第六話 大嫌いな相方
次の公演の日、アレンは舞台の上で三度、衛兵を振りほどいた。
四度目には、ベルタが客席から立ち上がった。
「捕まっておくれ!」
「捕まるつもりではいる!」
「つもりだけじゃ牢屋に入れないんだよ!」
衛兵役が、掴んでいたアレンの袖を離した。申し訳なさそうな顔をしているので、こちらも頭を下げる。最初の公演では腕を取られるだけで済んだが、追加した逃亡未遂の場面では、振りほどこうとして失敗しなければならない。
その、失敗するところが難しかった。
「腕を取られると、つい」
「逃げる芝居をしておくれ。逃げないで」
隣でロゼが扇を広げた。目元は仮面に隠れているのに、楽しんでいることだけはよく分かる。
「お逃げになるのはお得意ですものね。責任からも、取り立てからも」
「まだ芝居は始まってないぞ」
「でしたら今のは、ただの逃走ですわね」
アレンは言い返しかけ、衛兵役を見た。彼はもう一度、掴む方の手を差し出して待っている。
ため息をつき、その前へ戻った。
「……先に、俺がどう動けばやりやすいか教えてくれ」
衛兵役が瞬き、それからアレンの腕と自分の立つ位置を指した。ロゼも扇を下げ、二人の動きを見始める。夫人が逃げようとするのは、伯爵が捕まったあとだった。
次は逃げなかった。衣装だけを大きく揺らし、足をばたつかせると、ベルタが頷いた。
「そう。それなら客にも分かる」
アレンは衛兵に両腕を押さえられたまま、隣を見た。
「で、夫人はそのあいだに逃げると」
「ええ。あなたの陰で見えなくなりますから」
「俺を壁にするな」
「よい壁ですわ。厚くて、頑丈で」
ベルタのペンが動いた。
アレンはもう、何も言わなかった。
◆
開演前、アレンは通路から客席を覗いた。
前回より席が埋まっている。初めて見る客が二人、卓へ肘をついて話していた。
「聞いたか。ここの伯爵、実は没落貴族だって」
「奥方も一緒に流れてきたんだろ。だからあんなに本当みたいな喧嘩ができる」
アレンは仮面の下で眉を寄せた。
違う。
夫婦でもないし、あんな妻を持ったこともない。
「あの二人の新しいところが見たいんだが、今日はあるのかね」
男が給仕へ尋ねると、ベルタが脇から現れた。
「ございますとも。離婚のお話もたっぷりと」
「やっぱり別れるのか!」
違うと言いに行きたかったが、役者の素性を明かさないのは劇団の決まりだった。アレンはそっと身を引き、舞台袖へ戻る。
ロゼが首飾りの留め具を確かめていた。
「何ですの、その顔」
「俺たちは夫婦だそうだ」
「……客席のお話?」
「没落して、二人で流れてきたらしい」
ロゼは留め具から手を離した。
「私は別の町から来たことにしてくださいませ」
「こっちから願い下げだ」
彼女は扇を開き、今夜の台詞を小声で確かめ始めた。アレンも口を閉じ、袖から舞台の位置を見る。
前回は、笑いに被せて言ってしまった台詞があった。今日はそこを待つ。彼女が扇を閉じるのも合図になるし、家令が帳簿を持ち直したら、そろそろ次へ進めばいい。
幕の向こうで楽師が弦を鳴らした。ロゼが呟くのをやめ、アレンと目を合わせる。
二人で舞台へ出た。
追加した離婚の場面は、予想していた以上に受けた。
家令が夫人の化粧代を読み上げると、ロゼが帳簿を閉じさせる。その値段を聞いた伯爵が「壁に塗る漆喰より高いぞ!」と叫ぶと、夫人は真顔で言い返した。
「壁にも、お化粧して差し上げましょうか」
扇の先が、アレンの頬すれすれを通る。
稽古ではなかった動きだが、頬へ来る前に一度止まったのが見えた。アレンは顔を引いて避ける。客席が笑い、扇が元の位置へ戻る。
次の台詞を待つ、その短い間が妙に心地よかった。
家令が帳簿を奪い返されたあと、伯爵は夫人を指して言い放つ。
「私が税を上げたのは、こやつの贅沢のためだ! 私は一銭たりとも使っておらぬ!」
ロゼは、すぐには言い返さなかった。
伯爵の襟、袖、靴へと順に視線を落とす。開演前に確かめた立ち位置のまま、アレンは彼女を見下ろした。夫人が何を言うのか、分かっていても少し落ち着かない。
「では、そのお召し物は?」
「必要な経費だ」
