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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第7話「二度目はない」

鐘が鳴り止んだ後の村は、稽古の晩より静かだった。


怖いから静かなのではない。やることが決まっているから静かなのだ。そのことに気づいたとき、この半月の稽古と段取りが何のためだったのかが、ようやく腹で分かった。


教会の人数が合うまで、四半刻もかからなかった。


数える係の少年が走ってきて、92、全員ですと上ずった声で告げる。彼女は頷いて、閂をとだけ返した。重い木の落ちる音が、夜の村にやけに響いた。


持ち場は稽古のとおりに埋まっていった。北の一本道を見下ろす屋根に弓が5人。道を挟む溝の陰に、ハイラムと傭兵が4人。村の男の槍衾が蔵の前に二重。残りの傭兵2人は、彼女が「負けている時用」と呼んだ退き口に伏せてある。


彼女の立ち位置は蔵の前だった。


「……教会へ。せめて館へ入ってください」と俺は言った。


「蔵の前が、いちばん安全ですわ」


「どこがです」


「皆が命懸けで守る場所ですもの」


理屈になっていない理屈で言い返せなくしておいて、彼女は俺を見た。


「レンツ。あなたの持ち場は私の隣。役目はふたつ。私を生かすこと。それから——これから私が出す命令を、全部、見ていなさい」


それから待った。


待つ時間がいちばん長かった。蔵の前の槍衾では、村の男たちの息が白く、誰かの槍の穂先が小刻みに鳴っていた。震えを止めようとして、握り直して、また鳴る。隣の男が何か囁いて、低い笑いが短く起きて、すぐ消える。グンナルは列の中央で、自分で打った鏃の槍を、棒杭みたいに微動だにせず立てていた。ああいう時に体が止まる男と震える男がいる。どちらが先に死ぬかは、ハイラムに言わせると「関係ねえ」そうだ。


俺はと言えば、心の臓が鎧の内側で勝手に走っていた。峠の夜とは違う。あの夜は襲われた。今夜は待ち構えている。この違いがこんなに腹に応えるものだとは、騎士の教本には書いていなかった。


夜気は刃物みたいで、吸うたびに喉の奥が痛んだ。どこかの持ち場で、誰かが小便を我慢しきれずに抜けて、戻ってきて小声で詫びるのが聞こえる。ハイラムの「構わねえ、漏らして立ってるよりましだ」で、低い笑いがまた起きた。笑いはすぐ凍ったが、あれで足の震えの止まった男が、何人かはいたはずだ。


彼女は動かなかった。外套の前で手を組んで北の闇を見ている。今夜は帳面を持っていない。手袋の白だけが松明の灯りの端で浮いていた。


見ていろ、というのが何の意味か、訊く前に北の闇が動いた。


最初に聞こえたのは、足音ですらなかった。大勢の人間が抑えようとして抑えきれない、衣擦れと荒い息の、層になった気配。それが杣道の出口で一度溜まって、月のない夜の底を、こちらへ流れ出してくる。


白い杭が見えているはずだ。


苔をこそげて塗り直した境界石も。あの白の意味を奴らは知らない。知らないまま、先頭の影が、杭の線を踏み越えた。後ろが続く。十、二十——途切れない。


「越えましたわね」


隣で声がした。恐ろしいほど普段どおりの声が。


「——殺しなさい。一人も、逃がしてはなりません」


櫓の上で、火矢が一本、夜空に立った。


それが合図で、屋根の上の弓が一斉に鳴いた。先頭の数人が崩れ、群れが怯んで道の脇へ膨らみ、膨らんだ先が例の溝だった。腰まで掘り下げた溝に、闇の中で人が落ちる音は、戦というより事故の音に近い。悲鳴。怒号。誰かが「罠だ」と叫び、その声ごと二の矢が刺さった。


