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うちの悪役令嬢は慈悲を知らない。だから俺たちは生きている  作者: 夜凪 蒼


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第4話「パンの順番」

貼り出しの前の晩、俺は一度だけ訊いた。


「本気で、貼るんですか。順番を全員に見せたら、後ろにされた連中が黙っていない」


執務室の机で、彼女は表を清書する手を止めなかった。


「レンツ。順番を隠して配ると、何が起きると思いまして?」


「……揉め事が、減る?」


「逆ですわ。隠れた順番は、必ず『誰かが贔屓されている』という話になります。妬みは闇の中でいちばん太りますの。表は、刺されても破かれても、貼り直せばよろしい」


ペンが表のいちばん下の行を書いた。自分の名前を、自分の手で列の最後に。書き終えてから、彼女はちらとこちらを見た。


「それとも、私の順番を真ん中あたりに紛れ込ませて差し上げましょうか。揉め事は、きっとそちらの方が増えますわよ」


冗談なのか試しなのか分からない言い方だったので、俺は黙ってにかわの鍋を火にかけた。


板は夜明け前に立てた。


広場のいちばん目立つ場所、井戸の脇だ。にかわのにおいのする大きな紙には、彼女が一晩かけて書いた表が並んでいる。墨の字は定規を当てたみたいに揃っていて、書き損じはひとつもない。貼り終えたとき、東の尾根がようやく白み始めた。


にかわの鍋を提げて戻る道々、指先がかじかんで、刷毛を二度落とした。広場にはもう人の気配がある。誰かが戸の隙間からこちらを窺って、引っ込んで、それから隣の家の戸を叩く音がした。字より先に、紙の大きさが噂になって走っていく。


配給の刻限より早く、人が集まり出した。字の読める者は少ない。それでも紙の前に人垣ができて、押し合いになって、結局ブレヒトが台の上に乗せられた。村長は紙と群衆を交互に見て、すがるように彼女を見て、逃げ場がないと悟ると読み上げ始めた。


「だ、第1の順……領の仕事に立つ者。水路、水車、蔵の修理、配給の手伝い、見回り……仕事に出た日は、その日の配給が、いちばん先になる……」


ざわめき。まだ困惑のざわめきだ。


「第2の順、10にならない子どもと、身ごもった女。第3の順、病の者のうち、医者……代官様が、戻ると見立てた者。第4の順……」


ブレヒトの声がそこで一度つかえた。


「……第4の順。働きに出られない者。年寄り。身寄りのない者」


ざわめきの質が変わった。低く、唸るような響き。誰かが「年寄りは死ねってことか」と言うのが聞こえて、それが薪に火がつくみたいに広がった。働けなくなったら後回しか。親父は谷のために40年鍬を握ったんだぞ。人垣が板に詰め寄りかけて——


「最後の順」


彼女の声がした。台の上でも何でもない、人垣のいちばん外から。けれどあの声はどういうわけか騒ぎの芯まで通る。


「最後の順は、紙のいちばん下に書いてあります。ブレヒト、読みなさい」


村長は紙の下端に目を落として、二度読み直してから、声に出した。


「……『代官、ディートリンデ・フォン・アルテンブルク』」


広場が静かになった。


「この谷でいちばん最後に椀を受け取るのは、私です。鍋が空になる日は、私から食べ損ねます」彼女は人垣を縫って前に出た。誰も道を塞がなかった。「その上で、言っておきますわ。順番は私が決めました。気に入らない者は私を恨みなさい。ただし、順番を破る者は——誰であれ、その日の椀はありません」


「な、何で年寄りが後なんだ!」


声を上げたのはまだ若い男だった。彼女はそちらへ顔を向けて、隠しもせずに答えた。


「働き手が倒れれば、水路も蔵も配給も止まって、全員が死ぬからです。子どもが死ねば、この谷は10年後に死ぬ。だから先に守ります。年寄りを憎くて後ろに置くのではありません。順番というのは、誰かが必ず後ろになるという意味です。私はそれを、隠さないだけ」


