第5話「品定めされている」
ザルテンの市は峠をひとつ越えた先にある。
行きは馬車1台と馬が2頭。供は俺と、荷駄の扱いに慣れた木挽きのテオだけだ。護衛が俺一人というのが心許ないという話は出発前にもした。彼女の答えは身も蓋もなかった。
「ですから、帰りまでに増やしますの」
市は思ったより賑わっていた。賑わいの中身はよく見ると偏っている。南の谷々の不作で麦は高く、買えるのは懐の重い者だけ。市の隅には他領から流れてきたらしい家族が座り込んで、道行く者に手を出していた。ヴェルデンの隣人たちだ。どこの谷も台所は似たり寄ったりということになる。
市の立つ広場は雪の前の駆け込みで足の踏み場が斜めだった。荷紐の軋み、量り売りの口上、凍りかけの泥を踏む長靴の音。焼き栗の屋台の前だけ人垣が厚くて、においだけ嗅いで離れていく子どもが何人もいる。テオが懐の銭を数える顔をして、結局、手を出さずに荷台へ戻った。
彼女はまず宝石商の天幕に入った。
母の形見だという首飾りが、ビロードの上に置かれる。石はいいが台が古い、この御時世に宝石は動かない、と商人が並べる口上を彼女は最後まで黙って聞いた。それから提示された値段も聞いて、頷きもせずに言った。
「結構ですわ。では隣の市へ持っていきます。——ところで、王都のロートシルト商会のザルテン支店は、この通りの先でしたかしら」
商人の顔色が変わって、値は最初の口上の倍まで戻った。売ったのは半分だけ。残りは仕舞った。天幕を出てから、テオがこっそり俺に囁いた。あの商会の名前、効きましたなあ。後で知ったがロートシルト商会のザルテン支店なんてものは存在しない。存在しそうな名前を、存在しそうな口調で言っただけだ。外への嘘はあの人の中では道具の棚に入っているらしい。
麦の買い付けにも半刻かかった。
穀物商は最初、ヴェルデンの名を聞くと首を振った。あの谷に売ると、銭の代わりに泣き言が返ってくる、というのが街道の相場らしい。彼女は銀貨を先に積んだ。それから、春からは取れた麦をこの店に優先で卸す、という一筆を付けた。
「春に麦が取れる保証がどこにありますんで」
「ありませんわ。ですから、優先権はただで差し上げますの。外れても、あなたは今日の銀貨で損をしない。当たれば、街道のどの店より先にヴェルデンの麦を握れます」
商人は一筆を二度読み返して、麦を2袋、値引きの代わりに上乗せした。賭け金のつもりらしい。帰り際、商人は俺に向かって妙な太鼓判を押した。おたくの代官は商人になっても食っていけますぜ、と。
天幕を出たところで、市の隅の座り込んだ家族と、もう一度すれ違った。母親が物乞いの手を、彼女の方にも伸ばす。彼女は足を止めて、施しはしなかった。代わりに訊いた。どこの谷から来たのか。働ける者は何人か。家族は答えて、彼女は「ヴェルデンでは仕事に出た者から食べられます。来るなら冬の前になさい」とだけ言って歩き出した。施しの銅貨より重いのか軽いのか、俺には量れない。母親は伸ばした手を下ろして、ぽかんとしていた。
麦は12袋、豆を4袋、塩漬けの魚を2樽。種の蕪と冬菜も買い、荷馬車が沈むほど積んで、それでも宝石の半分の金は残った。残りの使い道が市のはずれにあった。
傭兵の溜まり場だ。
酒場というより、戦の口入れ屋に近い。秋の戦役が終わって、冬を越す雇い口を探す連中が、樽を椅子にして安酒を舐めている。女子どもの来る場所じゃない。まして貴族の娘が踏み込む場所じゃない。彼女は入り口で一度立ち止まって、店の中を端から端まで見渡した。値踏みの目つきが、いっせいにこちらを向く。