それでも飢えた群れは止まらなかった。止まれないのだ。後ろには冬しかない。溝を避けた本隊が、蔵の松明の灯りへ、雪崩を打って突っ込んでくる。


「槍ァ構えろ! 叫べ!」


ハイラムの濁声に、村の男たちが腹から吠えた。稽古のとおり、ただ叫んで構える。たったそれだけのことが、突っ込んでくる側の足を確かに鈍らせた。鈍ったところへ、溝の陰から傭兵たちが横ざまに食いついた。


俺の初手は槍衾を回り込んだ大柄の影だった。


鉈が振り下ろされる前に踏み込んで斬った。手応えの重さは峠の夜と同じで、考えるのは後にした。二人目。三人目は若い槍持ちで、突きをいなして柄ごと叩き伏せ、起き上がる前に傭兵が仕留めた。血のにおいが鍛冶場の鉄のにおいに混ざって、夜気を生臭く重くしていく。


戦というものは教本だともっと長い。


実際には群れの背骨が折れるまで、四半刻とかからなかった。先頭が死に、溝が埋まり、槍衾が崩れないと分かった時点で賊の群れは群れであることをやめた。一人がきびすを返し、それが堰になって、残りが夜の中へばらけ始める。


俺は息をついた。終わった、と思ったのだ。


「逃がすな、と言いましたわ」


彼女の声は上がりも下がりもしなかった。


「ハイラム。手筈どおりに」


杣道の出口で火が横に走った。退き口に伏せてあった2人が、油を撒いた枯れ柴に火を入れたのだ。退路の火壁。逃げる影が燃える道の前で詰まって、折り重なって、そこへ屋根の上から矢が降った。


背中に矢が。


逃げる背中に。


俺は突っ立って、それを見ていた。見ていろ、と言われたとおりに。喉の奥で、何かが言葉になりかけて、ならなかった。あれはもう、戦じゃない。戦じゃないなら何だ。刈り入れだ。彼女が春から逆算して、溝の深さから火壁の位置まで設計した、冬の前の刈り入れ。


最後の影が倒れて、弓が鳴り止むまで、俺は剣を提げたまま動けなかった。


頭目は川沿いの退き口で捕まった。


群れを置いて、馬で真っ先に逃げたのだ。そこに伏兵が立っていた。馬の脚を槍で払われ、泥の中を引きずられてきた男は馬上で振るうためのまともな剣を佩いていて、着ているものも群れの中で一人だけ厚かった。鞍袋から出てきたのは、銀貨の包みがひとつ。飢えて山を下りた群れの頭が、一人だけ飢えていない。袋を検めたハイラムが黙って唾を吐いた。


それから、杣道の奥の野営地で残りが見つかった。


荷駄の番と、見張りと、戦える歳でも体でもない者。都合9人。ハイラムの別働が囲んだとき、抵抗は一切なかったという。武器を集めて束ね、自分から差し出した男がいたからだ。


30がらみの、瘦せた、目の静かな男だった。縄を打たれながら、男は暴れもせず、値踏みの目で村の防備を眺めている。恐怖で竦んでいる残りの連中と、その男だけが、別の生き物に見えた。


「名は」と彼女が訊いた。


「ヴェンツェル」と男は答えた。「あんたが、噂の表を貼る代官か」


「ええ」


「……境の杭。あれは、こうなると知ってて打ったな」


彼女は答えず、捕虜を蔵の前へ並ばせた。


松明の灯りの下で、勘定が読み上げられた。賊、死んだ者22。捕えた者、杭の内で5——頭目を入れて。杭の外の野営地で9。こちらの手負いは、傭兵が2人と村の男が3人、いずれも浅い。死んだ者、なし。


死者、なし。


92人の閂の内側も、槍衾も屋根の上も、誰ひとり欠けなかった。その数字を聞いたとき、村の男たちの間から、押し殺した嗚咽のような声が漏れた。安堵というものはああいう音がする。


