第8話「翌朝の縄」
縄は村の北の入り口に掛けられた。
街道と杣道の合わさる辻に立つ、枝振りの太い楡の木。よりにもよって、と思ったのは俺だけではないはずだ。よそから谷に入る者が、最初に目にする場所だった。つまり、そういうことなのだ。これは処刑であると同時に、次に峠を越えてくる誰かへの、立て札だった。
夜明け前、ヨーゼフ司祭が館に来た。
「5人に、祈りを」
断られると思っていたのだろう。司祭の声には戸を叩く前から押し問答の構えがあった。彼女は帳面から顔を上げて、あっさりと頷いた。
「どうぞ。夜明けまでに済むのでしたら」
「……止めはせんのですな。神の名で、彼らの命乞いをするやもしれませんぞ」
「祈りはあなたの仕事で、処刑は私の仕事ですわ。お互い、仕事をいたしましょう」
司祭は何か言いかけて、結局、蔵の脇の捕虜のところへ歩いていった。風の冷たい夜で、祈りの低い声は、途切れ途切れに館まで届いた。5人のうち何人が祈りを受けたのか、俺は知らない。だが、明け方近くまで声は続いていた。
彼女はそのあいだ、帳面を開いていた。
死んだ22人の頁だ。夜のうちに検めさせた持ち物が机に並んでいる。擦り切れた守り袋。女物の櫛。子どもの乳歯がひとつ入った小箱。歯形のついた木の匙。彼女はそれをひとつずつ検めて、特徴を書き付けていく。『右肩に古い火傷、守り袋、30なかば』。『片目、女物の櫛所持、若い』。名前の分からない死者の、名前の代わりになるものを。
検め終わった品は、ひとつずつ麻紐で括られて、頁の番号と同じ木札が付けられた。いつか誰かが探しに来たときのためだという。来るとも思えない誰かのために、館の物置に、棚がひとつ空けられた。
「賊ですよ」と、俺は思わず言った。「昨夜、俺たちを殺しに来た」
「ええ」
「それも、数えるんですか」
「私が殺すと決めた者ですもの」ペンは止まらなかった。「数えなければ、ただ消したことになりますわ。それは、しません。殺した数を忘れる人間は、いずれ数えずに殺すようになりますの」
殺した数を忘れない、と言ったその人の手元に、22人分の頁がある。文字はひとつも乱れていなかった。俺はそれを見て、安心すればいいのか底冷えすればいいのか、分からなかった。
夜半、捕虜の番を一刻だけ替わった。
5人は蔵の脇の納屋に、後ろ手のまま座らされていた。司祭の祈りが終わった後で、4人は壁にもたれて目を閉じていた。眠れているのかどうかは知らない。眠れるものなのかも知らない。
端の一人だけが目を開けていた。昨夜、膝から崩れた若いのだ。
「……水を、くれ」
柄杓で飲ませてやると、若いのは続けて、ぽつぽつと喋った。止まらない、という喋り方で。北の谷の小作の四男で、先の冬に家の畑が人手に渡って、口減らしに出された。山で群れに拾われたのはひと月前だという。拾われた、と言った。攫われたでも入ったでもなく。飯をくれたんだ、あいつら、最初に。
納屋の隙間風が喋るたびに若いのの前髪を揺らした。後ろ手の縄は指の先が紫になるほどには締まっていない。締めたのは傭兵のはずで、つまりあれで緩めてあるのだ。誰の指図かは訊かなかった。
「……あんたらの村の粥、うまそうな匂いがした」と、若いのは言った。「塀の外まで、匂うんだ。あれは」
俺は何も答えられず、代わりにもう一杯、水を飲ませた。それが俺にできる全部で、全部があの程度だということを、夜明けまで何度も数え直した。
夜が明けた。
処刑の朝も配給はいつもの刻限に始まっていた。