彼女が真っ直ぐ歩み寄ったのは、奥で一人、革鎧の留め具を繕っていた白髪まじりの男だった。
「お前さん、道を間違えたろう」と男は顔も上げずに言った。
「ヴェルデンの代官です。冬のあいだ、蔵と村を守る剣を8本、買いに来ましたの」
「ヴェルデン」男は留め具から目を上げた。50がらみ。頬に古い傷。目だけが若い。「あの飢えた谷か。傭兵に払う麦があるなら、領民に食わせな」
「領民に食わせる麦を守るための剣ですわ。日当は相場どおり、麦と銀貨で半々。前金は1割。寝床は代官館の焼け残り、飯は領民と同じ配給」
「相場どおりで、飯は薄い粥かい。割に合わねえな」
「代わりに、勝てない戦はさせません」
男の手が止まった。
「……ほう?」
「守るのは蔵と井戸と水車だけ。野戦はしない、追撃は深追いしない、夜襲は受けるのではなく待ち構える。あなた方を消耗品として使う気はありません。死なれると、雇い直しの方が高くつきますもの」
店の中の何人かが笑った。男は笑わない。革紐を置いて、初めて体ごと彼女に向き直った。
「規則はあるかい。俺は規則のねえ雇い主の下で、二度死にかけた」
「三つだけ。命令の筋は私からあなた、あなたから配下へ。略奪と乱暴は縄。それから——」彼女の声は、そこだけ少し平らになった。「領の内側に手を出した敵は、必ず殺します。逃がさない。二度目を与えない。その命令に、迷う者は要りません」
沈黙。男は彼女の目を、たっぷり数えるほど見ていた。それから、にやりともせずに手を出した。
「ハイラムだ。あと7人、保証できる面子を集める。前金は今夜中にくれ」
「ディートリンデですわ。契約の証文は2通、字の読める者を立会いに」
「傭兵相手に証文たぁ、ご丁寧なことで」
「証文のない約束は、破られたときに高くつきますの」
握手はしなかった。彼女が手袋を外さなかったからだ。ハイラムはその手袋をちらりと見て、何か言いかけて、やめた。
前金はその足で両替商に寄って作った。布袋の銀貨を、彼女はハイラムの目の前で1枚ずつ数えさせた。数え終わると、受け取りの証文に8人分の名を書かせる。字の書けない者は、印の代わりに小刀で刻みを入れた。「名前は、私が覚えますわ」。傭兵たちが顔を見合わせたのは、日当の額を聞いたときではなく、その一言のときだった。
帰りの荷馬車には、麦と豆と魚と傭兵が8人ついた。揃いも揃って人相が悪い。テオは手綱を握ったまま借りてきた猫みたいになっていた。だが峠の楢の木のあたりで、ハイラムが部下に出した指示を聞いて、少し背筋を伸ばした。先行2人、左右の斜面に1人ずつ、殿2人。荷を狙うならここだ、という場所で、ちょうど網が開くようになっている。
「あんたが騎士様か」と、並んで歩きながらハイラムが言った。「王都の辞令でお守り役たぁ、貧乏くじだな」
「……否定はしない」
「だがまあ」男は前を行く箱馬車を顎で指した。「くじの中身は、聞いてたのと違うかもしれねえぜ。傭兵を飯で釣らずに、勝ち方で釣る雇い主ってのは、めったにいねえ」
谷に戻ると麦は蔵に入った。修理を終えたばかりの蔵に錠が二つ。見張りの番が組まれ、ハイラムの連中が村の中に散った。
傭兵が8人も入った村は、最初の2日、戸が固かった。子どもを家に入れ、娘を裏へ隠す。賊と傭兵の区別は、やられた側には付かないものだ。彼女はそれを見越して、着いたその日に広場の板の隣へ、新しい紙を貼らせた。傭兵の規則と破った者の罰。略奪は縄、乱暴は縄。付け馬代わりの威し文句ひとつでも、届けが出れば日当は没収。そして、届けの先は代官。
