第三話 夫婦仲は最悪、評判は上々
その夜、セシリアは扇を開いたり閉じたりしながら、稽古の開始を待っていた。
衣装の裾は直してある。新しく渡された台詞も覚えた。やることがなくなると、今朝の勇者の顔が浮かんでしまう。頬が緩みかけるたびに扇で口元を隠していると、舞台へ出てきたヴァイスが足を止めた。
「何か企んでるのか」
「人が機嫌よくしていると、そんなに不思議?」
「昨日は俺を見るたびに扇が鳴ってたからな」
セシリアは閉じかけた扇を、そのままにした。今夜くらいは、この男の軽口に付き合わなくてもいい。
「少し、いいことがありましたの」
「へえ」
返事は素っ気なかったが、ヴァイスは立ち去らず、袖の留め具を直している。セシリアは扇の骨を指でなぞり、独り言のように続けた。
「身近な方が、私のことを気遣ってくださいました。いつもお忙しいのに、わざわざ話す時間を作ってくださって」
「よかったじゃないか」
「ええ。思い切って、少し疲れると申し上げたら、ちゃんと聞いてくださったの」
扇を持つ手が、また口元へ上がりそうになる。
ヴァイスは留め具を押さえたまま頷いた。
「じゃあ、最初からそう言えばよかったんだな」
扇が閉じた。
「……あなたには、話しにくいという経験がございませんの?」
「あるが」
「でしたら、お分かりになるでしょう」
「いや、話してみたら聞いてくれたんだろ。その人には言ってよかったってことじゃないのか」
理屈はそうだ。今朝、自分でも先に申し上げるべきだったと口にした。
けれど今は、よかったですね、と聞いていてほしかった。何日も迷ったのだ。昨日の晩餐の献立でも選んだように言わないでほしい。
「ずいぶん簡単におっしゃるのね」
「難しく言ってほしいのか?」
セシリアが扇を握り直したところへ、ベルタが台本を抱えてやってきた。
「おや。もう始めてたのかい」
「まだですわ」
「終わったところだ」
声が重なり、二人で相手を見る。
ベルタは舞台の中央を指した。
「だったら続きは伯爵夫妻になってから。初日は四日後だよ。仲よく最後まで揉めておくれ」
◇
アレンには、どうして機嫌を損ねたのか分からなかった。
気遣ってもらえたと聞いて、よかったと返した。そのあとも何か言いたそうだったので応じたら、なぜか睨まれた。今日はセシリアとちゃんと話せて、自分も少し気分がよかったのに。
もっとも、それをこの女に話すつもりはない。何を言われるか知れたものではなかった。
稽古では宴の場面に進んだ。伯爵夫妻が招待客の前で仲のよさを取り繕い、袖へ引っ込んでは罵り合う。ロゼは客人へ微笑んだ直後、夫にだけ聞こえる声へ切り替えるのがうまかった。
「あちらのご夫人が、仲睦まじくて羨ましいと」
「見る目のあるご婦人だ」
「お気の毒に。目を患っていらっしゃるのね」
アレンは笑いそうになり、咳でごまかした。
こんな台詞はなかった。それでも悔しいので、すぐに夫の顔で応じる。
「お前もあのくらい愛想よくできぬか」
「しておりますわ。皆様の前では」
「私の前でもしろ!」
「お望みとあらば」
ロゼが微笑んだ。口元だけは柔らかく、扇を持つ指先まで優雅だったが、目の前に立たれると逃げ道を塞がれたような気がする。
「これで、何をお頼みになっても断らない妻に見えまして?」
ああ、まだ怒っている。
アレンは外套の襟を整え、彼女と並んで客席へ向き直った。
「うむ。頼もしい妻だ」
「では次のお願いをなさる前に、一度こちらをご覧になって。喋っていないときにも、顔はございますから」
アレンの手が止まった。
さっきまで笑っていたベルタが、今度は黙ってペンを走らせている。ロゼは夫の返事を待たず、架空の招待客へ会釈した。
アレンも遅れて頭を下げる。誰もいないはずの正面に、王城の役人が座っているような気がしてきた。
◆
四日後の宵待ち座は、新作を見に来た客で七割ほどの席が埋まっていた。
幕の隙間から覗くと、前列にいつもの客がいる。ヴァイスが転ぶと誰よりも大きく笑う男だ。その近くには、仮面姿のロゼが刷られた小さな絵札を持つ女が座っていた。絵札まで高慢そうな表情をしている。
「幕を持ち上げないで。そちらから明かりが漏れますわ」
背後から囁かれ、アレンは指を離した。
ロゼの首には、硝子玉を繋いだ大ぶりの首飾りがかかっている。伯爵に買わせた品ということになっていた。彼女はそれを指先で整えると、家令役の若者へ声をかけた。
