の体側へと怪物が飛びかかってきた。
マザー白狼は車道へと叩きつけられ、その白狼の毛がアスファルトに擦れ、チリチリと煙を上げた。怪物ともつれ合う中で、
"行け! 生きろルゥ! 振り向くな!"
と言った。
少女ルゥは駆けていった。
それを見たマザー白狼は、怪物のあごを横からどしんと殴りつけると、建設途中の高層ビルを見た。ここがいいだろう、と、マザー白狼は怪物を押し退けると高層ビルに駆け寄り、鉄骨をわしづかみにして登り始めた。
ズンズンと高層ビルの鉄骨をマザー白狼と怪物は登る。48階ほどまで登ってみると、サリヴァンの彼方に雷雲が轟いていた。
このぐらいでいいだろう、と、マザー白狼は62階に滑り込んだ。そこは、剥き出しのコンクリートで構成されており、中心は吹き抜けのような構造になっていた。マザー白狼は目をつぶり顔を胸へと埋め息を整えると、ここでケリをつける、と決心した。
怪物が乗り上がってきた。少しばかりマザー白狼を訝しんで見ると、いつものように勢いよく飛びかかってきた。
それでもマザー白狼は動かなかった。怪物の爪が自身に突き刺さらんとしたその時、マザー白狼は体勢を低く落とし怪物の左腕を両手でつかむと、その怪物の勢いを利用してそれを振り回し始めた。それは、2回、3回と行われた。当然その巨体を振り回すのだからその衝撃も凄まじく、コンクリートに積もった砂ぼこりが渦を巻いて吹き上がった。そして、いざマザー白狼が思い切り怪物を吹き抜けの側ではなく道路に面した側へと放り投げた。
怪物は高層ビルから飛び出し、何も衝撃を妨げるもののない空中のままで重力のまま加速し、美しい放物線を描きながら、そして地面へと激突した。さすがに、いくら皮膚が装甲のように硬かろうと、これほどの高所から墜落しては、まず命はないだろう。
マザー白狼が辺りを見回すと、いたる所から鉄骨をよじ登って何体もの放射能の怪物が顔を出し、現れた。
そこへ階段を上がってきたのか、三体の白狼も現れた。
"遅いぞ。小童。見たな? 高所から放り落としたら死体だったろう? ちゃんと見てきたか? よし。その要領で片付けていくぞ。"
その時マザー白狼の脳裏に先程の少女ルゥが一体の白狼と合流したことが伝えられた。
白狼達は怪物に取り囲まれながら円陣になり臨戦した。
"何、こいつらは知恵がない。冷静に対処すれば我々白狼の相手ではない。"
とマザー白狼は言った。