「綺麗事だ! あんたは貴族だ、腹が減ったことなんか——」


「ええ、ありませんわ」


即答だった。男の方が怯んだ。


「私は飢えたことのない人間です。だからこの順番は、飢えたことのない人間の冷たい算術です。それでも、目をつぶって誰かを贔屓するよりはましなものだと思っていますの。——不服のある者は、いつでも執務室へ。帳面と一緒にお待ちしています」


人垣の後ろの方で、嗄れた笑い声がひとつ漏れた。


振り向くと、腰の曲がった婆さんだった。継ぎだらけの肩掛けに薪のような手首。第4の順に真っ先に入る側の人間が、何がおかしいのか、ひっひっと笑っている。周りが気まずそうに距離を取る中で、婆さんは誰にともなく言った。


「……帳面と一緒に待ってる、とさ」


それだけ言って、杖を突いて列の方へ戻っていく。ゲルダという名前だと、配給の帳面で知った。身寄りなし、川下の独り住まい、第4順。あの粥の初日に、椀に口をつける前に彼女を長いこと見ていた婆さんだった。


その日の配給で最初の試しが来た。


鍛冶場跡に住み着いているグンナルという大男が、列の前の方に割り込んだ。腕っぷしで言うことを聞かせるのに慣れた男で、並んでいた連中は目を伏せて黙る。鍋の前まで来て、椀を突き出して、注がれるのを待った。


彼女は柄杓を動かさなかった。


「お名前は」


「……グンナルだ」


「帳面では、あなたの番はまだ後ろですわ。列へお戻りなさい」


「俺は今日、薪を割った。仕事に出た者が先なんだろうが」


「薪割りの届けは出ていません。仕事は、届けて、帳面に載って、初めて仕事ですの」彼女は柄杓を鍋の縁に置いた。「今から戻れば、椀はあります。このまま居座るなら、今日のあなたの分はありません」


グンナルの首が赤くなった。男の拳が固まるのを見て、俺は剣の柄に手を掛けて間合いを詰める。大男は俺を見て、彼女を見て、列の連中の視線を背中に数えた。それから舌打ちして、列の尻へ歩いていった。


着いた先で、婆さんのゲルダが横にずれて、半歩分の場所を空けてやっていた。皮肉なのか親切なのか分からない半歩だ。グンナルは何か言いかけて、やめて、その半歩に収まった。


列の途中ではもうひとつ揉めた。


幼子を抱いた母親が、自分の番で椀を2杯求めたのだ。この子の分を先に今ここで。子どもは第2の順で、母親より先に受け取れることになっているが、母親は信じていなかった。鍋が先に空になると思っている。ふた月、そうやって裏切られてきた腹だ。


「お子さんの分は、子どもの番で必ずあります」


「そんなもん、信じられるか! 空になったら、あんた、この子に何て——」


「空になりません。今日の量りは、並んだ全員の頭数で割ってあります」彼女は帳面を、母親の方へ向けて見せた。読めるかどうかは関係ない。数字がそこにある、ということを見せた。「それでも信じられないなら、子どもの番まで、私の隣で鍋を見ていらっしゃい」


母親は本当に鍋の脇に立った。両腕で子どもを抱え直して、柄杓の一杯一杯を、検分するみたいに数えて。鍋の湯気が母子の頬を湿らせていく。子どもは途中で母親の肩に顎を載せて眠ってしまい、それでも母親は数えるのをやめない。やがて子どもらの番が来てわが子の椀に粥が注がれたとき、母親は彼女の顔をまじまじと見て、何も言わずに頭をひとつ下げた。礼というより、降参に近い角度だった。


翌日、薪割りの届けが3件、出た。


その翌日には水車の修理に7人が出た。第1の順というのが絵空事ではないと知れたからだ。仕事に出れば、その日の椀が先になる。その一行が表に載っただけで、ふた月戸口に座り込んでいた連中が、道具を探して納屋を漁り始めた。ホルバッハの水車は5日で回った。軸の挽き直しをやった木挽きは、得意げに削り屑を帽子に挿して配給に並んだ。