これも彼女の指図だった。鍋はいつも通り、量りもいつも通り。村の朝飯と、辻の縄が、同じ太陽の下に並んで存在している。配給の列から、楡の木は見えない。見えないように、鍋の位置が前の晩のうちに半歩ずらされていたことに、気づいた者がどれだけいたか。
霜の降りた朝で、鍋の湯気がいつもより高く立った。列の進みはいつもより少し速い。誰もが受け取った椀を抱えて、早足で家へ戻っていく。湯気の向こうの楡の方角を、見ないための早足だった。
楡の木の下に、5人が引き出された。村人は来るなとも来いとも言われていない。それでも半分ほどが、辻から距離を置いて集まった。子どもを連れて来た母親はいない。前の晩のうちにブレヒトが家々を回って、子どもは見せるな、とだけ伝えてあった。それも彼女の指図だった。
彼女は5人の前に立って、ひとりずつ、名を訊いた。
「コルツ」と最初の男は言った。掠れていたが、はっきり言った。
「ルッツ・コルツの倅の方の、コルツだ。親父も同じ名だった。……親父の方は、先の冬に死んだ」
彼女は頷いて、書いた。次の男もその次も名乗る。昨夜膝から崩れた若いのは、しゃくり上げる合間にイェノ、と言った。歳を訊かれて、17、と答えた。
俺は奥歯を噛んだ。
17。彼女と同い歳。
最後が頭目。男は彼女の顔に唾を吐こうとして、距離が足りずに地面に落ちた。名を訊かれて、笑った。
「地獄で訊け」
「では、『名乗らず』と」
彼女は本当にそう書いた。それから帳面を閉じて、5人と集まった村人と楡の木を順に見て、宣告を読み上げた。罪状はひとつだけ。
「ヴェルデンの内側に、武器を持って踏み入った。よって、死」
合図は手袋の指を一本、立てるだけだった。
俺は最後まで見ていなかった。視線が勝手に落ちた。縄と枝の軋む音が五度。風の音。それから、群衆のどこからも、歓声が上がらなかったことだけを覚えている。誰も快哉を叫ばない。誰も泣かない。みんな、見るべきものを見届ける顔で立っていた。終わると、ひとり、またひとりと黙って仕事に戻っていった。
ゲルダの婆さんだけが、最後まで残っていた。
「騎士様や」と、婆さんは楡を見上げたまま言った。「賊が出た冬はね、いつもなら、今ごろ若い娘の幾人かが攫われてるんだよ。攫われた娘がどうなるかは、誰も口にしないがね。……今年は、誰も攫われない」
杖が凍った土を突いた。
「誰も、だ」
選別は午前のうちに行われた。
杭の外で捕えた9人が、ひとりずつ執務室に通される。彼女の質問は毎回ほとんど同じだった。名は。生業は何だった。群れに入って、どれくらいになる。人を殺したことは。これからどうしたい。
答えは様々だった。元は小作だった者。鋳掛け屋だった者。群れに入ってひと月の者、三年の者。殺したことを正直に言った者と目を泳がせた者。鋳掛け屋だった男は、これからどうしたいかには長いこと黙った末に、鞴が直せますと的の外れた答えを返した。外れた答えはそのまま帳面に書かれて、鍛冶場へ回す旨が書き足される。問いに合っていない答えの方が、当てになることもあるのだろう。彼女は答えのたびに帳面へ何か書いて、最後に、全員へ同じ条件を出した。
雇う。日当は傭兵の半分から始める。寝床は納屋、飯は配給、得物は当面持たせない。働きで信を積めば、上げる。逃げるのは勝手だが、次にこの谷の杭を武器を持って越えた時は昨日の楡だ。
6人がその場で頭を下げた。
2人は迷って、結局、谷を出る方を選んだ。彼女は止めず、ひとり3日分の麦を持たせ、峠まで傭兵に送らせた。見送りというより、確かに出ていったことを確かめる護送だったが、麦を持たせる理由を訊いた俺に彼女は言った。
