第四話 隣にいるだけで結構です
「では、こちらの祝辞も勇者様にお願いできれば」
「はい。僕でよければ」
セシリアは、卓の下で膝の上の紙を握った。
向かいの役人が、また一枚、アレンの前へ書類を置く。記念祝典の進行表だった。先ほどまで自分の前にあったものだ。
「療養院へ伺う日は、午後の予定を空けていただけたのですよね?」
「ええ。聖女様には十分お休みいただくよう、手配しております」
役人は胸を張った。
隣のアレンも、よかったね、という顔をしている。
「その午後に、勇者様は?」
「兵舎へ顔を出して、そのあと祝典の打ち合わせを少し」
「少し、とは」
「式場を一度歩くくらいだよ」
役人が手元の紙へ目を落とした。
「旗手との顔合わせと、勲章授与の順番の確認、それから献花の予行もございます」
「そうでしたね」
「あと、祝辞を」
「今いただいたところです」
セシリアは握っていた紙を伸ばした。皺になった端が、なかなか戻らない。
「勇者様のお休みは、いつでしょうか」
「僕は祝福をしないから」
答えになっていない。
そう申し上げようとしたとき、役人が別の紙を広げた。式場に飾る討伐軍の旗について、旅に同行した二人へ確認したいという。
アレンは身を乗り出し、描かれた旗の一つを指した。
「この旗は、もう少し前へ。あの隊が橋を守ってくれたので」
セシリアも、その旗を覚えていた。
濁流に半ば沈んだ橋の上で、最後まで揺れていた青い旗だ。
椅子を寄せ、別の旗も指す。こちらの隊にも助けられた。飾るなら、隣に並べてほしい。
二人で話し始めると、役人のペンは忙しく動いた。
打ち合わせが終わったのは、昼をだいぶ過ぎてからだった。
「ごめん。長くなったね」
廊下へ出ると、アレンが振り向いた。
「今日はもう戻っていいよ。僕はこのあと、旗の担当者と話してくるから」
「私も――」
言いかけると、アレンは少し困ったように笑った。
「ちゃんと休んで。せっかく時間を空けてもらったんだから」
セシリアは差し出しかけた手を下ろした。
アレンが抱え直した書類の束は、来たときより厚かった。
◆
その夜の宵待ち座で、アレンは伯爵の椅子へ腰を下ろした。
腰を下ろしただけなのに、息が出た。
「お年を召しましたの?」
ロゼが扇の向こうからこちらを見ている。
「役作りだ」
「でしたら、立ち上がれなくなる前に始めましょう」
客席ではベルタが椅子を後ろへ傾け、二本の脚で揺らしていた。
今夜は、短い直しの稽古だけだ。明日の再演に向け、昨日の初公演で笑いに埋もれた台詞を整理する。アレンとしては、口数を減らすなら大歓迎だった。
ロゼの口数が減るなら、なおいい。
「逮捕の前から。家令は帳簿を取りに出たところだよ」
ベルタの声に、アレンは伯爵の姿勢を取った。肘掛けへ腕を載せ、顎を上げる。
「案ずるな。役人の相手は私がする。お前は隣で黙っておれ」
「あら。私の分まで言い訳を?」
「余計なことを言われては困る」
「あなたお一人なら、うまくいきますの?」
「当然だ!」
立ち上がる勢いが、少し足りなかった。
ロゼの視線が一度、肘掛けへ戻る。それから、ゆっくりこちらへ近づいてきた。
「では私は、何をすれば?」
「何もせずともよい。隣にいれば十分だ」
夫人が扇を閉じた。
「でしたら椅子を置けばよろしいでしょう」
アレンは、立ったばかりの椅子を見た。
「……椅子?」
「逃げませんし、口答えもいたしません。お好みの布を掛ければ、見栄えもいたしますわ」
「誰が椅子と結婚するか!」
「今、なさったお願いを伺う限り、適任かと」
客席でベルタの椅子の前脚が落ちた。
ロゼは空いた伯爵の椅子へ手を添え、背もたれの彫刻を撫でている。
「奥様、今日もお美しい。何もなさらず、こちらへどうぞ」
「椅子に話しかけるな!」
「お返事がありませんわ。理想の奥様では?」
ベルタが帳面を膝で叩いた。
アレンは椅子の前へ回り込み、ロゼの手から背もたれを取り戻した。
「お前を働かせぬと言っているのだ! 喜べ!」
「では、なぜお連れになったの?」
「夫婦であろう!」