3日目に最初の届けが出た。ハイラムの配下の若いのが、井戸端で水汲みの娘をからかったという。彼女は当人と娘の双方から話を聞いて、その日の日当を半分没収し、半分を娘に払わせた。傭兵たちは騒がなかった。ハイラムが黙っていたからだ。後で俺が訊くと、傭兵は煙草を咥えたまま言った。
「規則どおりに罰する雇い主ってのはな、騎士様、規則どおりに払う雇い主ってことなのよ。あいつらもそれくらいは分かる」
4日目から、村の戸が開き始めた。蔵に麦が入るのを見た村の連中の顔は、祭りの前日のそれだ。たぶん、谷の全員が同じことを考えていた。これで冬を越せるかもしれない、と。
魚の樽がひとつ開けられた日には、塩漬けの鰊が一人半尾ずつ椀に載って、列の進みがいつもの倍は遅かった。誰もが椀を受け取ってから二歩歩いて、立ち止まって、もう一度椀の中を見るのだ。粥に魚の油が浮くだけで、人の背筋はあれほど変わる。
彼女ひとりが別のことを考えていた。
「レンツ。例の行商人、まだ村にいますわね」
いた。順番の表を眺めていたという男だ。買い出しの留守のあいだも村に残って、鍋直しの触れ売りをしながら、やたらと世間話をしていったという。ブレヒトの女房相手に、蔵は直ったのかい、見張りは何人だい。新しく来た連中は強そうかい、と。
ハイラムに人相を伝えると傭兵は即答した。
「斥候だ。鍋直しの道具、見たかい。砥石が新品のまんまだとよ。商売道具が減ってねえ商人なんざいるかよ」
「捕えましょう」と俺は言った。「締め上げれば、巣の場所も吐く」
「いけません」
彼女だった。執務室の机に、谷の手描きの地図が広がっている。
「なぜです。賊の下見だと分かっていて——」
「分かっているから、ですわ。斥候が戻らなければ、群れは警戒して散るか、別の獲物を探します。このあたりで次に襲いやすいのは、どこだと思いまして?」
地図の上で、手袋の指が峠の向こうを指した。ザルテンへの道すがらに見た、市の隅の座り込んだ家族の顔が浮かんだ。守る剣のない、よその谷の村々。
「散らせば、奴らはよそを食って、太って、いずれ戻ってきます。逃した賊がどうなるかは——あなたも、知っているでしょう」
楢の木の下の盛り土。俺は頷くしかなかった。
「ですから、帰してあげなさい。土産を持たせて」
土産の中身はその晩のうちに仕込まれた。蔵の錠はわざと古い方に掛け替えられ、傭兵たちは飲んだくれの役を振られる。ハイラムは「火急の雇いで半分は峠向こうに出払う」という嘘話を、酒場で景気よく喋った。村は実際より太って、実際より手薄に見えるよう、化粧されていく。
3日後の朝、鍋直しの行商人は谷を出ていった。
荷を検める振りで、俺は男と言葉を交わした。愛想のいい、歯の白い男だった。世話になったね騎士様、いい村だ、また春に来るよ。背中の荷より、目方のある土産を持っていることは、互いに口にしなかった。
男の姿が峠に消えると、隣でハイラムが煙草の煙を吐いた。
「……ありゃ、来るぜ。雪の前だ」
「分かるのか」
「斥候の足取りでな。急いで帰る斥候は、報せる相手が腹を減らしてるってことよ」
彼女は館の前でその報告を聞いた。聞き終えて、ひとつだけ指示を出した。
「では、墓掘りを4人、雇いなさい」
「……墓、ですか」と俺は訊き返した。「誰の」
彼女は地図を畳みながら、こともなげに答えた。
「さあ。それを決めるのは、向こうですわ」
夕暮れの広場では、配給の列がいつもどおりに並んでいた。粥のにおいと、子どもの声と、傭兵の見回りの足音。守るものが増えるというのは、こういう静けさのことかと思いながら、俺は峠の方を見た。
雪雲がもう尾根の高さまで降りてきていた。




