第二話 善意のお値段
ご自分でなされば。
扇の向こうから飛んできた言葉に、アレンは台本を見直した。妻はここで宝石をねだるはずだった。宴の支度を引き受ける代わりに、新しい首飾りを買わせる。それを夫が渋り、領民から取り立てる税を増やそうという話になる。
少なくとも、渡された紙にはそう書いてある。
「……妻が夫を助けるのは、当然であろう」
「助けてほしいとおっしゃいました?」
「今、言ったではないか」
「取り計らえ、と命じられましたわね」
アレンは紙を握り直した。何だこの女。悪役を演じに来たのに、なぜ自分だけが責められている。
客のいない席では、ベルタが口元を帳面で隠していた。止める様子はない。
「細かい言葉にこだわるな。私は忙しいのだ」
「お忙しい方が、なぜ新しく宴をお引き受けに?」
「客人を無下には扱えまい」
「奥方は無下に扱えますのね」
紙を握る手に力が入った。
朝、セシリアが揃えていた指を思い出したのは、たまたまだ。彼女はこんな言い方をしない。もっと穏やかで、こちらが困っていたら、黙って手を貸してくれる。
「お前ならできると思って頼んでいる!」
「できるかどうかをお尋ねになる前に、もうお返事をなさったのでしょう?」
アレンは返事に詰まった。
ロゼは扇をゆっくり揺らしている。返事を待つその仕草まで、腹が立つほど余裕があった。
「あなたの善意は、どうして私が働くことで完成しますの?」
客席で、誰かが噴き出した。
振り向くと、小道具を抱えた役者が入り口に立っていた。慌てて口を押さえ、ベルタの隣へ座る。アレンが視線を戻すより早く、ロゼは台本を持った手を差し出した。
「さあ。宴のお支度を。私は新しい首飾りを選んでまいりますから」
ちゃっかり自分の要求には戻すつもりらしい。
そこまで分かって、アレンもようやく紙を下げた。
「待て。お前にも宴へ出てもらう」
「もちろん。お支度が済みましたら」
「飾り立てて座るだけのつもりか!」
「それがご自慢の妻ではございませんの? どなたにお会いしても、美しい妻だとご紹介くださるでしょう」
「口を開く前まではな!」
入り口にいた役者が膝を叩いた。ロゼの扇が止まり、その隙にアレンは一歩近づく。
「気に入らぬなら、最初からそう言えばよかろう。笑って頷いておいて、後から私を悪者にするな!」
「まあ。ご自覚が?」
「今は私が喋っている!」
ロゼが扇を閉じた。ぱちん、という音が舞台に響く。
「ええ。お好きですものね。ご自分がお喋りになるのは」
「お前も今、存分に喋っているだろうが!」
「あなたの返事がまだ終わらないうちに、私の仕事が増えるからですわ!」
舞台袖から笑い声がした。いつの間にか、別の役者も顔を出している。ロゼがそちらへ顔を向けた拍子に、アレンは台本を広げて次の場面を探した。
ここで家令が帳簿を持ってくる。夫妻は宴の費用を見て青ざめるのだ。
「いいだろう! 支度は家令に任せる! 誰ぞある!」
袖にいた若い役者がびくりと肩を跳ねさせ、慌てて手近な帳面を掴んだ。駆け出しかけたところでベルタが袖を引き、耳元で何か囁く。
家令は一礼して舞台へ上がり、帳面を開いた。
「伯爵様。先月のお支払いが済むまで、一人も働かないとのことでございます」
アレンはロゼを見た。
ロゼもこちらを見た。
「……首飾りは、来月にせぬか」
「あなたの外套を売れば?」
今度はベルタまで声を上げて笑った。
「そこまで!」
座長が膝の帳面を閉じる。アレンは息を吐き、伯爵の姿勢を崩した。ロゼも扇で顔をあおぎ始める。あれだけ喋れば暑くもなるだろう。
「宴の支度から、もう一度やるよ。家令、その入る間を忘れないで」
「座長。あの台詞、紙にはないぞ」
「今、書いた」
「この方の台詞は、ほとんど紙にございませんでしたけれど」
「あんたもだろう、ロゼ」
ベルタは笑いながら椅子を引き寄せた。
「話が戻ってきたからいい。帳簿も出たし、首飾りも欲しがった。この調子なら面白くなる」
アレンは隣の仮面へ目をやった。次からは、何を言い出すか分からない女に合わせて芝居をするのか。
ロゼがこちらを向き、扇を片手で持ち直す。
「私の台詞の途中で、大きな声を出すのはおやめになって」
