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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第6話「彼女は数を見ている」

翌朝から、村は二重の工事を始めた。


表向きは水路の浚渫だ。冬の前に溝をさらい、土手を直す。どこの村でもやる季節仕事で、誰が見ても怪しくない。だが、溝の幅と深さが、場所によって妙に念入りだった。村の北側、蔵へ抜ける一本道に沿った溝だけが、人の腰まで掘り下げられている。掘った土は道の反対側に積まれていく。


「水路にしちゃあ、深いな」と俺は言った。


「水も流れますわ」と彼女は答えた。「人も落ちますけれど」


縄張りを引いたのは彼女自身だ。朝のうちに村を一周して、杭を打つ場所を指で示していく。ハイラムが後ろをついて歩いて、時々ほう、と短い音を出した。感心したときの癖だと、もう分かるようになっていた。


それから彼女は村境の話をした。


谷への入り口は三つ。街道筋と川沿いと北の杣道。その三つに、白く塗った杭を打たせた。古い境界石は苔をこそげて、同じ白で塗り直させた。月のない夜でも見える白だ。


「ここから内が、ヴェルデンですわ」


杭を確かめながら、彼女は言った。誰に向けた言葉なのか、そのときは分からなかった。村の連中はとっくに境なんて知っている。知らないのはよそから来る者だけだ。


杭の白は教会の物置から出た石灰を水で溶いたものだ。塗り役を割り振られた村の年寄りが2人、刷毛を持ったまま、これは何のまじないでと真顔で訊きに来た。「境ですわ」と彼女は答えて、それ以上の説明をしなかった。説明は後日、別の形でされることになる。


夕方の軍議は執務室で開かれた。軍議という言葉を使ったのはハイラムで、彼女は「冬支度の打ち合わせ」と呼んでいたが、机に広がっているものは谷の地図と矢の本数の書き付けだった。


「矢は?」


「持ち込みが60。村の納屋から猟弓が4張と、矢が23。鏃の打ち直しをグンナルにやらせてる。あの野郎、鍛冶場に火が入ったら人が変わりやがった」


「弓を引ける者は」


「うちの8人のうち3人。村の猟師あがりが2人。都合5人」


「足ります。壁の上から射るだけですもの」彼女は地図の上で、北の一本道をなぞった。「賊の数は30から40。飢えた群れがそれ以上だと、斥候を一人で出す余裕はありません。得物は鉈と槍が主で、弓は数えるほど。頭目には馬がいるでしょうけれど、群れは徒歩」


「……斥候の野郎の足取りだけで、そこまで読むかい」


「読んだのではなく、数えましたの。あの男が村で訊いて回った質問の数と、順番を」


彼女は指を折った。蔵の場所、見張りの人数。新入りの強さ、井戸の位置。それから——配給の表。


「奴らがいちばん長く眺めていったのは、麦ではなく、あの表ですわ。並ぶ村は、まとまる村。まとまる村は、手強い。だから頭数で一気に潰しに来ます。間口の広い街道筋からではなく、見張りの薄い北からね。狙いは蔵と、冬の前の最後のひと稼ぎ」


ハイラムは腕を組んで、長いこと地図を見ていた。それから、組んだ腕のまま彼女を見た。


「お頭。あんた、どこでそれを習った」


お頭、と呼んだのはそれが初めてだった。彼女は訂正せず、質問への答えもしなかった。


「持ち場の割り振りを、夜までに出しなさい。それから、退き口をふたつ。勝っている時用と、負けている時用ですわ」


工事は5日続いた。


並行して、ハイラムは村の男を鍛え始めた。と言っても剣を持たせるのではない。持たせたのは先を尖らせて火で焼いただけの槍だ。


「いいか、お前らに賊と斬り合えとは言わねえ。言ったら俺が女主人に縄にされる」傭兵は並んだ20人ばかりの前を、煙草を咥えてうろついた。「お前らの仕事は三つだ。持ち場に立つ。槍を外へ向けて構える。叫べと言われたら腹から叫ぶ。以上だ」