後始末の指図は勘定よりも先に飛んでいた。


手負いの傭兵2人と村の男3人は教会へ。閂は中の声を確かめてから開けさせ、人数を数える係の少年に、入る者の名前を言わせた。92が97になる。それを確かめてから、彼女は手当ての順を自分で割った。深い者から。浅い者は白湯で待たせる。テオは額を割られていたが、浅いと言われて、安心したのか急に喋り出した。俺ぁ見ました、溝でね。こう、どさどさっと。そんな興奮の止まらない男の声が、教会の中の張り詰めた空気を少しずつ解いていくのが、傍で聞いていて分かった。


教会の入り口では、母親たちが手当ての列の外から、それぞれの亭主の無事を目で数えていた。声を出して呼ぶ者はいない。閂の内で半夜を過ごした側にも、外で槍を構えた側にも、まだ夜の続きの顔が残っている。湯を沸かす竈の火だけが、いつもの炊き出しと同じ顔をしていた。


死んだ22人は夜のうちに杣道の脇へ並べさせた。放っておけ、と吐き捨てた傭兵に、彼女は短く答えていた。


「凍る前に並べなさい。数えるのと、検めるのが残っていますわ」


並べる仕事は村の男たちには酷で、結局、傭兵と俺とで運んだ。担いだ背中にはまだ温かいものもあって、その温みの分だけ、夜は長かった。


死体すら、帳面の外には置かない。それがあの人の流儀だと、このときにはもう、村の誰もが分かり始めていた。


彼女は並んだ捕虜の前に立った。


「杭の内に入った者。あなたたち5人は、夜明けに処刑します」


ざわめきすら、なかった。捕虜たちには言葉が腹に落ちるまでの時間が要って、落ちた瞬間、若いのがひとり膝から崩れた。


「お、俺たちは投降した! 武器も捨てた! 殺すのか、それでも——」


「殺します」


声は平らなままだった。


「あなたたちが越えたのは、ただの杭ではありませんの。この谷の、内側と外側の境です。内側に手を出した者を生かして帰すと、二度目が来ます。二度目には、もっと大きな群れで」


「な、なら、最初から言え! あの杭にそんな意味があるなんて——」


「言いましたわ」彼女は男を見下ろした。「あなたたちの斥候に、この村の全部を見せて、帰しました。それが警告です。読み違えたのは、あなたたちの頭目」


縛られた頭目がようやく顔を上げて、何か汚い言葉を吐いた。彼女は取り合わなかった。


「杭の外にいた9人は、明日の朝、選別します。今夜は水と、火を許します」


捕虜が引き立てられていくのを見送っていると、ハイラムが隣に来て、火打ちで煙草に火を点けた。


「初陣……でもねえか。けど、ああいうのは初めてだろう」


「……ああいうの、とは」


「逃げる背中を射る方さ」傭兵は煙を吐いた。「言っとくがな、騎士様。俺は20年この稼業だが、夜襲を仕掛けてきた群れを、追撃なしで、囲んで、一晩で根切りにした戦は初めて見た。普通はやらねえ。できねえからだ。逃げ口をわざと開けて、逃がして、終わりにする。その方が楽で、安くて——」


「……来年、また来る」


「そういうこった」ハイラムは、蔵の前の小さい背中を顎で指した。「あのお人は、楽な方と安い方を、最初から数に入れてねえ。高くつく方を、先に、まとめて払う。……どこのどなたさんだろうな、ありゃあ」


俺は答えを持っていなかったから、代わりに自分の手が今ごろになって細かく震えているのに気づいて、剣の柄を握り直して止めた。震えの理由が人を斬ったことなのか、刈り入れを見たことなのか。それとも死者なしの勘定に安堵した自分がいることなのか。夜のうちにそれを分けるのは無理だった。


それから彼女は俺の方を——正確には、俺の隣の闇を見て、夜番の傭兵に言った。


「縄を、5本。夜明けまでに支度なさい」


蔵の軒に、松明がひとつ、じりじりと燃えていた。俺は自分の手の中の剣を見た。血を吸った刃に、火の色が映って揺れている。これを拭いて、鞘に納めて、それから夜明けが来る。


縄が5本。


夜明けまで、あと三刻もなかった。

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