第七話 今夜は、うまく言い返せない
祝典を三日後に控えた王城で、アレンは同じ廊下を二度引き返した。
一度目は祝辞の原稿を忘れ、二度目は受け取った原稿が去年のものだった。担当の役人も寝不足らしく、紙を取り替えるときには二人揃って頭を下げた。
「申し訳ございません。去年の討伐報告の原稿を、お渡ししてしまいました」
「危うく、今年も魔王を倒したことになるところでしたね」
役人は苦笑し、紙の見出しをもう一度確かめた。
「今度は今年のものです」
「はい。ありがとうございます」
アレンは原稿を受け取り、中庭へ急いだ。
セシリアをお茶に誘っていた。午後の仕事は互いに別だったが、夕方の打ち合わせまでには終わる。それなら少し会えそうだと、朝のうちに約束していた。
中庭には、もう彼女がいた。石卓に二人分の茶器を並べ、こちらに気づくと小さく手を上げる。
「ごめん。待たせた?」
「少しだけ。お仕事は終わりましたか?」
「うん。今度こそ」
原稿を卓の端へ置き、菓子の包みを差し出した。以前、一緒に食べて美味しいと言っていたものだ。セシリアは中を覗き、嬉しそうに顔を上げた。
「覚えていてくださったんですね」
「たまたま、店の前を通ったから」
本当は少し遠回りしたのだが、それは言わずに椅子を引いた。セシリアがお茶を注ぎ、アレンも包みを開こうとする。
そのとき、中庭の入口から名前を呼ばれた。
「勇者様。少々よろしいでしょうか」
若い役人が封筒を持って立っていた。アレンが手を差し出すと、恐縮した様子で近づいてくる。
祝典へ招いた、戦死者の遺族からの返事だった。亡くなった兵士の母親が、足を悪くして来られなくなったという。息子の勲章を代わりに受け取る者もいないので、どうすればよいかと書かれていた。
「こちらから、お母様にお届けしよう」
「はい。その手配について、ご相談に」
「僕も伺いたい。その人がどんなふうに戦ったのか、話せると思うから」
手紙に記された名前には覚えがあった。直接話したことはなかったが、彼のいた隊とは行動を共にしている。
役人は頷き、手元の紙を確かめた。
「では、馬車の担当者にも確認してまいります。ちょうど今、事務室におりますので」
「僕も行くよ。必要な時間を、その場で決めた方が早い」
立ち上がってから、セシリアを見た。彼女は湯気の上がる茶器を、アレンの席へ置いたところだった。
出発の時刻だけ確かめたら戻ろう。お茶が冷めるほどは、かからないはずだ。
「ごめん。少しだけ、相談してきてもいい?」
「はい。こちらで待っています」
「すぐ戻るから。先に食べてて」
菓子を彼女の方へ寄せ、アレンは役人についていった。
◆
中庭へ戻るころには、魔石灯に明かりが入っていた。
セシリアは卓に紙を広げ、神殿の使いへ何かを説明していた。アレンに気づくと話を切り上げ、使いを見送る。茶器には覆いがかけられ、菓子は一つしか減っていなかった。
「ごめん。家までどれくらいかかるか調べてもらって、馬車を出せる日も聞いていたら……」
セシリアは書類を畳み、空いた椅子を少し引いた。
「お話は、まとまりましたか?」
「うん。明日、向こうへ返事を出してもらう」
「それなら、よかったです」
アレンは腰を下ろした。もうすぐ打ち合わせが始まる。茶器の覆いを取ると、湯気は出なかった。
「冷めてしまいましたね。淹れ直してきます」
セシリアが立ちかけたので、慌てて止めた。
「いや、このままでいいよ。待たせたのは僕だし、そこまでしてもらわなくても」
「でも」
「大丈夫。本当に」
セシリアは茶器を持ったまま、少し黙った。
「……お茶くらい、淹れさせてください」
アレンは顔を上げた。彼女は立たずに、茶器をそっと卓へ戻す。
「私も、一緒に飲みたかったので」
「うん。だから、次はちゃんと時間を――」
「次ではなくて」
言いかけた彼女が口を閉じた。
廊下の方から打ち合わせを告げる鐘が聞こえた。アレンがそちらを見ると、セシリアも小さく頷き、菓子の包みを持ち上げる。
「行きましょう。皆様がお待ちです」
アレンは茶器へ伸ばしかけた手を引いた。
何か言わなければと思ったが、セシリアはもう書類を抱えている。
「本当に、ごめん」
「……はい」
二人で廊下へ向かった。セシリアが持つ包みの端から、菓子が一つ覗いている。
結局、お茶を一口も飲まないまま席を離れることになった。
◆
その夜、宵待ち座の稽古は、予定より早く終わった。
アレンが返す台詞を間違え、ロゼも家令を呼ぶところで黙ってしまった。同じ場面をやり直しても、普段なら続く口論が続かない。
ベルタは二人を見比べ、帳面を閉じた。
「今日はここまで。そんな顔で夫婦を別れさせたら、客が本気にしちまうよ」