「留め具の場面、稽古どおりに。私が外すまでお待ちになってね」
若者が頷く。アレンも袖の位置を確かめた。逮捕の場面で衛兵役に掴ませるため、外套を少しずらしておく。
ベルタが指を二本立てた。袖の話し声が止まり、楽師の弦の音が聞こえてくる。
幕が開いた。
宴の支度の押しつけ合いは、最初の稽古以上に受けた。ロゼに責め立てられた伯爵が返答を探すたび、客席に笑いが起きる。その笑いが収まるまで、ロゼは次を言わずに待っていた。
悔しいほど、自分を見ている。
アレンは言い返す台詞を一拍遅らせた。客席のざわめきが引いたところへ怒声を落とすと、後ろの席からも笑い声が上がった。
宴が始まるころには、夫人が微笑むだけで前列の客が身を乗り出すようになっていた。
アレンは彼女へ腕を差し出した。ロゼが指先を添え、二人で客席へ会釈する。客から見えないように回した扇が、アレンの背中をとん、と叩いた。
次の立ち位置が、半歩前だった。
アレンは腕を引かずに足だけを動かした。
終盤、未払いの代金を取り立てに来た家令が、夫人の首飾りを見つける。
「奥方様、その首飾りをお預かりできれば、使用人どもの給金に」
「まあ。私の首を差し出せと?」
「首飾りでございます」
「同じことですわ。これがなくなれば、私、恥ずかしくて顔を上げられませんもの」
「ならば下を向いておれ!」
伯爵の声に、客席が沸く。ロゼはわずかに顎を上げ、アレンを見据えた。
「夫に下を向かされるために、嫁いだ覚えはございませんわ」
「私もお前を飾るために借金した覚えはない!」
「では、どなたをお飾りに? 私のほかにも借金をしてまで飾りたい方が?」
客席の男が「ああ、言っちまった」と声を上げた。
予定になかった追及に、アレンは夫人の首飾りを指す。
「そもそも、お前が欲しいと言ったのであろう!」
「あなたがお買いになるとおっしゃいました!」
「分かった! では、今ここで売る!」
アレンが家令へ手を差し出すと、ロゼも首飾りの留め具へ指をかけた。稽古で何度も合わせたところだ。こちらが待てば、外した品を手渡してくる。
ところが彼女は首飾りを持ったまま、反対の手でアレンの外套を示した。
「こちらも。仲睦まじい夫婦ですもの、片方だけ身軽になるわけにはまいりませんわね?」
客席から拍手が起きた。
アレンはたっぷり顔をしかめ、外套の留め具へ手をやった。背後では家令が、二人へ交互に頭を下げている。
そこへ衛兵が踏み込んだ。領民から取り立てた税を私物に使った証拠が出た、という台詞が響く。家令の手元には、ちょうど押収すべき品が揃っていた。
「待て、違う! 妻に言われて!」
「私、あなたの返事を待っていたのに!」
二人同時に腕を掴まれ、同じ方へ引きずられる。
最後まで相手を指差していると、幕の下りきる前から客席に拍手が広がった。
幕の裏で、アレンは掴まれていた腕をさすった。隣ではロゼが肩を上下させている。客席から「奥方、もっと言ってやれ!」と声が飛び、彼女が顔を上げた。
「聞いたかい、今の」
ベルタが舞台袖から飛んできた。
「明後日もやるよ。同じ組で」
「別の相手にしてくれ」
「それは私の台詞ですわ」
「息はぴったりだね。さあ、もう一度出るよ!」
背中を押され、二人でもう一度客前へ出た。
頭を下げると、前列の男が隣の女へ大声で言っているのが聞こえた。
「ありゃ芝居じゃねえ。俺が帳場で毎月聞かされるやつだ」
女が男の腕を叩き、近くの客まで笑った。アレンが身を起こすと、今度は後ろの席から声がする。
「伯爵、あんた、絶対に人の金で失敗したことあるだろ!」
討伐軍の追加予算を願い出た日のことが、頭をよぎった。
隣でロゼが、いかにも楽しそうに肩を震わせている。アレンは彼女へ片手を広げ、客席の注目を譲ってやった。
「奥方! うちの亭主にも言っておくれ!」
ロゼは優雅に一礼した。いくらか深すぎる礼だった。
袖へ戻るなり、彼女が低い声で言う。
「余計なことを」
「お互いさまだろ」
首飾りを返しに来た家令役が、二人の顔を見比べて足を止めた。
「……これ、どちらにお渡しすれば」
「小道具棚!」
二人の声が揃い、若者は首飾りを抱えて逃げていった。
「どうしたら、そんなにうまく言い合えるんですか?」
家令役の若者に尋ねられ、ヴァイスはロゼを指した。
「こいつの話を聞いていれば、自然と」
「こちらこそ。黙って聞けるお話をなさってくだされば」
若者は感心した顔で、何かを書き留めた。