「俺の台詞を途中で奪わなければな」
ベルタが、もう一度帳面を開いた。
◆
翌朝、アレンは神殿の廊下で足を止めた。
セシリアの部屋の前には、小さな机と、面会の順番を待つための椅子が三脚ある。旅先でのように声をかけて入ればいいのに、今朝は扉を叩くまでに少し時間がかかった。
「どうぞ」
入ると、セシリアは窓際で手紙を読んでいた。机の端には封を切ったものと、まだ切っていないものが分けて積まれている。
「勇者様。お早いのですね」
「少し、聞きたいことがあって」
彼女は手紙を置き、椅子から立った。
「何かありましたか?」
「いや。座ってて。昨日決まった療養院の件なんだけど」
セシリアの背が、すっと伸びた。
アレンはその動きを見ながら、用意してきた言葉を口にする。
「百二十人を祝福するのに、どれくらい時間が必要?」
「皆様に順番にお会いするのでしたら……院内を移動する時間もありますから、昼過ぎまで見ていただけると」
「休憩は?」
「途中でお茶をいただければ、大丈夫です」
大丈夫。
昨日もそう聞いて、安心した。
アレンは差し出しかけた手を引っ込め、近くの椅子を指した。
「僕も座っていい?」
「はい。もちろん」
二人で向かい合って腰を下ろした。こうして話すと、セシリアの目の下に薄い影があるのが分かる。昨夜、自分が嫌な女と口論しているあいだも、彼女は手紙に返事を書いていたのかもしれない。
「僕、人数を聞く前に引き受けてしまったね」
セシリアが目を瞬かせた。
「行けるかどうかも、君に聞かなかった。ごめん」
「いえ。皆様がお待ちですから」
「うん。僕も行きたい。だから、どうすれば無理なく行けるか、先に君と話すべきだった」
彼女は膝の上へ視線を落とした。昨日と同じように指を揃えかけ、途中でやめる。
アレンは待った。沈黙が長くなり、何か補った方がいいか迷い始めたころ、セシリアが顔を上げた。
「……祝福のあと、すぐに別の場所へ伺うのは、少し」
「うん」
「疲れます。皆様のお話も伺いたいので、予定より長くなってしまうことが多くて」
昨日、職人の一人が亡くなった兄の話を始めたとき、セシリアは椅子を寄せて聞いていた。次の予定を告げに来た役人を、アレンも手で制したのだ。あの話を途中で切り上げることは、自分にもできなかった。
「じゃあ、そのあとは空けてもらおう。訪問の途中にも、ちゃんと休める時間を取って」
「よろしいのですか?」
「予定を決めた人には、僕から相談する。それで足りるか、君も一緒に見てくれる?」
セシリアは頷いた。それから、小さく息を吐く。
「ありがとうございます。私からも、先に申し上げるべきでした」
「いや、僕が――」
言いかけて、アレンは口を閉じた。セシリアがまた自分のせいだと言い出しそうな顔をしたので、慌てて別の言葉を探す。
「……次は、返事をする前に二人で話そう」
セシリアの肩から力が抜けた。
「はい。そうしましょう」
今朝初めて、目元までほころんだ。
アレンもつられて笑った。
昨夜の女の顔が浮かびかけたので、頭の中から追い払った。あいつなら、この話を聞いても嫌味の一つくらい言うだろう。もう少し普通に喋れないものか。
◇
アレンを見送ったあと、セシリアは読みかけの手紙へ戻った。
けれど、すぐには続きへ目を通せなかった。椅子に座り直し、先ほど彼が座っていた場所を見る。
疲れます、と言ってしまった。
言う前はあんなに迷ったのに、勇者様は少しも困った顔をなさらなかった。それどころか、一緒に予定を見ようとおっしゃった。
セシリアは机へ肘をつきかけてやめ、代わりに両手で頬を押さえた。誰かに話したいくらい嬉しかったが、この話をすれば、これまでの不満まで説明することになる。
昨夜の男なら、余計な遠慮は要らないだろう。ただ、腹が立つ。
「……あの言い方でなければ、素直にお礼も申せますのに」
誰もいない部屋で呟き、今度こそ手紙を手に取った。
「はい、今日の稽古はここまで」
ベルタが帳面を閉じても、ヴァイスは舞台を下りなかった。
「待ってくれ。今のには言い返せる」
「では、伺いますわ」
ロゼが扇を畳んで待った。ベルタはため息をつき、もう一度椅子へ座った。