水車が回った日、彼女は枝村まで馬で出て、最初のひと臼が挽き上がるのを黙って見ていた。挽きたての麦の粉のにおいというのは妙なものだ。腹の足しになる前から、人の顔つきを変える。水車小屋の周りに集まった連中は、粉袋を覗き込んでは、意味もなく互いに頷き合っていた。臼の音は止まっていたふた冬分を取り返すみたいに重くて規則正しい。男たちが代わる代わる挽き口に手をかざして、粉の温みを確かめていく。挽きたての粉はほんのり温かいのだ。俺もこの日に知った。


帰り際、村の衆が初めて、隠れずに道の端で彼女の馬に頭を下げる。ふた冬止まっていた水車を、着任半月の代官が回した。挽き臼の音ひとつが、人の頭の下げ方まで変える。この谷の飢えはそういう深さまで暮らしに食い込んでいたということだ。


「届け出の窓口を、ブレヒトの家にも置きますわ。仕事の口は、館まで歩けない者の分まで考えなさい。川ざらい、縄綯い、座ってできる繕い物——第4の順の者にも、出られる仕事を」


馬上で彼女はもう次の指示を出していて、俺は手帳代わりの頭でそれを覚えながら、ふと気づいた。座ってできる仕事が増えれば、第4の順は、順位ごと痩せていく。あの表は下の段の人間を上の段へ吸い上げる仕掛けまで織り込んである。


縄綯いの口はその週のうちに形になった。藁は屋根替えで出た古藁が回され、座り仕事の届けの一番手は、果たしてゲルダの婆さんだった。綯い上がった縄が、蔵直しの足場を縛っていく。第4の順の椀がついに第1の順で注がれた日、婆さんは列の先頭で、ひっひっと例の笑いを漏らしていた。


夜、執務室で帳面を繰りながら、彼女が言った。


「レンツ。蔵の麦、あと何日だと思いまして?」


「……配給を始めて9日で、6袋消えました。残り12袋。同じ調子なら、ひと月持たないかと」


「ええ。仕事に出る者が増えれば、消える速さはもっと上がりますわ。働く腹は減りますもの」


彼女はペンを置いて、窓板の隙間の暗がりへ目をやった。


「買い出しに出ます。峠向こうのザルテンの市まで。麦と、豆と、塩漬けの魚。それから——」


帳面が閉じられた。


「剣を買いますわ」


「……剣?」


「人を、ですわ。雇うの。槍でも弓でも構いませんけれど」


俺は一瞬、自分の腰の剣を見下ろした。護衛なら、ここにいる。そう言いかけた俺に、彼女は先回りして言った。


「あなた一人では、夜盗の群れから蔵は守れません。そして蔵に麦が入った瞬間から、この谷は襲う値打ちのある土地になりますの。守りは、麦より先に揃えておくものですわ」


襲う値打ちのある土地。麦を買いに行く話をしながら、もう襲われた後の算段をしている。気が早いにもほどがある——そう思いたかったが、峠の楢の下の盛り土を思い出すと、笑う気にはなれなかった。


そして翌朝、出立の支度をしている最中に、ブレヒトが妙なことを言いに来た。


「代官様。ゆうべ、広場の板の前に、見かけねえ男が立っていたそうで」


「見かけない、とは」


「行商人ふうの身なりだったと。けど、売り物も訊かずに、あの順番の紙を……ずいぶん長いこと、眺めていたそうでございます。字が読める様子だったとか」


彼女は手袋の指を一本ずつ確かめながら、ふうん、とだけ言った。


字の読める行商人が、売り物の話もせずに、谷の配給の表を読んでいく。


それが何を「読んで」いたのか、このときの俺はまだ、値踏みという言葉に結びつけていなかった。

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