「……それだけで、いいんですかい」と若いのが訊いた。


「それだけが、できねえんだよ、素人は」ハイラムは槍の穂先を顎で指した。「夜中に賊の面ぁ見て、持ち場を捨てて女房のとこへ走る。それが一人出ると、穴が開く。穴が開くと、そこから全員死ぬ。だからお前らの敵は賊じゃねえ。自分の足だ」


初日の稽古では並んだ槍の半分が、構えるたびに穂先を泳がせた。ハイラムは怒鳴らない。泳ぐ槍の根元を蹴って直し、隣同士の肩が触れる間隔まで列を詰めさせた。「触れてりゃ、隣が逃げりゃすぐ分かる。分かりゃ、てめえの足も踏みとどまる」。なるほど、稽古というのは槍の使い方ではなく、人の弱さの設計図なのだった。


訓練は朝晩の半刻ずつ。配給では仕事扱いで第1の順。グンナルの鍛冶場は夜まで火が落ちず、打ち直された鏃が、日に十いくつずつ矢柄に挿さっていった。あの割り込みの大男は、いまや村でいちばん帳面に載る男になっている。


教会では別の段取りが進んでいた。


合図の鐘が鳴ったら、子どもと年寄りと病人は教会へ。彼女が指定した避難の順は、配給の順とは逆さまだった。歩けない者から先に運ぶ。運ぶ係、戸を閉める係、人数を数える係。数える係には字を覚えた司祭の手伝いの少年がまた充てられた。


「人数が合わなかったら、どうします」と少年が真顔で訊いた。


「合うまで数えなさい。それでも合わなければ、誰がいないかを私に言いに来なさい。あなたの仕事は、探しに走ることではありませんわ。——走るのは、大人の仕事」


ヨーゼフ司祭は段取りの一切に否やを言わなかった。最後にひとつだけ訊いた。賊とて神の子。教会の扉は彼らにも開いておくべきでしょうか、と。彼女の答えは短かった。


「鐘が鳴ったら、閂を。神の子の選別は、外で私がしておきます」


司祭は十字を切った。彼女のためにか、賊のためにか、自分のためにか。多分、全部だ。


その間も彼女は帳面を離さなかった。配給の列で、彼女が柄杓を持つ手を止めて、列の中ほどの男をじっと見たことがある。屋根葺きのマルコという男だ。本人は何も言っていない。順番どおりに並んで椀を出しただけだ。


「マルコ。今日から3日、溝の仕事を外れなさい。配給は第1のまま。代わりに縄を綯いなさい、座って」


「は……? いや、おれはまだ働け——」


「あなた、今朝、溝で二度よろけましたわね。家の薪も、女房に運ばせている。胸が痛むのを隠して土を担ぐ男は、4日目に倒れますの。倒れられると、戸板と人手が2人分、無駄になりますわ」


マルコは言われた通りになって、村の連中は薄気味悪そうに首をすくめた。あの代官は見ている。誰がよろけたか、誰の咳が長引いているか、誰の女房が代わりに薪を運んだか。帳面の数字と突き合わせて、倒れる男を倒れる前に座らせる。


魔女だ、と囁いたのは粉挽きの女房で、その囁きはなかなか消えなかった。本人の耳にも届いたはずだが、彼女は気にも留める様子がない。もっとも、ゲルダの婆さんがその囁きに応えたのは、配給の列で俺も聞いた。


「魔女ねえ」と婆さんは言った。「あたしらが飢えてた時にゃ、誰もあたしらを見ちゃくれなかったがね。魔女さまは、見てなさるよ。気味が悪いほどな」


褒めているのか貶しているのか、例によって分からない。それでも、列の何人かが、黙って頷いたのは見えた。


魔女と囁いた当の粉挽きの女房も、次の朝には繕い物の届けを出しに来ていた。怖さと頼もしさが、この村では同じ鍋から注がれている。


揉めたのは薪の件だった。


防柵の杭が足りない。彼女は村の納屋という納屋を検めさせて、使える木材を供出させた。その中に、墓地の脇の小屋にしまってあった棺板が入っていた。冬の死者のために、村が昔から備えてある板だ。


