腹が減ってはマラソンはできぬ
焼き立てパンの香りに誘われ、起き出した面々が部屋に集まる。
ガラスのテーブルにすでに座っている人物がいた。
「……うそ」
イヴの目が大きく見開かれる。
そこにいたのは、ニコだった。
大きく口を開けてクロワッサンを頬張る。
もぐもぐと頬が動く。
「んー!おいしいなぁ」
「ニコッ……!」
イヴが駆け寄る。
赤い髪が揺れ、潤んだ瞳は朝日に照らされる。
「イヴちゃん!」
ふんわりと目を細める。
「ニコ!怪我はない?痛いことされなかった?」
心配するイヴをよそに、ニコは首を傾げた。
「うん!大丈夫だよぉ」
ニコは持っていたクロワッサンを見せる。
「イヴちゃん、このパンおいしいよ」
「もう、ニコってば……」
イヴは目に浮かんだ涙を指で拭った。
「そうだ!レオンに教えなきゃ!」
イヴはキョロキョロと部屋を見回し、レオンを探す。
「お兄ちゃんなら朝練に行ったよ」
「……朝練?」
「うん。準備運動してくるって!」
「……準備運動?なんの?」
「わかんない」
イヴには全く意味が分からなかった。
二人は向かい合い、首を傾げる。
その後ろでユーミルだけが眉を寄せていた。
「……ノア。僕は不参加で」
ユーミルはノアを見上げる。
ノアはクスッと笑うと、ユーミルの髪に触れた。
「残念ながら、これは全員強制参加だよ」
「くっ……」
ユーミルは一人だけ、目を伏せていた。
ノアは楽しそうにユーミルの癖っ毛をくるくると指で弄った。
「……体を動かすのは得意ではないんだけど」
「仕方ないなあ」
ノアは肩をすくめ、首を左右に振る。
ユーミルの耳元で何かを囁いた。
「……!」
そっとユーミルから離れる。
「……それはちょっと興味を唆られるね」
ユーミルの目の色が変わる。
「だろ?」
二人はニヤリと口端を上げた。
皿に盛られた焼き立てのパン。
マキシムは声を上げた。
「もう先に食うからな!」
「マキシム!待って!」
「なんだよ?」
マキシムは片手にクロワッサンを持ち、口に入れる寸前で止まった。
怪訝そうにイヴを見る。
「セレスが今日、採血するって言ってたでしょ!」
「……まさか、目の前でおあずけってことかよ!」
「仕方ないでしょ……」
コツ、コツと靴の音が響く。
白衣が揺れる。
「どうぞ。召し上がって構いませんよ」
「セレス!……でも採血って朝ごはん食べちゃダメだよね?」
「もう採血は終えています」
「え……」
「お、おい!寝てる間に血ぃ取るんじゃねえ!」
二人の背筋は、ゾクリと冷えていた。
「ねえ、セレス。血だけしか取ってない……よね?」
セレスは何も言わず、ニコリと微笑んだ。
「……じゃあ遠慮なく食うからな!」
マキシムの声を合図にするように朝食が始まった。
「うめえ!ローストビーフもそうだったけどよ。エリザの料理腕前すげえよな」
「あらン?私を口説いてるつもり?」
「く、口説いてねえよ!褒めてんだよ!」
「胃袋を掴むのは恋愛の初歩よ♡」
「……だから口説いてねえって言ってんだろ!」
マキシムの口からはパンの欠片が飛び散る。
「マキシム……口を閉じて食べなよ」
ユーミルは汚いものを見るように目を細める。
「それと、どれだけ美味しくても食べ過ぎは良くないよ」
「う、うるせえな!」
マキシムはパンをもう一つ掴むと、乱暴に口に運んだ。
「上手いもんはなあ、食える時に食っとくんだよ!」
「……そう」
ユーミルは静かにマグカップに口をつけた。
マキシムは椅子にそり返り腹を撫でた。
軽く腹太鼓を打つ。
「食った〜!もう何も入んねえわ」
イヴも満足そうに口元を拭う。
「アタシも!」
口々に満足そうな声が上がる。
ノアは軽く頷いた。
「それじゃあ、そろそろ準備してもらおうか」
静まる部屋。
「おいおい!な、何言い出してんだよ」
明らかに動揺した声。
マキシムは椅子に座り直した。
「エリザ」
エリザがクローゼットからコロコロとラックを運ぶ。
青色のTシャツと黒のバレルパンツ。
「……なんだよ。これ!」
「全員これに着替えて」
「はあ?」
渋々、服を受け取る面々。
ノアは楽しそうに目を細めた。
「さあ、マラソン大会の始まりだよ」