役者たちが帰り支度を始めるなか、アレンは舞台の端の卓へ座り、台本を開いた。直された台詞のほかに、最終公演の日程も書いてある。
同じ行を目で追っていると、隣から手が伸びてきた。
「その台本、お借りしても?」
ロゼだった。アレンが顔を上げると、彼女は自分の台本とペンを見せた。
「最後の台詞を写して帰ります。私の方には、まだ前のものが書いてありますので」
「ああ。どうぞ」
台本を渡すと、ロゼは椅子を寄せて座った。二冊を並べ、書き写し始める。
アレンも立ち上がらずにいた。着替えて帰っても、明日の朝まで今日の会話を考えてしまいそうだった。
「さっきは悪かったな。俺が返すところだったのに」
「私も間違えましたから」
ペン先が紙を擦る。返事はそれきりで、アレンは卓の木目へ目を落とした。
しばらくして、ロゼがペンを置いた。
「あなたが何も言わないと、調子が狂いますわ」
「喋ったら喋ったで、黙れって言うだろ」
「ええ。ですから、いつもどおりにしていただかないと」
アレンは少し笑った。ロゼも台本を閉じずに、こちらを見ている。
「……人に頼むのって、難しくないか」
口にすると、ロゼの眉がわずかに動いた。
「あなたにも、頼みにくいことが?」
「あるよ。嫌そうな顔をされたら、困る相手には」
ロゼはペンを指先で転がし、考えるように目を伏せた。
「それで、ご自分でなさるの」
「その方が早いし。向こうも忙しいから、余計なことを増やしたくない」
「忙しいのは、あなただって同じでしょう?」
アレンは頷きかけて、やめた。
ああ、ここでも同じことを言われるのか。言い返そうとしたのに、先にため息が出た。
「本当は、頼ってほしいんだ。その人には」
「でしたら、あなたも頼めばよろしいのでは?」
「だから、それが難しいって」
「ご自分はできないのに、お相手にはしてほしいの?」
アレンは椅子の背へ体を預けた。
「……そう言われると、ひどいな」
いつもなら得意そうに扇を開くところだが、ロゼは黙っていた。アレンは卓に置いた自分の手を見つめる。
「格好悪いところ、見せたくないんだよ」
仮面を被っているからか、隣の顔を見ずに済むからか、昼には言えないことが口から出た。
「頼りにしてくれてるから。できないって言ったら、がっかりするんじゃないかって」
「……嫌な顔を、されたことは?」
「ない」
「では、まだ分かりませんわね」
ロゼが台本をアレンの方へ戻した。
「私も、分かりませんけれど」
その言い方が引っかかって、アレンは彼女を見た。ロゼはペンの蓋を閉めかけ、手を止めている。
「君も、誰かに頼めないのか」
「頼むというか……言えないことが」
「悪口以外にも?」
ロゼに睨まれ、アレンは片手を上げた。
「悪かった。何も言わない」
「……その方は、私を気遣ってくださるのです。でも、気を遣われるばかりで、私からは何もできなくなることがあって」
声が少しずつ小さくなった。アレンは口を挟まず、続きを待った。
「何もしなくていい、と言われると……私がしたかったことまで、なくなってしまって」
昼間の茶器が頭に浮かんだ。セシリアも、あんなふうに言いたかったのだろうか。
隣で、ペンの蓋がかちりと鳴った。
「それ、本人には言った?」
ロゼは首を振った。
「せっかく私のためにしてくださったことへ、文句を言うようで」
「君が言わずに我慢してるのも、想像つかないな」
「あなたには、我慢する気がございませんから」
アレンは笑いかけたが、ロゼの手元を見て口を閉じた。彼女はもう蓋をしたペンを、まだ握っていた。
「……俺なら、一緒にやりたいって言ってもらえたら嬉しいけどな」
「でしたら、ご自分もそうなされば?」
「うん。……俺も言わないとな」
情けない返事になった。
ロゼがこちらを見る。少しして、彼女の口元が緩んだ。
「お互い、ここではよく喋りますのに」
「ああ」
アレンも笑った。
「俺は、明日話してみるよ」
ロゼはすぐには答えなかった。ペンを台本の間に挟み、両手を膝へ置く。
「私も。……文句だと思われないように、話してみます」
「君なら大丈夫だろ。俺にはちゃんと刺さってる」
「ですから、それではいけませんのよ」
少しだけ、いつもの声に戻った。
帳場からベルタが出てきたので、二人は台本を持って立ち上がる。
「終わったかい。そろそろ灯りを落とすよ」
「ええ。お待たせしました」
ロゼが椅子を戻した。アレンも自分の椅子を卓へ寄せる。
着替え部屋の前で彼女が足を止め、振り返った。
「おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まってから、アレンも自分の部屋へ入った。仮面を外し、鏡の中の顔を見る。
「……明日、少し話せる?」
誰もいないところで一度言ってみてから、外套の留め具へ手をかけた。