「ええ。ですから、何をするか伺っておりますの」
さっきまでの椅子への声とは違った。
アレンは返しかけた言葉を飲んだ。ロゼは扇を下げ、伯爵の返事を待っている。
昼の廊下で、セシリアも何か言いかけていた。
あのあと、何と言うつもりだったのだろう。
「……お前にも、できることがあると?」
「ございますとも」
ロゼは伯爵の肩へ手を置いた。
「あなたのせいにいたします」
「働くな! 何もするな!」
ベルタが声を上げて笑い、袖で待っていた家令役まで帳簿に顔を伏せた。
「そこは使おう。明日も今の順番で」
アレンは肩の手を払い、伯爵の顔をやめた。
ロゼもすぐに手を引いたが、去り際に椅子をこちらへ向けてくる。
「お座りになって。お似合いですわよ」
「夫婦にするな」
「ご休憩です」
アレンは椅子を見下ろした。
座るのが、ひどく悔しかった。
◆
翌日の午後、セシリアは神殿の控え室で、書類をめくる音を聞いていた。
療養院への訪問は終わっている。予定どおり休憩も取れ、帰りの馬車では眠らずに済んだ。
隣に座ったアレンの方が、二度ほど目を閉じていた。
「旗の件、午前中に返事をもらえたから。兵舎ではこれを渡せば――」
向かいの椅子で、アレンが紙を取り落とした。
慌てて拾い、何でもないように並べ直す。セシリアが見ていることに気づくと、彼は笑った。
「ちょっと滑った」
「はい」
セシリアは頷いた。
笑っていれば、このまま彼は兵舎へ行く。
そのあと式場を歩き、旗手に会って、祝辞を読む。自分はここで、彼が休めるよう祈っているのだろうか。
「勇者様。その書類を、半分ください」
「え?」
「旗の配置でしたら、私もお話しできます」
「でも、今日は休むって――」
「私の分の休憩は、いただきました」
アレンの手が止まった。
セシリアは立って奪いに行く代わりに、座ったまま両手を差し出した。
「兵舎へはお一人でいらしてください。そのあいだに、こちらの確認は私が済ませます。式場には、二人で伺いましょう」
「……旗の人とも、話したかった?」
「はい。昨日から」
アレンは、揃えていた紙の端を見つめた。
「そっか」
一枚抜き、次も抜く。三枚目で迷っていたので、セシリアは手を引かずに待った。
「こっちは、僕にもよく分からなくて。旗竿の長さなんだけど」
「担当の方に伺います」
「ありがとう。じゃあ、これもお願いしていい?」
ようやく渡された紙を、セシリアは膝の上へ置いた。
アレンの手元は、目に見えて薄くなった。
「終わったら、少し時間が空きますね」
「うん。たぶん」
「中庭で、お茶にしませんか」
アレンが顔を上げた。
「それ、僕もいていいの?」
「お誘いしております」
彼は少し笑い、残りの書類をまとめた。
セシリアも紙を揃える。こちらの用事を先に終わらせれば、お茶を選ぶ時間がありそうだった。
◆
その夜、アレンは舞台袖でロゼに声をかけた。
「昨日の椅子の話だが」
「まだ気にしていらしたの?」
「あれは夫人の台詞として、長すぎる」
ロゼの扇が止まった。
アレンは衣装の袖を引き、縫い目を手首の内側へ合わせた。昼のセシリアの笑顔を、この女に話す必要はない。
「二度も三度も言わなくても、分かる」
「一度でお分かりになった顔ではございませんでしたけれど」
「分かったから座っただろ」
ロゼは少し黙り、それから扇を開いた。
「今日は、ちゃんと立っていらっしゃるのね」
「いつも立ってる」
「昨日は椅子と区別がつきませんでしたわ」
やはり、話しかけるのではなかった。
舞台へ向き直ろうとすると、家令役の若者が伯爵の椅子を運んできた。背に見慣れない紫の布が掛かっている。
「座長が、奥方様のお支度を、と」
ロゼが椅子を見た。
アレンを見た。
「お綺麗ですこと」
「お前のドレスの余り布だろうが!」
開演を待つ客席へ、笑い声が一つ漏れた。
家令役の若者が、紫の布を掛けた椅子を運んできた。
「こちら、どこへ置きましょう?」
「俺の部屋には入れるなよ」
「あら。もう別居?」
ヴァイスはロゼを睨み、若者へ小道具棚を指した。