「私のドレスは贅沢で、ご自分のお召し物は経費ですの?」
アレンは胸を張り、台本にある言い訳を続けた。ここでまた夫人に言い負かされ、二人とも同じ穴の狢だと客に分かる。
「仕方あるまい。お前が欲しいと泣いて頼むから――」
ロゼの笑みが消えた。
扇を閉じる音はしなかった。ただ、指が動かなくなった。アレンは続けるつもりだった言葉を飲む。
「お願いをしたのは、私です」
客席の笑いが薄くなった。
「けれど、税を上げるとお決めになったのは、あなたでしょう。私のせいになされば、命じたことまでなくなりますの?」
柔らかな声だった。
そのせいで、ひどくよく聞こえた。アレンの頭に、討伐軍の指揮官たちを前に立った日のことが浮かんだ。協力を求めたのは自分だ。損害の報告を受けたとき、誰のせいにもできなかった。
役の伯爵が、急に遠く感じられた。
「……私は」
言葉が出なかった。
台詞は覚えている。「金がないのは家令のせいだ」と、さらに責任を押しつければいい。それなのに、目の前の女を見ていると、口が動かない。
ロゼの視線が、ほんのわずかに変わった。
「家令。お水を」
彼女は伯爵の袖をつまみ、椅子の方へ引いた。
「ご覧なさい。夫が金勘定以外でお悩みですわ。長年連れ添って、初めて拝見いたしました」
客席から、笑いが戻ってきた。
アレンは導かれるまま椅子へ座った。家令が小道具の杯を差し出す。中に水が入っているのが見え、受け取ってひと口飲んだ。
ロゼは客席へ向かい、夫の髪を撫でるふりをした。
「難しいことを考えると、お疲れになるの。皆様、少々お待ちになって」
頭の上の扇が、ぱたぱたと動く。
アレンは杯を持ったまま、ゆっくり顔を上げた。
「……家令」
「はい、伯爵様」
「今のは、私を馬鹿だと言っているのか」
「よくお分かりになりましたわ」
ロゼが先に答えた。
アレンは彼女の手から逃れるように立ち上がり、今度こそ帳簿を指す。
「そもそも、金が足りぬのは家令の始末が悪いからであろう!」
家令は待っていたように深く頭を下げ、夫妻の使い込みの証拠を読み上げ始めた。
◆
終演後、アレンは舞台袖で杯を洗っていた家令役に礼を言った。
水はもともと、宴の場面で使うために用意していたものだという。若者は杯を置き、声を弾ませた。
「今日、二人ともすごかったです。奥方様が静かになって、伯爵様が何も言えなくなるところ。客席も、急に黙って」
「あれは――」
「前の方にいたお客さんが、帰りに言ってました。本当に命令を下してきた人みたいだって」
アレンは返事をし損ねた。
若者は感心した様子のまま、濡れた杯を布で拭き始める。少し離れたところで、ロゼが首飾りを箱へ戻していた。
アレンはそちらへ歩いた。
「さっきは、悪かった」
ロゼの手が止まる。
「台詞を忘れたわけじゃない」
「ええ」
「少し、別のことを考えた」
彼女は箱の蓋を閉じ、アレンを見た。
何を考えていたのか、と聞かれる気がした。答えられる話ではなかったが、どう断ればいいのかも分からない。
ロゼは扇を箱の横へ置いた。
「次の台詞がすぐに出ませんでしたから。私のものでよろしければ、少しお貸ししようかと」
「馬鹿扱いされたが」
「お水だけ差し上げるわけにもまいりませんもの」
杯を受け取ったときも、顔を上げたときも、隣には夫人がいた。
こちらが帳簿を指すまで、家令を責めずに待っていてくれた。
「……ありがとう」
ロゼは一度、目を伏せた。
「次は、ご自分の台詞をお持ちになって」
「分かってる」
言い返す代わりに、アレンは箱を戻せるよう棚の場所を空けた。
ロゼもそれ以上は何も言わず、小道具の箱を棚へ戻した。
アレンは着替え部屋へ向かいかけ、立ち止まった。
「あと、あの扇」
「何ですの」
「頭の上であおぐのはやめてくれ。思ったより腹が立つ」
ロゼの口元が上がった。
「そう。では、使えますわね」
やはり、余計なことを言った。
衛兵役が、稽古のために両手を差し出した。
「もう一度、お願いできますか?」
「ああ。今度は捕まる」
「では私は、その隙に」
歩き出したロゼの前へ、ベルタが台本を差し入れた。
「あんたも捕まるんだよ」