「手ぶらで放り出せば、3日後には、どこかの村で盗みますわ」
3日分というのは、峠を越えて次の市場まで、急ぎ足でちょうど届く量だという。生かして放すなら、生きて着くところまで持たせる。情けの寸法ではなく、里程の寸法だった。
最後がヴェンツェルだった。
男は問われたことに過不足なく答えた。元は隊商の護衛。群れには2年。殺したことはある。これからどうしたいかには、少し間を置いて、逆に訊き返した。
「あんたは、なぜ俺たちを生かす。皆殺しが流儀じゃなかったのか」
「流儀ではありませんわ。線引きです」彼女は手を組んだ。「杭の内に入った者は殺す。入らなかった者は殺さない。あなたたちが生きているのは、慈悲ではなく、線のこちら側にいたからですの」
ヴェンツェルはしばらく彼女を眺めた。例の、値踏みの目で。それから、ゆっくり頷いた。
「……いいね。覚えやすい規則だ」男は頭を下げた。雇われの礼だった。「俺は強い主君の下にも、優しい主君の下にもいたことがある。どっちも死んだ。長生きしてるのは、計算できる主君の下にいた連中だけだ。あんたは、計算できる」
最大の賛辞のつもりらしかった。彼女は受け流して、ひとつだけ条件を足した。残りの6人をまとめる役を、ヴェンツェルにやらせる、と。6人の誰かが規則を破れば、破った当人と、ヴェンツェルの日当が飛ぶ。責任は男に載り、男は条件を二度確かめてから、それごと引き受けた。引き受け方まで勘定の音がした。
部屋を出る間際、ヴェンツェルは俺の横で一度だけ足を止めて、低く言った。
「騎士様。あの人の言う『二度目はない』はな、脅しじゃねえ。あれは、約束だ。……俺たちの稼業じゃ、約束を守る相手がいちばん怖い」
全部が終わった昼過ぎ、俺は彼女に追いついて、訊いた。訊かずにいられなかった。
「イェノは……あの17のは、群れに入ってひと月足らずだった。口減らしに出されて、飯で拾われただけだ。夜中に、話した。あいつは、あんたの粥の匂いの話をしていた。あいつだけでも、調べてから——」
「杭の内にいましたわ」
「線の話は分かります。だが、一度くらいの慈悲が——」
「一度くらい」
彼女は足を止めた。俺の言葉を、そのまま量りに載せるように繰り返して。
振り向いた顔はいつもと同じだった。声もいつもの高さ。けれど言葉の前の間が、黒タグのときと同じ長さだけあった。
「慈悲が、いちばん人を殺しますのよ」
風が楡の方から吹いてきた。
「……私はその数を、知っていますの」
それ以上は何も言わずに、彼女は歩いていった。どこで知った数なのか、いつ数えた数なのか、訊ける気配はどこにもない。もっとも、あの一言の重さだけが、辻に吊られた5本の縄ごと俺の肩に載った。
夕方、縄は下ろされ、5人は杣道の脇の22人と並んで埋められた。
埋める前に、ヨーゼフ司祭が27人分の、長い祈りを上げた。終わるころには日が落ちかけて、薄闇の中では、司祭の白い息だけがずっと動いている。彼女は祈りに加わらず、離れた場所に立ったまま、けれど終わるまでその場を動かなかった。
帳面には27の名前と特徴が記されている。コルツ。イェノ、17。名乗らず。墓掘りは4人で足りた。
雇っておいて良かったですわね、と彼女は言った。冗談の顔ではなかった。
その晩の配給で椀を持つ村人たちの列は、いつもより少しだけ静かで、いつもより少しだけ長く鍋の前の彼女に頭を下げていった。下げられた側は柄杓の手を一度も止めなかった。
楡の木はもう、ありふれた楡の木に戻っている。それでも俺は辻を通るたびに枝を見上げる癖がこの日からついた。