ブレヒトがさすがに青い顔で抗弁した。


「代官様、あれだけは……あれは、死んだ者の」


「死んだ者は、柵がなくても文句を言いません。生きている者は、柵がないと死にますわ」


「で、ですが、もし冬に誰か死んだら、棺なしで埋めろと」


「弔いは、冬が明けてからまとめてなさい。私も出ます」彼女は帳面から目を上げずに続けた。「それまでは、布で包んで埋めなさい。板は生者に回します。——ブレヒト。私は死者を軽んじているのではありませんの。順番の話をしています」


村長は何度か口を開けて閉じて、結局、板を出した。棺板が防柵に変わっていくのを、村の年寄り連中は遠巻きに見ていた。罰当たりだという顔と、それでも柵が一段高くなるのを数える顔が、同じ顔の上に同居している。


ついでに言えば、ザルテンの市で彼女が最後に買わせたものは鵞鳥の6羽だった。食う気かと思えば、絞めることは許さないという。犬の絶えた村では、これがいちばん安い番犬ですの——と。鵞鳥どもは館の裏で我が物顔に肥えて、知らない足音にだけ、首を伸ばして喚いた。


配給の見張りに立っていたある夕方、ゲルダの婆さんが、椀を受け取ってから俺の前で止まった。


「騎士様や。あんた、王都の生まれかい」


「……騎士家の三男だ。王都の外れの」


「ふうん」婆さんは粥をひと口啜って、上目で俺を見た。「王都じゃあ、ああいうお人は、どう呼ばれるんだね」


どう、とは。罪人、と言いかけて、やめた。悪役。毒婦。裁きの場で飛んでいた呼び名なら、いくらでもある。黙っていると、婆さんはひっひっと笑った。


「言えない顔をしなさる。正直なこったね」


杖の音が遠ざかってから、自分がなぜ言えなかったのかを考えた。夜までかかって、答えが出なかった。


夜、俺は最初の月次報告を書いた。


着任からの分を起きた順に。死者の帳面のこと。配給の順位とその公開。病人の選別。傭兵の雇用。書きながら、何度もペンが止まった。事実だけを並べているのに、紙の上のあの人は、読みようによって全く別の人間になる。飢えた領地を立て直す代官にも、領民を数字で選別する怪物にもどちらにも読める。


書き終えて、封をする前に一応本人に告げた。報告を出します、と。中身を検めるかと思ったが、彼女は帳面から顔も上げなかった。


「ありのままに書きまして?」


「……書きました。病人の選別のことも、棺板のことも」


「結構ですわ」


それきりだった。王都でこの紙がどう読まれるか、考えていないはずがない。考えた上で直させない。俺は封蝋を落としながら、自分がどちらの側の人間なのか、初めて本気で分からなくなった。


報告の早馬が発った翌々日の夜だった。


犬の代わりに番をしている例の鵞鳥どもが、北の杣道の方で一斉に騒いだ。


続けて、見張り櫓の鐘が二つ鳴った。二つは北の合図だ。


俺が館を飛び出すと、彼女はもう外にいた。寝間着ではない。昼の服のまま、手袋まで嵌めて、まるで時刻まで知っていたような身支度で夜空の下に立っていた。


北の尾根の上に火がひとつ。ふたつ。


野営の火だ。隠す気のない火。あれだけの群れになると、夜の山で火を我慢できない。ハイラムの読みでは雪の前、彼女の読みでは北の杣道。どちらも当たった。


村のあちこちで戸の開く音がして、すぐに彼女の決めた段取りの音に変わっていく。教会の方で、子どもを呼ぶ母親の声。広場へ走る、訓練どおりの重い足音。鐘はもう鳴り止んでいて、夜気は煮えた鉄のにおい——グンナルの鍛冶場の残り香を北風が運んでくる。


「ハイラムを呼びなさい」


声はいつもの麦と塩の声だった。


「お客様ですわ」

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